お寺ネット かけこみ相談室です。心の疲れた人へ。一人で考えていなくて話してみて下さい。宗派を越えてみんなで話し合う掲示板です。NPO法人かけこみ相談センターの相談員も協力しております。個別相談は、NPO法人かけこみ相談センター

レスに対する意見はご遠慮ください。(ご注意:誰もが書き込めますので、メールアドレスの公開する場合、偽僧侶や勧誘・詐欺ご注意ください。また、特定の個人並びに団体名をあげての批判・中傷などは、受付いたしかねます。自殺予告や自殺を誘発するような書き込みは、削除いたします。(通報する場合も)当掲示板での一切の責任は負いかねます)

お寺ネットtop | かけこみ相談室へ仏事の相談室ツルとも和尚のお手伝い



  <<   新規投稿   ツリー表示   一覧表示   携帯用   検索/過去ログ   ホーム  
  迷ってばかり

[29198] a
[29199] 青野
[29200] 在家
[29201] a
[29202] 青野
[29203] a
[29204] a
[29205] 青野
[29206] a

Name: a
Date: 2016/10/04(火) 10:55   No:29198
     削除 
Title: 迷ってばかり    
ここにおられるみなさんからすれば大した悩みかもしれませんが、私はいつも迷っています。

人生に対し、何が正しいのか、どうすれば苦を減らし楽に生きられるのか、それを考え続けた結果、私なりの現状の答えは、起こった感情、出来事に対して、「これでいいのだ」と言い聞かせることです。(いつもぶつぶつ心の中でつぶやいています)
そうすると、少し楽になります。しかし、諸行無常とはその通りで、時間がたつと、「これでいいのだ」という指針よりも魅力的なものが出てきます。
仏教やスピリチュアル関連の本などに影響されて出てくるのですが、例えば、「世界は一つである、世界はあなたの中にある」という、いわゆる悟り、ワンネスの概念がその一つです。

ワンネスを意識することが大事だという指針をたてると、もうそれしか頭にありません。一つしか指針として持てないのです。しかし、しばらくすると、それも無理が出てきて、結局「これでいいのだ」の指針にかえります。世界は変化していて、また自分もその一部なので、感情は自ずと変化していくことは理解しているつもりなのですが、こんなことを繰り返しながら生きていて、なんとも息苦しいです。
確かな答えなど無いとわかっていても迷ってしまう。迷うのがあたりまえだと思い込むしかないと思うのですが、皆様ならこのような状態をどのように考え、打開されるであろうかをお聞かせ願いたいです。

伝わりづらく、とりとめないのない文章で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。



Name: 青野
Date: 2016/10/04(火) 19:21   No:29199
   削除 
Title: Re:迷ってばかり    
そうですね。「迷う」時は、まず欲がありますから、迷った時は、何に対して欲を抱いているのかを確認します。そして、例えばそれが物に対する迷いである場合、私は貪欲と怒りから離れた「中道」を歩むつもりでおりますので、必要なものなのか、ただ欲しいだけなのかを確認し、前者ではない「欲」の場合は欲を手放します。

足るを知る状態は満足を生みます。迷いは不安定な状態ですので、それがないだけでも心は穏やかとなります。そもそも、自分にとってどちらでもいいから「迷う」のであって、本当に重要ならば迷わず決まっているはずなんですよ。例えば空腹でどうしようもなかったら、メニューをあれやこれやと悩まず、何でもいいからと注文するでしょう。
より良く生きるということの内容は、人によりけりだと思いますので参考にならないかもしれませんが、自分の場合は、仏教的な意味合いでより善く生きる為、人には親切にし、慈しみを持って生活することを目指し、怒りから離れ、欲からも離れ、善い行いをするよう心掛けています。
また、思考というものはクセになりますので、あれやこれやと考え始めたら、出来るだけ早く切り上げるようにします。だいたいが感情によって揺れ動いているだけで、「考える」必要のないことを考えて妄想を回転させ疲れるだけですから。

「これでいい」があれば「これは悪い」もあるわけです。欲(これがいい)と怒り(これは悪い)を離れる生き方もあると言うことで(それが仏教ですが)、ご参考までに。


Name: 在家
Date: 2016/10/05(水) 10:11   No:29200
   削除 
Title: Re:迷ってばかり    
正しさとか「諸行無常」とか「ワンネス」とかは考えてわかることじゃないんですよ。
感じなければわかりません。
言葉は全部そうなのですが、考えるものではなくて感じるものです。

