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Name: かじめ
Date: 2010/08/21(土) 11:32
No:3778
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Title: 供養は誰の為?
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先日、親戚の三回忌の法事がありました。その供養膳の席で和尚様に、「供養は自分自身にするものだよ」とお話しされました。
三回忌の供養で故人を偲ぶことが供養だと思うのですが、どういう意味なのか、その場で和尚様に聞けなかったので、投稿させていただきました。
誰の為の供養なのか?教えてください。よろしくお願いします。
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Name: 一般人
Date: 2010/08/21(土) 17:04
No:3783
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Title: Re:供養は誰の為?
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仏教では本来、祈祷や呪い(まじない)、占いは認めていません。
池に石を沈めて、「浮かべ、浮かべ……」と祈祷したからといって、石は浮かぶか? といった話を仏陀がしています。石は浮かぶわけないですよね。反対に、油を池に投げ入れ、沈め沈め…と祈っても沈むことはありません。 故人も同じく、祈祷によって天国?にいくのではなく、故人の行いによっていくわけです。
日本では、「仏教」を名乗りつつも他の色んな信仰が混じったりして、仏教を名乗るにはどうなんだろう、と疑わざるを得ない「仏教」もあるように感じます。都合よく「宗教」を用いてビジネスする輩には注意が必要ですね。 いずれにせよ、宗派によって違いがある部分については、信じられるかどうかを基準に理性的に判断するのが、人間としてあるべき姿な気がします。
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Name: ゾンビ
Date: 2010/08/21(土) 22:56
No:3785
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Title: Re:供養は誰の為?
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> 仏教では本来、祈祷や呪い(まじない)、占いは認めていません。
目から鱗です!! 禅宗の寺でも、日蓮宗の寺でも、真言宗の寺でも、天台宗の寺でも御祈祷やってますけど、それらはみんなすべてエセ仏教ってことですね。 ホントの仏教は成仏も願っちゃいけないんですね。
ということは、葬儀の後で「成仏するようお経を読んでしっかりお祈りしました。」などという坊主はニセモノってことですね。
なるほど。注意します!!
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Name: ぼた
Date: 2010/08/22(日) 09:29
No:3787
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Title: Re:供養は誰の為?
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解釈は人それぞれですから、同じ仏教・宗派の中でも様々な考え方があるのも仕方ないでしょう。 どれが正しくてどれが間違っているということではないので、自分が故人を偲ぶ事が供養だと思うならそうしてください。
もともとあった仏教が、なぜ今のように多数の宗派に分かれたかということを考えてみてください。 それぞれに解釈が違ったり、新しい考え方を取り入れたりしたために各宗派に分かれていったのではないでしょうか。 ならば、過去に行われたように、新しい解釈を加えて自分が思う仏教をしたとしてもよろしいかと思います。無論、常識の範囲内でということはあるでしょうが。 新しい解釈を否定するならば、仏教が各宗派に分かれていること自体を否定しなければなりません。 また、テレビ等で各国の仏教の様子が映ることがありますが、インド・中国・日本の仏教は少なくとも見た目の上では同じものとは思えないほど違って見えます。 これが現実です。
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Name: 一般人
Date: 2010/08/22(日) 10:40
No:3788
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Title: Re:供養は誰の為?
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仏教の世界的な集まりでは、日本の僧侶は僧侶とみられてないそうです。仏教本来から掛け離れてしまっていて、どちらかというと破戒僧に近いからと思われます(妻帯し家を持つなど、出家の生活ではないからです)。
仏教は出世間の教えですので、世間で当たり前とされる考え・解釈からは離れたスタンスで存在するのが本来の姿ですが、日本の今のお寺さんは世間に毒されてますし、世間もまた、世間が期待することに応えるのを求めてはいないかと思います。 祈祷、呪い(まじない)の類は世間にウケがいいのは事実でしょうが、それをやること自体の是非はまた別の話であって、、、少なくとも仏教の出家者には禁止されていたということです。
ちなみに上座部仏教では、亡くなる瞬間に善い心の状態となるよう、亡くなりそうだと聞いたらお坊さんが駆け付けるそうです。日本では死んでからですから、同じ仏教とはいえ、本当に違うものですね。
(追記)ご質問からの乖離があるようなので話を戻しますと、 「供養は自分自身にするものだよ」
これは、二つの意味合いが考えられるように思います。
一つは、仏像に手を合わせるとき、それは自分自身に手を合わせることなのだといわれるのと同じ意味合いです。 つまり、自分自身の仏性に対して手を合わせ、祈るということです。
二つ目は、善なる行いをすることで、自らが功徳を積むということです。 例えば三回忌の場で法話があったならば、聞法は善い行為になりますから、聞いた人自身の功徳となると思われます。
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Name: 天台沙門
Date: 2010/08/22(日) 12:08
No:3790
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Title: Re:供養は誰の為?
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生者のためであるのと同時に、死者のためでもあります。 どちらか一方のため、と限定的に考えることはお勧めしません。
もと「供養」とは、神仏に食物を供えて一緒に食べる、という人類普遍の宗教行為がもとにあります。日本的な宗教感覚では、死者の霊魂は祀られることで先祖霊となり生者に幸福をもたらしてくれる、と考えられてきました。この「祀る」という具体的行為が「死霊を招いて一緒に食事をする」ということです。 この感覚の延長として、食事の代わりに仏事をするということが、死者を供養するという仏教的術語になったわけです。 ところで、死者の霊魂を祀らないと祟り神になるというのが古代の宗教意識です。横死と呼ばれる普通でない死に方をした人ほど、祟り神になりやすいという意識もついてまわります。この感覚が現代の日本人にも残っているので、自分自身に原因のある不都合すらも「ご先祖のお叱り」とか「水子の祟り」とか理由付けをされたときに信じてしまうわけです。 こういった文化の基層にある宗教意識をふまえると、死者を供養することは祟られないよう生者のためにする行為ということにもなります。
以上は、宗教者が知ってか知らずか語ることがない精神史的な背景です。それをそのまま現在の我々が信じるべきかというと、それは違うでしょう。ならば、現代的な解釈が行われて然るべきです。
私は、供養とは自身に有縁の人々すべてのために行うもの、と信じております。
仏教の基礎理論は「縁起説」であり哲学的には認識論の範疇に属する理論ですが、これを存在論の範疇に援用した場合、自分自身という存在は人間関係という「縁」のなかでしか存在できないという理解に到ることができます。 つまり、とある法要において供養されているのは具体的な一個人であっても、その一個人は自分自身に縁のあるすべての人間関係を象徴する存在として考えるべき、ということが私が仏教儀礼を司るときの基本姿勢です。 「有縁の人々すべて」とは、我々よりも先に、浄土・極楽・天国・冥界・あの世、と呼ばれてきている世界に赴かれた人々です。いま現在、縁の濃淡の違いはあるにせよ自分自身を含め一緒に暮らしている人々です。そして「七つまでは神のうち」と言いますが、何か偉大な存在(=Something the great)のもとから我々のところにやってきたばかりの人々、いつか必ず生まれてくるであろう人々です。
私は、特定の一個人を供養することは、その個人に象徴される自身につながる人間関係すべてを想い描くことと考えております。「どちらか一方のため、と限定的に考えることはお勧めしない」のは、こういった理由からです。
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質問以外には対応しないことを旨としているが、1点だけ。 仏教の目的は成仏(釈尊のような人に成ること)である。それを願わず、なにが「ホントの仏教」か。
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