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Name: 笹島
Date: 2017/01/23(月) 22:54   No:29477
  返信  引用  編集 
Title: 無題    
はじめまして笹島という者です。

 実は、小学生の頃から悩んでる事がございまして、それは『生きる喜びがわからない』です。

 生きていて何が面白いのか、何が楽しいのか理解できない。
 かと言って死にたいわけじゃありません。(過去に一回自殺しようとして失敗しましたが)
 私がこうなったのは、幼少の頃、親の理不尽な説教とか、小学生の頃のイジメとかが原因なのでは? と思いましたが、今となってはわかりません。
 正直、生きることに何の意味があるのかわかりません。

 と、言う自分の意識を変えたいと思ってはいるのですが、どうしたらいいか、わかりません。

 まぁ、こんな感じではありますが、 どうかよろしくお願いします。



Name: 在家
Date: 2017/01/24(火) 08:13   No:29478
  引用  編集 
Title: Re:無題    
喜びは人間の心の核にある神の性質(仏性/真我)からくるものです。
神の心には喜びのほかに自由、積極、勇気、審美、自立、忍耐、尊厳、創造、公正、愛、やすらぎ、健康、成長(向上)・・・といった性質があります。

それが自分の中で抑圧されると喜びが感じられなくなります。
確かに幼少期の親の育て方に起因しますが、それ以前から自分に潜在している課題であって、親はその課題の縁で結ばれています。


神の心を取り戻すのが宗教なので、宗教を一生のライフワークにしてゆかれたらよいと思います。
宗教には落とし穴がたくさんありますので、霊感やカルトや原理主義(教条主義)に落ちないように注意してください。


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(回答者からお願い)
この掲示板は年齢性別の区別がないので、男女の区別と年齢を記入していただくとより正確にお答えできます。
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> はじめまして笹島という者です。
>
>  実は、小学生の頃から悩んでる事がございまして、それは『生きる喜びがわからない』です。
>
>  生きていて何が面白いのか、何が楽しいのか理解できない。
>  かと言って死にたいわけじゃありません。(過去に一回自殺しようとして失敗しましたが)
>  私がこうなったのは、幼少の頃、親の理不尽な説教とか、小学生の頃のイジメとかが原因なのでは? と思いましたが、今となってはわかりません。
>  正直、生きることに何の意味があるのかわかりません。
>
>  と、言う自分の意識を変えたいと思ってはいるのですが、どうしたらいいか、わかりません。
>
>  まぁ、こんな感じではありますが、 どうかよろしくお願いします。



Name: 笹島
Date: 2017/01/24(火) 08:23   No:29479
  引用  編集 
Title: Re:無題    
ありがとうございます。
 ちなみに、今人生を変えるために今の仕事を辞めて専門学校に通おうと思っているのですが、この選択が正しいのかどうか分からなくなってしまいました。
 ちなみに、今は23歳で、性別は男性です。
 再びよろしくお願いします。


Name: 在家
Date: 2017/01/24(火) 23:18   No:29482
  引用  編集 
Title: Re:無題    
人生を変えるには運命が変わらなければなりません。
運命を変えるには自分が変わらなければなりません。
自分が変わるには上で申し上げたように一生のライフワークが必要です。

仕事を変えて専門学校へ行くのは、仕事が嫌で逃げているのではありませんか?
そうであれば神の心とは正反対の煩悩の仕業です。
と言ってもそれが悪いということではなくて、そこにも人生の学びはありますから、自然の成り行き(運命)に従えばよいと思います。


> ありがとうございます。
>  ちなみに、今人生を変えるために今の仕事を辞めて専門学校に通おうと思っているのですが、この選択が正しいのかどうか分からなくなってしまいました。
>  ちなみに、今は23歳で、性別は男性です。
>  再びよろしくお願いします。



Name: 笹島
Date: 2017/01/25(水) 02:42   No:29485
  引用  編集 
Title: Re:無題    
仰る通りです。
 去年までの僕は、今の状況から逃げることしか考えていませんでした。
 ですが、ようやく目が覚めたのです。本当はやりたいことがあるのに、それを我慢したり、無理矢理諦めて、そのまま生きる......ですがそれは、死んでいるのと同じなのでは? と、思うようになったのです。
 なので、確かに今の状況から逃げたい思いはまだ残ってるかもしれませんが、今はただ純粋にやりたいことを学びたいがために専門学校に行こうと思ったしだいです。はい