例えば「リンゴ」といえば、食べた経験があって甘さ酸っぱさ歯ごたえ大きさ色などを感じたことがあるから意味が分かります。
一方「ドリアン」という果物があって、これを食べた人は少ないと思うので、食べたことのないものをネットで調べていくら考えても、わかろうとすればするほど頭がおかしくなります。
正しさの場合も公正さや真理を自分の中に感じなければわかりません。

ですからそれらを知りたければ、まずは考えることをやめて、体験して感じる習慣を身に付けなければなりません。
それは「さとり(・・・ワンネス)」への道のりでもあって、仏教の修行はそれを最適化するように組み立てられています。
特にスピリチュアリズムは考えてわかるものではないので、わかるためには修行が不可欠です。
スピリチュアリズムは理屈ではなく実践です。


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
(回答者からお願い)
この掲示板は年齢性別の区別がないので、女性の方は最初に「女性」と記入してください。女性でも仏教(真理)の答えが欲しい方は無記入でお願いします。
どちらも年齢を記入していただくとより正確にお答えできます。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/


> ここにおられるみなさんからすれば大した悩みかもしれませんが、私はいつも迷っています。
>
> 人生に対し、何が正しいのか、どうすれば苦を減らし楽に生きられるのか、それを考え続けた結果、私なりの現状の答えは、起こった感情、出来事に対して、「これでいいのだ」と言い聞かせることです。(いつもぶつぶつ心の中でつぶやいています)
> そうすると、少し楽になります。しかし、諸行無常とはその通りで、時間がたつと、「これでいいのだ」という指針よりも魅力的なものが出てきます。
> 仏教やスピリチュアル関連の本などに影響されて出てくるのですが、例えば、「世界は一つである、世界はあなたの中にある」という、いわゆる悟り、ワンネスの概念がその一つです。
>
> ワンネスを意識することが大事だという指針をたてると、もうそれしか頭にありません。一つしか指針として持てないのです。しかし、しばらくすると、それも無理が出てきて、結局「これでいいのだ」の指針にかえります。世界は変化していて、また自分もその一部なので、感情は自ずと変化していくことは理解しているつもりなのですが、こんなことを繰り返しながら生きていて、なんとも息苦しいです。
> 確かな答えなど無いとわかっていても迷ってしまう。迷うのがあたりまえだと思い込むしかないと思うのですが、皆様ならこのような状態をどのように考え、打開されるであろうかをお聞かせ願いたいです。
>
> 伝わりづらく、とりとめないのない文章で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。



Name: a
Date: 2016/10/05(水) 10:35   No:29201
   削除 
Title: Re:迷ってばかり    
青野様

ご丁寧なご返信ありがとうございます。
欲ですか。私の場合、もっと楽になりたい、もっと良い方策があるのではないか、という欲と言えるような気がします。
よく、今のままで足りていることを知りなさい、という言葉がありますが、私はそれが頭でなく心と身体でわかっていないのではないかと思います。

どちらでもよいから迷うというお言葉は目から鱗でした。
そう考えると迷う必要もないのかと思ってしまいました。
青野様のおっしゃるような生き方が出来たらと思いますが、それを目指すこともまた、部不相応というか、出来なくて苦しみを生みそうです。少しずつ、そのような意識が根付いていけば理想です。

考えが空転しているのは、実感としてあります。おっしゃるように、早く切り上げられたらと思うのですが、わかっちゃいるけどやめられないという状態です。このような、迷い、思考の癖を変化させるにはやはり座禅瞑想がよいのでしょうか?

