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新しい年が明けて3月が過ぎ、ようやく報告をwebにアップというのは、あまりにも遅い仕事。通信を支えてくださっている皆さんに申し訳ないな、と反省しています。
おかげさまで、創刊号をはるかに超える充実した内容の通信が出来上がりました。
新企画を3つ立ち上げました。
@シャスティンさん(晴夫さんの長年の友人です)に、ご家族と晴夫さんとのおつきあいや晴夫さんの作品などについて書いていただく。 A瀬崎彊さんに、藍染と紺屋のことなどを書いていただく。 B潮崎誠さんに、久田谷という土地の歴史を書いていただく。
その上で、2号のテーマは、「1953年の瀬崎晴夫」としました。
1953年(昭和28年)は、画家・瀬崎晴夫にとって人生のひとつの転機の年であったように思われます。
1月、ストックホルムのギャルリーモデルヌで催した個展に国王と王妃が来場、親しくお褒めの言葉を賜ります。この個展の成功をバネに、日本でも郷里の豊岡で個展を開催。わずか5点の出品ではありましたが、パリよりももっと遠い北欧の地に足をふんばって絵を描き続けている彼の個展は評判を呼び、新聞にも写真入りで取り上げられました。
5月16日から7月10日までフランスからスペインを旅し、彼は戦後初めてパリを訪れます。パリの下町、ムートン デュベルネには鈴木龍一とマダムマドレーヌ(通称 マドさん)が戦前とおなじアパートに暮らし、自分の絵を描き続けていました。 街のカフエで夜更けまで話し込み、昔話をした、その同じ年に、晴夫はスウェーデン国籍をとっています。 骨を埋める地を、日本でもフランスでもなくスウェーデンに決めたのでしょうか?
そうした疑問に答えを出すのではなく、こういうことがあった年なんです、と、読者のみなさんに語っていきました。
1953年の豊岡での個展を、当時豊岡高校の3年生の若者の目でご覧になった北村正二さんには、個展の印象と晴夫さんの作品の色などについて語っていただきました。北村さんは国画会の先達・須田剋太の薫陶をうけ、「但馬の緑の詩人」と評される仕事を展開しておられます。
今回も翻訳をお願いした金澤佑季子先生には、翻訳だけでなく、編集にも貴重なアドバイスをいただきました。 どうも私はいろんなことを盛り込み過ぎるようでして、先生のおかげで通信全体がすっきりと無駄なく、粋に仕上がりました。
みなさんに、両手いっぱいの感謝を申し上げつつ、読者のみなさんに読んでくださったお礼をここであらためて申し上げます。
2号の表紙を紹介しますね。 「花咲ける果樹園」(櫻桃) 1951年の作品です。
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| ..2013/03/09(土) 14:18 No.441 |
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