Name: 在家
Date: 2017/01/25(水) 07:35   No:29486
  引用  編集 
Title: Re:無題    
専門学校へ行って再就職しても、おそらく同じことになると思います。
その時こそ自分の原因に気づいてください。
それが人生の学びです。


> 仰る通りです。
>  去年までの僕は、今の状況から逃げることしか考えていませんでした。
>  ですが、ようやく目が覚めたのです。本当はやりたいことがあるのに、それを我慢したり、無理矢理諦めて、そのまま生きる......ですがそれは、死んでいるのと同じなのでは? と、思うようになったのです。
>  なので、確かに今の状況から逃げたい思いはまだ残ってるかもしれませんが、今はただ純粋にやりたいことを学びたいがために専門学校に行こうと思ったしだいです。はい



Name: 笹島
Date: 2017/01/25(水) 08:21   No:29487
  引用  編集 
Title: Re:無題    
失礼しました。私がいくら希望を抱いたような言葉を並べても、全てが上っ面に聞こえるならば、いい加減本心を話します。

私がこの決断に至った本当の理由、それはもう生きる気力が生きる希望が無いからです。
そもそも、生きることに何の価値があるのかさっぱり分からない、結局この歳になっても、生きる喜びを理解する事が出来なかった。
最早生きるだけ無駄だとも思っています。
でも、どうせ死ぬなら最後に、最後に学生の頃抱いて、そして諦めていた夢に向かって死ぬ気で挑戦してみようかな、て思っただけです。
まぁ、どうせ上手くいかないでしょう、これで上手くいったら、私はどんなに辛くてもまだ生きて行けるかもしれない、逆に上手くいかなかったら、それこそ本当に生きる意味を失い自害するでしょう。
つまり、これが私の人生最後の挑戦です。

と、言ってもやっぱり全てが上っ面で薄っぺらく聞こえてしまうな、だから私は自分が嫌いだ、他の誰よりも嫌いだ。
いつもいつも、言いたい事も言えず、いちいち周りに合わせて表情変えたり、心にもない言葉を発して、相手を気遣ったり、慰めたりする、そんな上っ面な自分が大っ嫌いだ、死ね、死ね、自分なんか死ね、死ね


Name: 青野
Date: 2017/01/25(水) 13:43   No:29488
  引用  編集 
Title: Re:無題    
生きる喜びが分からない。生きることに何の価値があるのかわからない。奇遇ですね、私も同じです。
私の学んでいる仏教では、そもそもそれらは無いといいますので、分からないのが自然であって、逆にあったなら、ただの煩悩、苦しみの元であると教えます。執着や貪欲に他なりませんので。勿論、何を喜びとして何に価値を見いだすのかは個人の自由です。生きたいも死にたいも同じ「欲」です。生きたいも死にたいもないのが正常です。

夢がなければ生きられないというのは、世俗の精神論的なものであって、夢がなくたって呼吸して排泄して生きていますでしょう。心に刺激が欲しいが故に「夢」など作り上げるのです。夢が叶えば幸せになるというのであれば、叶うまでとても惨めではないですか。何年、何十年惨めに生きるのでしょう。仮に夢が叶っても幸せは束の間、すぐに物足りなさを覚えるのが人の心というものです。「貪欲」に限りはないのです。

あなたの性格について触れられていますが、どこに嫌いになる要素があるのでしょう。お優しいのではないですか。
仏教では、一切の生命を傷つけないことを教えます。あなたは少なくとも他の人には気を使い、精一杯がんばっているのではないでしょうか。そんな頑張っている自分を、自分でねぎらわなくてどうするのでしょうか。

専門学校については、環境が変われば新たな縁もあって今の生活とは変わっていくことが考えられるので、環境を変えたいというのであれば良いのではないでしょうか。

生きる喜び、生きる価値などと、妄想でしかないものを頭から消して、今一度改めて考えてみることをオススメいたします。





Name: 笹島
Date: 2017/01/25(水) 17:38   No:29490
  引用  編集 
Title: Re:無題    
分かりました。
これで何が変わるか分かりませんが、取り合えず頑張ってみます。
色々と答えて頂き、誠にありがとうございました。