わたしの言う「これでいい」とは、これでいいと思えないことも受け入れるという感覚を含んでいます。まさに感情を抑え込むような感じにもなるのですが、それもまた苦しいものです。しかし、これが一番しっくり来るのでなんとも困ったものです。
感情は、短い時間の間にも、二転三転。何が自分にとって良いのかわからなくなってきます。良い、悪いから離れる方法もやはり瞑想⁇
申し訳ありませんが何かお知恵をいただけたらと思います。


Name: 青野
Date: 2016/10/05(水) 19:35   No:29202
   削除 
Title: Re:迷ってばかり    
いまお幾つか存じませんが、例えば、我々人間には「老化」という現象があり、そして必ず「死」に至ります。このことについて「これでいい」と思えますか。
自分が思うように世界は回る。思うようになればいい。そんな感覚のもと、我々は出来事を無意識的に評価している側面があります。だから、気に入らないことについて「納得できない」「嫌だ」等と思うわけですが、言うまでもなく、自身は世界の片隅で「間借り」して生きているようなもので、思うようにならないというのが真理です。自身の身体ひとつすら、「年をとるな」と思っても、思うようにならないではありませんか。まずはここを心の奥底から理解する必要があろうかと思います。

心の奥底から理解し、納得できれば、過ぎ去った過去をあれこれ悔やんだり、まだ来ぬ未来を必要以上に怖れたりすることは減るはずです。なぜならば、「思うようにならない」のが当たり前だから、考えてもどうしようもないと理解できるはずだからです。
「思うようにならない」のだから、「これでいい」とか「これは嫌だ」などという思いも減るはずです。なぜなら、思うようにならないものについて、「一喜一憂しても仕方がない」「いいときもあれば嫌な時もあるだろう」となるからです。「嫌だ」と激しく嫌悪するようなことがあっても、「もう過ぎたことだから仕方ない」上に、「嫌なことがあるのは当たり前」なわけですから、自然と心がその出来事に引っかからなくなるでしょう。
いかに「自分が思うようにならない、それが真理なのだ」と心から納得できるかにかかっています。

また、思考のクセについては、心を自身で調教するということが必要です。瞑想しても、思い浮かんだときに、それに付き合って延々と考え続けるようでは瞑想になりません。
考えていることに気づいたら止める。これを自分で意識的に行い、力づくで断ち切っていくことが必要です。これが心を調教する、己が心の主になるということです。心に振り回されないようになるということです。「思うのが当たり前」などと、自身で正当化している内は無理でしょう。

「これでいいのだ」と思うが思うまいが、「よりよいもの」を求めようが求めまいが、自身は一刻一刻と死に向かい、全てが変化し続けています。いいと思ったことも、後になれば悪いかもしれませんし、その逆もまた然りです。起こった後に「評価」することに意味はほとんどありません。(但し、善い行いを思い出して「また同じようなことがあったら行おう」などと決意することは、自身の心を明るくしますので意味はあります)

突然倒れて死ぬかも分からないのに、「あれが欲しい」「こうならないと嫌だ」などと不満に満ちた気持ちでいて、果たして幸せなのでしょうか。希望が満たされない間、常に不幸なのではありませんか。対して、いま不満がない「足りている」人はどうでしょう。「これは嫌だ」という思い自体を抱かなければ、心は「不幸」に陥ることもありません。
現代の日本では、人の欲望を煽り、不満を掻き立てることで金銭的に潤う人々がいることは確かでしょうが、それに踊らされ、「不満」を抱いて過ごす生き方は私には惨めに思えます。損得でしか考えられない心の貧しさが哀れに思えます。

