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  人は

[2549] 茄子
[2561] りっく
[2562] 天台沙門

Name: 茄子
Date: 2009/05/05(火) 18:54   No:2549
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Title: 人は    
人は神仏のお力添えやお導き無くして神仏には近けませんか?
答えは 正解でしょうか?



Name: りっく
Date: 2009/05/06(水) 17:35   No:2561
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Title: Re:人は    
近づくというのはどういうことでしょうか?

人の状態で神様とお話するなどするということでしょうか?


Name: 天台沙門
Date: 2009/05/06(水) 19:14   No:2562
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Title: Re:人は    
アッシジのフランチェスコは信仰とは無縁の生活を送っていたにもかかわらず神の声を聞いて回心なされたといいます。また、天台宗では比叡山での十二年籠山行に際し「好相行」という「仏に会う/仏を見る」ための修行を積み、実際にそうすることが必須とされます。
聖フランチェスコの場合は「神ご自身が近づかれた」と理解することが可能でしょうし、好相行の場合は「人が努力して近づかねばならぬ」と理解することが可能でしょう。

日本古来の信仰では人は死ぬと神となると信じられていましたし、今でも「七つまでは神のうち」という口碑があります。日本人にとって老いや幼さという死に近い存在は神に近い存在でした。

神仏という何か偉大な存在(Something the great)の思慮・配慮を人が想像することは、ある意味、不遜ではないかと考えます。神仏が援助や指導を与えないことすらも、神仏の加護である可能性を人がどうして否定できるでしょう。人は無条件に偉大な存在に対する敬意をもち、人としての最善を尽くしていくことしかできません。


追伸
>>答えは正解でしょうか?

宗教や信仰というものに対しては、その内的な教学上の問題はさておき、真偽や正誤という判断はありえず、したがって「正解」というものもありえないと考えます。





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