Name: 青野
Date: 2017/01/25(水) 19:27   No:29491
  引用  編集 
Title: Re:無題    
過去は変えられませんし、未来も誰にも分かりません。要は、過去と未来について考えて心をクヨクヨさせるだけ無駄です。疲弊するだけ損です。哲学的なことを考えてもキリがありません。
いまの現実、今のこの一瞬一瞬を無駄にせず、自分自身を苦しめず、そして出来れば(ここは仏教のサイトですので仏教的なことを申し上げますが)他の生命を傷つけず、善い行いをして「善因楽果」の道理によってお幸せになられますよう、お祈り申し上げます。


Name: 在家
Date: 2017/01/25(水) 23:02   No:29493
  引用  編集 
Title: Re:無題    
よくわかりました。自分が嫌いって否定していますよね。
それは自分だけでなく何にでも否定的で、その否定的な思考習慣が好き嫌いを生んで、それがあなたを苦しめています。
仕事や職場の人間関係にも好き嫌いがあって、嫌なものに追い詰められて逃げ出したいのでしょう。
死ぬのは最後の逃げ場です。

それは自分の否定的な思考習慣をなくさない限り、何も変わりませんよ。
「受け容れる」という心の習慣を身に付けて、自分の器を大きくしてください。
その方法はほかの方へ回答したものを下にコピーしておきます。
専門学校と新しい仕事に挑戦するしかないようですから、どうぞ挑戦してください。
それで同じ結果なら、ここをもう一度読み直してください。


何であれ面白く、何であれ最善を尽くすのが神の心、好き嫌いや逃げることは煩悩の仕業です。
同じことが繰り返されるのは、カルマと言ってその人の人生のテーマです。
カルマの解消があなたの魂の目的、生きる意味や目的を自分の外側に探してもどこにもありません。
私はリタイヤした年金生活者ですが、それでも夢と希望があり、ここでも毎日学びがあって、歳を取ることが楽しみです。


> 失礼しました。私がいくら希望を抱いたような言葉を並べても、全てが上っ面に聞こえるならば、いい加減本心を話します。
>
> 私がこの決断に至った本当の理由、それはもう生きる気力が生きる希望が無いからです。
> そもそも、生きることに何の価値があるのかさっぱり分からない、結局この歳になっても、生きる喜びを理解する事が出来なかった。
> 最早生きるだけ無駄だとも思っています。
> でも、どうせ死ぬなら最後に、最後に学生の頃抱いて、そして諦めていた夢に向かって死ぬ気で挑戦してみようかな、て思っただけです。
> まぁ、どうせ上手くいかないでしょう、これで上手くいったら、私はどんなに辛くてもまだ生きて行けるかもしれない、逆に上手くいかなかったら、それこそ本当に生きる意味を失い自害するでしょう。
> つまり、これが私の人生最後の挑戦です。
>
> と、言ってもやっぱり全てが上っ面で薄っぺらく聞こえてしまうな、だから私は自分が嫌いだ、他の誰よりも嫌いだ。
> いつもいつも、言いたい事も言えず、いちいち周りに合わせて表情変えたり、心にもない言葉を発して、相手を気遣ったり、慰めたりする、そんな上っ面な自分が大っ嫌いだ、死ね、死ね、自分なんか死ね、死ね



Name: 在家
Date: 2017/01/25(水) 23:03   No:29494
  引用  編集 
Title: 受け容れるということ/コピー    
受け容れるというのは我慢することではなくて、無意識の中で否定しないことです。
瞑想を続けると無意識のおしゃべりがわかるようになりますが、無意識では身の回りの現実を善と悪に分別していつもジャッジが行われています。
そこで「悪」とジャッジされることが否定で、その反応として無意識の中には否定されたものに対する拒絶と抵抗が生じます。
その抵抗が苦しみを生んでいるのです。