長くなりましたが、まずは「思うようにならない」ことに心の底から納得し、思いを意識的に断ち切る努力をなされることではと思います。


Name: a
Date: 2016/10/05(水) 21:01   No:29203
   削除 
Title: Re:迷ってばかり    
在家様

お返事ありがとうございます。
申し遅れましてすみません。私は30代男性です。

おっしゃるように、考えてわかるものではないのですね。
やはり感じ取るには修行が必要ということだと。
丁寧に説明いただきありがとうございました。

> 正しさとか「諸行無常」とか「ワンネス」とかは考えてわかることじゃないんですよ。
> 感じなければわかりません。
> 言葉は全部そうなのですが、考えるものではなくて感じるものです。
>
> 例えば「リンゴ」といえば、食べた経験があって甘さ酸っぱさ歯ごたえ大きさ色などを感じたことがあるから意味が分かります。
> 一方「ドリアン」という果物があって、これを食べた人は少ないと思うので、食べたことのないものをネットで調べていくら考えても、わかろうとすればするほど頭がおかしくなります。
> 正しさの場合も公正さや真理を自分の中に感じなければわかりません。
>
> ですからそれらを知りたければ、まずは考えることをやめて、体験して感じる習慣を身に付けなければなりません。
> それは「さとり(・・・ワンネス)」への道のりでもあって、仏教の修行はそれを最適化するように組み立てられています。
> 特にスピリチュアリズムは考えてわかるものではないので、わかるためには修行が不可欠です。
> スピリチュアリズムは理屈ではなく実践です。
>
>
> _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
> (回答者からお願い)
> この掲示板は年齢性別の区別がないので、女性の方は最初に「女性」と記入してください。女性でも仏教(真理)の答えが欲しい方は無記入でお願いします。
> どちらも年齢を記入していただくとより正確にお答えできます。
> _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
>
>
> > ここにおられるみなさんからすれば大した悩みかもしれませんが、私はいつも迷っています。
> >
> > 人生に対し、何が正しいのか、どうすれば苦を減らし楽に生きられるのか、それを考え続けた結果、私なりの現状の答えは、起こった感情、出来事に対して、「これでいいのだ」と言い聞かせることです。(いつもぶつぶつ心の中でつぶやいています)
> > そうすると、少し楽になります。しかし、諸行無常とはその通りで、時間がたつと、「これでいいのだ」という指針よりも魅力的なものが出てきます。
> > 仏教やスピリチュアル関連の本などに影響されて出てくるのですが、例えば、「世界は一つである、世界はあなたの中にある」という、いわゆる悟り、ワンネスの概念がその一つです。
> >
> > ワンネスを意識することが大事だという指針をたてると、もうそれしか頭にありません。一つしか指針として持てないのです。しかし、しばらくすると、それも無理が出てきて、結局「これでいいのだ」の指針にかえります。世界は変化していて、また自分もその一部なので、感情は自ずと変化していくことは理解しているつもりなのですが、こんなことを繰り返しながら生きていて、なんとも息苦しいです。
> > 確かな答えなど無いとわかっていても迷ってしまう。迷うのがあたりまえだと思い込むしかないと思うのですが、皆様ならこのような状態をどのように考え、打開されるであろうかをお聞かせ願いたいです。
> >
> > 伝わりづらく、とりとめないのない文章で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
>
>



Name: a
Date: 2016/10/05(水) 21:38   No:29204
   削除 
Title: Re:迷ってばかり    
青野様

お返事ありがとうございます。
私30代男性ですが、死を身近に感じたことも過去にありまして、やはりそれに対して「これでいい」とはとても思えません。どこかに希望を抱いていないと生きていられなくて、ありのままの現実、どうにもならない現実から目を背けていることに気づかせていただけました。
この世界は、私が思っている以上に思うようにはならないのですね。

私としては、こうあればいい、こんなふうでなければならない、こんなの嫌だという思いを、「足りていない」という不足を思わないためにも、「これでいい」と言い聞かせているつもりです。つまり、「足りている」と言い聞かせているのです。しかし、それも現状に対する評価となってしまっているのですね。評価をすることで、結局は肯定と同時に不足という苦しみにもフォーカスしていると。
物事に対して評価しないという方法は非常に難しいと思いますが、それも気持ちの持ち方ひとつなのでしょうか。
思うようにならない、足りている、評価をはさまない、こういったことは、頭、心ででとらえて理解、掌握できるものなのか。はたまた具体的方法を用いて身体で体感して理解するものなのか。人それぞれなのでしょうか。間抜けな質問で申し訳ありませんが、これらの見解を伺いたいです。
思いを断ち切るということに関しては、ご意見を胸にもう一度自ら考えたいと思います。大変有り難いご意見ありがとうございます。


