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  見捨てない

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Name: あき
Date: 2009/05/24(日) 12:22   No:2670
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Title: 見捨てない    
はじめまして。
仏さまは誰も見捨てないと聞きましたが、私は数年前から見捨てられたように感じます。あまりに悪くて嫌われてしまったようにも感じます。
私は周りの人たちから嫌われてしまいます。皆嫌いになるような人は、やはり仏さまも嫌いになりますか?私も自分が大嫌いです。



Name: りっく
Date: 2009/05/24(日) 13:05   No:2671
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Title: Re:見捨てない    
何をされたのかわかりませんが、あまり人を傷つけるようなことをすると見放されるでしょう。人殺しとか、自殺に追い込むとか、詐欺をするなど・・・誰が考えてもおかしいということを何度も繰り返し、何の反省もないのであれば神様は気にかけてはくれないかもしれませんね。
そういう理由でもなくただ周りから嫌われていると感じているだけで、見捨てられているように感じているというのであれば、悪いことをしたとおもったときは反省し、ちゃんと信心すればちゃんとみていてくださいますよ。みんなに好かれる人などいないですよ。
あと信心なしに、困ったときだけ手を合わせても神様に声は届きませんからね。^^


Name: nature
Date: 2009/05/24(日) 14:23   No:2672
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Title: Re:見捨てない    
こんにちは。まず、仏教に関していえば、仏様の視点と凡夫(いわゆる悟ってはいない人間です)の視点は違います。

ですので、「皆が嫌いになる人」=「仏さまが嫌いになる」ということはありません。皆が悟って仏の境地にいるのであれば話は別ですが。なお、仏様というのは外にあるものではなく、内にあるものです。

人に嫌われてしまうのであれば、@自分を変える A環境を変える この2つの選択肢がまず考えられるでしょう。Aの場合、@の「自分」の方に根本的に大きな問題があるのであれば、同じことを繰り返す可能性あります。

なにはともあれ、仏教では「縁起」という見方があります。原因と結果の間に「縁」があるのです。貴方が自分を嫌うというマイナスな思いが、「種」となり、それに何らかの状況(縁)が重なって、「人に嫌われる」という状況を今後も作り出してしまう可能性もあるでしょう。

もし「人に嫌われても自分がしたいことをする」「人に嫌われても自分は自分」という考えがあるのであれば、嫌われることは自然な流れかと思います。嫌われることを行って改める気も無く、「嫌われたくない」というのは、ただの我がままでしかないでしょうから。。


Name: 天台沙門
Date: 2009/05/24(日) 14:51   No:2673
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Title: Re:見捨てない    
ご安心ください。仏さまは、誰を見捨てるということもなさいません。

『妙法蓮華経・観世音菩薩普門品』に曰く、「若し無量百千万億の衆生ありて、諸々の苦悩を受けんに、この観世音菩薩を聞きて一心に名を称えれば、観世音菩薩は、即時にその音声を観じて、皆、解脱することを得せしめん」と。


ただし、人が人を見捨てるということはありがちなことで、そのなかでも自分が自身を見捨ててしまうことが多いのではないかと思います。その絶望の果てに神仏が奇跡を現すことは古来から伝えられており、この一点で、逆説的ながら救済されるべき自分自身を諦めることはないでしょう。

ところで「諦める」という言葉ですが、もともとは「あきらかにみる」という意味の仏教語です。好嫌・正邪・善悪などの主観的な価値判断を排して、事実を事実として現実を現実としてうけとめる態度のことです。
釈尊ご自身は「生老病死」という「苦」を逃れるために出家なさいました。
その結果としての釈尊の覚り/悟りの内容は「生も老いも病も死もあたりまえのことである。それを、あたりまえであっては困るという思い込みが、あたりまえのことを苦であると感じさせているにすぎない」と要約できるでしょう。 (註:理論としての縁起説は、この理解の一般化であろう)

自分自身を客観視することのできる高次の自分を作り上げ、なおかつ下位の自分と高次の自分とを統合された人格にすることが、ある種、仏教修行の目的ではないか、と私個人は理解しております。


「理」においては人は孤独であることを甘んじて受け、しかしながら「情」においては神仏の救済をひたすらに信仰するというものが、人のありようではないでしょうか。


Name: あき
Date: 2009/05/24(日) 19:45   No:2676
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Title: Re:見捨てない    
お返事ありがとうございます。
私に問題があるとのこと、私自身そうだと思います。欠点を直そうとしていますが、当たり前ですけどなかなか難しいですね。
改めようとしても一向に改められない人間はだめなのかもしれません。
ありがとうございました^^


Name: nature
Date: 2009/05/24(日) 20:35   No:2677
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Title: Re:見捨てない    
「諸法無我」という言葉をご存知でしょうか。「私と思っているような固定的なものは存在しない」ということです。「自分なんてダメだ」と思っている、その「自分」という固定的な存在はないということです。
一瞬一瞬の自らの行いや心の有り様が、「自分」という今瞬間の「自分」を作っているのです。「ダメ」だと思ってしまう自分というものは、その思った瞬間の自分が「ダメ(と思った自分)」であって、次の瞬間には「ダメ」な自分でも何でもありません。

また、いま「自分」を改めようとしているのであれば、改まる方へと「種」を蒔いているのですから、「縁」が熟したときには「果」として現れることもあろうかと思います。

現代は何でもスピード・スピードで、結果が直ぐに出る、出なければ耐えられないような思考回路がありますが、早く変わったものはまた早く変わりやすいものです。焦らず「縁」や「果」を待つ姿勢も必要かと思いますよ。


Name: 橋本顕正
Date: 2009/05/25(月) 18:48   No:2678
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Title: 見捨てたふりかも    
実は! 仏さんだって嫌われてるんですよ(笑)
悪さする人は仏さんが大嫌い(笑)
だから仏さんだって万人に愛されてはいないんです。
仏さんも嫌われる悲しみを体験してるんですね。
あきさんの気持ち、仏さんも体験済みです。

『私に問題があるとのこと、私自身そうだと思います』

これは違うと思います。
まわりの人たちに包容力がないんです。
僕はあきさんを嫌う人たち一人ひとりに尋ねたい!
あなたたちには些かの欠点もないのか!と。
人を嫌う資格があるのか!と。

欠点があるからこそ人間なんですね。
そんな人間を、あきさんを仏さんは
さも愛しそうに見守られているんです。

助けたいのを我慢して
見捨てたふりしながら
心の中で応援してるんです。

道は自分で切り開かないとだめなんです。
強さではないんですよ。
地味に
地味に
地味に
直そうと努力するあきさんの姿が
人の心を打つんです。
飛躍的に自分を変えようなどと思わなくていいんです。
地味に
地味に
地味に

『地味の積み重ねが派手になる』

あきさんにこの言葉を送ります。

未来は明るい!(^○^)!


by『お前が住職だと檀家がかわいそうだわ』と言われたクソ坊主






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