そのような否定を起こさないのが「受け容れる」という心の状態で、その状態を引き起こすために仏教では「あるがまま(本願力という考え方)」を提唱しています。
それは身の周りに起きることに何も抵抗しないことで、それが心の習慣になればあなたが周りに苦しむことはなくなります。
無意識に起きている苦しみを引き起こす思考習慣が煩悩(ぼんのう)で、煩悩への反逆が仏教です。


Name: 笹島
Date: 2017/02/12(日) 00:41   No:29563
  引用  編集 
Title: Re:無題    
 思い出しました。何故私が生きることに興味が持てなくなったのか、そうですねぇ、あれは小学三年の頃だったかな?
 小さい頃から、うちの親は日頃のストレス発散の為に、どんな小さなミスでも犯すと、それを口実にして異常なくらい怒鳴り散らす人でしたね。そして、よく祖母や色んな人の小言や文句を私に呟く人でした。
 で、結果的に内気な性格となってしまい、学校ではそれが原因でよくいじめられましたね。
 その時、私は気付いてしまった。何故人は、己の私利私欲の為なら平気で他者を傷付けられるのだろう? どうして、自分が傷付けた相手の事を何一つ考えてくれないんだろう?
 ......あぁ、そうか、人は、誰かを傷付けるのが大好きな生き物なんだと、いうことを小三の頃に悟りました。
 その結果、私は人が怖くなった。すぐ感情的になって、暴力で、言葉で人を傷付ける人間が。
 そして、同じ人間である自分も怖い、どうしたら誰も僕に対して感情的にならない? どうすればいじめられない? どうしたら殴られない?

 そんなことばかり考えているうちに、私は中学に入学した。
 そこで私は初めて武道の存在を知った。

 この時は私は誓った。真面目で優しくなれば、誰にも怒られない、強くなれば誰もいじめてこない、誰にも殴られない、むしろ、そうすれば、今度こそみんなと仲良くなれると、そう思った私は、中学から高校卒業までは、勉強よりも強くなる事ばかり考えるようになりました。
 まぁ、そのせいで成績は落ち、親に叱られる日々、同級生とは誰とも接しない日々、辛いけど、いつかみんな僕の事を認めてくれると信じていた。
 ま、当時は子供でしたから、こんな馬鹿みたいな事を信じきっていましたけどね。
 今思うと、貴重な学生生活を無駄にしたなぁ。

 そして、高校卒業して社会人になった後、ある程度収入が入ったら、私は土日、有給の休みを使って、一人で日本全国に足を運ぶようになりました。
 理由は、社会人2年目までの私は、結局強くなる事しか考えていなかったのです。
 現代の競技化した武道ではなく、喧嘩や殺し合いの中でも生き残れる真の武道を! 更なる力が欲しい! そう思った私は、世界各国のあらゆる武に触れ、その中からもっとも自分に適したと思った古流の武道を選抜し、未だにその修行に没頭しております。
 しかし、社会人三年目にして、ようやく目が覚めました。強くなっても無意味だと、いくら頑張っても誰にも褒められない、誰にも認めて貰えない、僕は一人だ、一人ぼっちだ、もう嫌だ、生きるのが嫌だ、死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。
 生きることは無意味だ、憎い、全てが憎い、すぐに感情的になる人間が憎い、すぐ言葉で、暴力で人を傷付ける連中が憎い、こんな自分に育てやがった実の親が憎い、そして全てを憎む自分が憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。

 あーもうどうでもいいやぁ、どうせいくら頑張っても無意味だ、生きることも死ぬことも無意味だ、あーもう強いだけの人生でいいや。
 
 嫌いだぁ、本当は人を傷付けるのが、自分が傷付く以上に嫌なのに、他人を憎む自分が嫌だぁ、誰か僕を殺してくれぇ 


Name: 在家
Date: 2017/02/12(日) 04:56   No:29565
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Title: Re:無題    
なるほど、自分の外側にしか世界がないのですね。
それは心の世界が見えないからです。
縁があって仏教などの精神世界に入れば、人生を立て直すことができますよ。