> いまお幾つか存じませんが、例えば、我々人間には「老化」という現象があり、そして必ず「死」に至ります。このことについて「これでいい」と思えますか。
> 自分が思うように世界は回る。思うようになればいい。そんな感覚のもと、我々は出来事を無意識的に評価している側面があります。だから、気に入らないことについて「納得できない」「嫌だ」等と思うわけですが、言うまでもなく、自身は世界の片隅で「間借り」して生きているようなもので、思うようにならないというのが真理です。自身の身体ひとつすら、「年をとるな」と思っても、思うようにならないではありませんか。まずはここを心の奥底から理解する必要があろうかと思います。
>
> 心の奥底から理解し、納得できれば、過ぎ去った過去をあれこれ悔やんだり、まだ来ぬ未来を必要以上に怖れたりすることは減るはずです。なぜならば、「思うようにならない」のが当たり前だから、考えてもどうしようもないと理解できるはずだからです。
> 「思うようにならない」のだから、「これでいい」とか「これは嫌だ」などという思いも減るはずです。なぜなら、思うようにならないものについて、「一喜一憂しても仕方がない」「いいときもあれば嫌な時もあるだろう」となるからです。「嫌だ」と激しく嫌悪するようなことがあっても、「もう過ぎたことだから仕方ない」上に、「嫌なことがあるのは当たり前」なわけですから、自然と心がその出来事に引っかからなくなるでしょう。
> いかに「自分が思うようにならない、それが真理なのだ」と心から納得できるかにかかっています。
>
> また、思考のクセについては、心を自身で調教するということが必要です。瞑想しても、思い浮かんだときに、それに付き合って延々と考え続けるようでは瞑想になりません。
> 考えていることに気づいたら止める。これを自分で意識的に行い、力づくで断ち切っていくことが必要です。これが心を調教する、己が心の主になるということです。心に振り回されないようになるということです。「思うのが当たり前」などと、自身で正当化している内は無理でしょう。
>
> 「これでいいのだ」と思うが思うまいが、「よりよいもの」を求めようが求めまいが、自身は一刻一刻と死に向かい、全てが変化し続けています。いいと思ったことも、後になれば悪いかもしれませんし、その逆もまた然りです。起こった後に「評価」することに意味はほとんどありません。(但し、善い行いを思い出して「また同じようなことがあったら行おう」などと決意することは、自身の心を明るくしますので意味はあります)
>
> 突然倒れて死ぬかも分からないのに、「あれが欲しい」「こうならないと嫌だ」などと不満に満ちた気持ちでいて、果たして幸せなのでしょうか。希望が満たされない間、常に不幸なのではありませんか。対して、いま不満がない「足りている」人はどうでしょう。「これは嫌だ」という思い自体を抱かなければ、心は「不幸」に陥ることもありません。
> 現代の日本では、人の欲望を煽り、不満を掻き立てることで金銭的に潤う人々がいることは確かでしょうが、それに踊らされ、「不満」を抱いて過ごす生き方は私には惨めに思えます。損得でしか考えられない心の貧しさが哀れに思えます。
>
> 長くなりましたが、まずは「思うようにならない」ことに心の底から納得し、思いを意識的に断ち切る努力をなされることではと思います。



Name: 青野
Date: 2016/10/06(木) 13:44   No:29205
   削除 
Title: Re:迷ってばかり    
言葉というものには限界があり、「身体でわかる」といっても、貴方の言うところの意味と私が想定するところの意味が違っているのではと思います。そのため、この点については触れません。
頭での知識は暗記で足ります。対し、心というものは、それが人格や思想の根本に関わるため、なかなか変わりづらい(というより、変えたくない)ものです。

「評価する」というのは、半ば癖になっていると思いますよ。これは貴方に限ったことではなく、多くの人に於いてです。根本には自己への愛があります。だから、これを止めようとするならば、自己愛を減らすことが必要になります。それが出来なければ、なかなか「評価」は止められないでしょう。

心を育てるというのは、本心から自分が変わっていく必要がありますので、頭の知識や身体を動かすだけで云々などという類のものではありません。自身が変わろうという意志を起こし、習慣化してしまった思考を止め、暴れる心を手懐けて、少しずつ少しずつ自身を育てていく長丁場な「教育」です。以上で、ご質問への回答になっていますでしょうか。


Name: a
Date: 2016/10/06(木) 18:42   No:29206
解決    削除 
Title: Re:迷ってばかり    
青野様

ご回答ありがとうございます。
心は、長丁場において変えていくものというお言葉響きました。
自己愛を減らす方法はそれぞれと思いますが、私なりの方法で臨んでいきたいと思います。
心の暴れを少しずつ手なづけていきたいです。

中々人に話せない悩みに対し、しっかりとお答えくださり気持ちが少し楽になりました。ご縁に感謝します。ありがとうございました。





削除・編集   管理者画面   RSS   + Powered By 21style +