自分が強くなればいじめられなくなるのではなく、自分が人をいじめなくなればいじめられることもなくなります。
自分の被害性にばかり気を取られて加害性に気づかないのが人間のエゴですが、あなたの「憎い憎い」という恨みが、あなたがいじめられる根本原因なのです。
いじめについては雨さんのトピの私の答えと、こちらを参考にしてください。
http://monjuon.blog85.fc2.com/blog-entry-19.html

恨みではなく許しを身に付けなければならないのですが、それが上に申し上げた受け容れるという心の状態です。
受け容れるというのは愛であり、許しであり、寛容性であり、器が大きいことです。
自分の心にいじめの原因があるのに、人のせいだと思ってしまうことが人生を見誤ってしまうのですね。


苦しみから何も学ばないとすれば、それは無駄な人生になります。
自分の中に学びがあれば、必ず人生を立て直すことができますよ。
人生には何一つ無駄なことは起きていません。


>  思い出しました。何故私が生きることに興味が持てなくなったのか、そうですねぇ、あれは小学三年の頃だったかな?
>  小さい頃から、うちの親は日頃のストレス発散の為に、どんな小さなミスでも犯すと、それを口実にして異常なくらい怒鳴り散らす人でしたね。そして、よく祖母や色んな人の小言や文句を私に呟く人でした。
>  で、結果的に内気な性格となってしまい、学校ではそれが原因でよくいじめられましたね。
>  その時、私は気付いてしまった。何故人は、己の私利私欲の為なら平気で他者を傷付けられるのだろう? どうして、自分が傷付けた相手の事を何一つ考えてくれないんだろう?
>  ......あぁ、そうか、人は、誰かを傷付けるのが大好きな生き物なんだと、いうことを小三の頃に悟りました。
>  その結果、私は人が怖くなった。すぐ感情的になって、暴力で、言葉で人を傷付ける人間が。
>  そして、同じ人間である自分も怖い、どうしたら誰も僕に対して感情的にならない? どうすればいじめられない? どうしたら殴られない?
>
>  そんなことばかり考えているうちに、私は中学に入学した。
>  そこで私は初めて武道の存在を知った。
>
>  この時は私は誓った。真面目で優しくなれば、誰にも怒られない、強くなれば誰もいじめてこない、誰にも殴られない、むしろ、そうすれば、今度こそみんなと仲良くなれると、そう思った私は、中学から高校卒業までは、勉強よりも強くなる事ばかり考えるようになりました。
>  まぁ、そのせいで成績は落ち、親に叱られる日々、同級生とは誰とも接しない日々、辛いけど、いつかみんな僕の事を認めてくれると信じていた。
>  ま、当時は子供でしたから、こんな馬鹿みたいな事を信じきっていましたけどね。
>  今思うと、貴重な学生生活を無駄にしたなぁ。
>
>  そして、高校卒業して社会人になった後、ある程度収入が入ったら、私は土日、有給の休みを使って、一人で日本全国に足を運ぶようになりました。
>  理由は、社会人2年目までの私は、結局強くなる事しか考えていなかったのです。
>  現代の競技化した武道ではなく、喧嘩や殺し合いの中でも生き残れる真の武道を! 更なる力が欲しい! そう思った私は、世界各国のあらゆる武に触れ、その中からもっとも自分に適したと思った古流の武道を選抜し、未だにその修行に没頭しております。
>  しかし、社会人三年目にして、ようやく目が覚めました。強くなっても無意味だと、いくら頑張っても誰にも褒められない、誰にも認めて貰えない、僕は一人だ、一人ぼっちだ、もう嫌だ、生きるのが嫌だ、死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。
>  生きることは無意味だ、憎い、全てが憎い、すぐに感情的になる人間が憎い、すぐ言葉で、暴力で人を傷付ける連中が憎い、こんな自分に育てやがった実の親が憎い、そして全てを憎む自分が憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
>
>  あーもうどうでもいいやぁ、どうせいくら頑張っても無意味だ、生きることも死ぬことも無意味だ、あーもう強いだけの人生でいいや。
>  
>  嫌いだぁ、本当は人を傷付けるのが、自分が傷付く以上に嫌なのに、他人を憎む自分が嫌だぁ、誰か僕を殺してくれぇ 



Name: ガネーシャ
Date: 2017/02/13(月) 14:25   No:29572
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Title: Re:無題    
それじゃつまらないのは当然ですよ。 武道をやるって悪くはないです。坂本龍馬も、自分が北辰一刀流の免許皆伝の使い手で強いという事を知っている者は喧嘩を売って来ない。 同じ事を言ってます。 ただ、龍馬は国もこれと同じで、日本が強いと分かれば諸外国も攻撃してこない。と更に上に思考しました。 思考傾向、哲学的に考えている事は間違いではないのです。しかし、下に定義してるから、無意味、自殺、殺してくれ。という事になるのです。 物理や量子力学が公式で現実を明確にするように、哲学は言葉で現実を明確にしていくものです。 下に定義しても意味がありません。上に定義すれば、自ずと下の定義も見えてきます。そして更に上。 哲学的に思考して上に定義できれば、視界は広くなります。登山と同じで高いほど見渡せる景色が異なります。 一段の高さの違いは、本当に見える景色が違いすきるのです。
雫 の定義は何でしょうか? 水は沢山ありますが、雫って何ですか?
一滴の雨でも、雫と水の大きさは変わりありませんよね。 雨と雫、氷柱から落ちる水は雪解け水ですよね。
人とは雫と同じです。 水は沢山あるように命も沢山あります。 多くの命の中も一つの雫が自分です。
多くの水の中から雫になるものは極めて限られていますね。 100メートルちょっとの高さの大木があり、多くの枝葉があり、その葉から落ちた瞬間が雫の始まりです。 自分の命の始まりです。 1メートルを一年と考えて、人という雫には、高くて100メートルちょっとの高さ以上はありませんね。 人により、雫となり地面までの高さは一律ではないので、30センチの人も居れば、100メートルも人も居ます。 そして地面に落ちた瞬間に雫は雫ではなくなります。
自分が雫として葉から落ちて23メートル。絶対とは言えませが、80メートルの高さから落ちたと仮定した場合に、まだ23メートルしか落ちていません。 そして、人という雫は、ただの雫ではありませんね。 考え行動する事ができる雫です。 落ちていく速度はどんな雫の同じです。 落ちて行きながら、突風にあう事もあれば、近くの雫と反発したり、逆に良い影響を受けたりしながら、人という雫は落ちていき、いつかは必ず地面に落ちてしまいます。 その落ちていく過程が人生であり、自分が何を吸収するかは、個々の雫の自由なのです。
自分が薄っつぺらだ! というのなら、他の雫かろどんどん良いものを貰って、濃厚な雫となればいいじゃないですか。
中途半端な生き方をして中途半端な死に方をしようと’考えるのなら、しっかり生きて、しっかり死のう! という考えも持ちましょう。
上手く行くなら生きる。 上手く行かないなら死ぬ。 というのは単純すぎます。 長く生きてりゃ人生の沖沈みなんてあって当たり前です。 思いどうりに行かない事の方が多いのは誰でも同じです。その度に切れていたのでは疲れて仕方がないでしょう。 極論もいいですけど、相対する極論を持ってきて思考しましょう。
人に認めてもらいたいなら、何でもいいので20年はやることです。 20年は続けて、それから向いてるかどうかを考え、周囲がどう判断しているかをじっくり観察しましょう。 20年ははらないとものにはなりません。
20年です。 自分の命が始まってまだ23年。 それで、自分の力で何かを掴めた! という事がないのは当たり前でしょ。やってないでしょう20年。 やりもしないで、できるできないは無いんです。 人生の目的、人生の意義、幸せ、楽しさ、それは自分で見つけるものでしょう。 甘ったれるな! しっかり生きて、しっかり死ぬ! 何を持ってしっかり生きたといえるのか? バカじゃないんだからちゃんと考えた行動しろって。
ちゃんと考えて行動してけば、今の苦しさなんて、ちょと石に躓いた程度。 上手く行かなくなったら愚痴しか言わない。 まずこれを辞めましょう。 応援してますよ。 残りの人生で自分が輝けないと誰が決めたのでしょう。 間違ってやり直してはいけないと誰が決めたのですか? この先の人生がつまらないと誰が決めたのですか?


 
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