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  水子供養・先祖供養について

[3797] みかん
[3799] 天台沙門
[3800] みかん
[3802] 天台沙門

Name: みかん
Date: 2010/08/24(火) 00:00   No:3797
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Title: 水子供養・先祖供養について    
掲示板に以前同様の相談事項があったのですが、私のケースについてご相談のっていただければと思い書き込みしています。

私の場合も占いで家族に水子がいるのでは?と指摘されて、供養してあげると良いとアドバイスがありました。
実際、母の兄弟に居たことと、ここ最近精神的に厳しいことが多く、水子は4代まで影響があると聞いて、何か関係があるのではないかと思いました。
供養の方法が分からなかったので、どうすればいいのか占い師に聞いたところ、水子供養に信頼しているお寺があると紹介されて、そこで供養してもらうことにしました。
永代供養で1体10万円でした。

また、七代供養についても最近気になっていたので、そのお寺で七代供養等についても伺いました。すると、お墓参りやお盆やお葬式はその通りセレモニーや懐古会で本当の供養ではなく、魂の供養をしないと故人は天国には行けないとのこと。なので、出来るところから先祖供養もするといいですね、と言われました。

先祖の供養として7代供養すべきなのでしょうか。



Name: 天台沙門
Date: 2010/08/24(火) 13:40   No:3799
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Title: Re:水子供養・先祖供養について    
結論だけ先に申し上げますと、とりたてての「七代供養」という法要の必要は感じません。
ところで、いわゆる水子さんが「実際、母の兄弟に居た」ならば、菩提寺さんでは何らかの理由で年回の法要が行われていなかったのでしょうか?



>水子は4代まで影響がある

まず、既に亡くなられた方々はすべてご先祖だとお考えください。そして、いわゆる水子さんだけを特別扱いなさらないことをお勧めします。
はっきり申し上げますが、いわゆる「水子供養のお奨め」は「不幸な死に方をした死者は、きちんと祀らなければ祟り神になる」という日本古来の宗教意識が基底にある民間信仰であり、仏教の教説に基づくものではありません。
現代的に解釈をすれば「生者にとって受け容れがたい死は、その死者を手厚く葬り祀らねば、その死の受容(超克)は困難であり、生者にとっての精神的苦痛はいつまでも続く」ということでしょう。
いわゆる水子(流産児・死産児)や幼くして亡くなったお子さんを悼むことは、産んであげられなかったこと・育ててあげられなかったことに関して、親が子に対してもつ「申し訳なさ」を受け容れたり乗り超えたりするための行為です。その精神的な営みを援助するために、寺院ではお地蔵さんや観音さんの慈悲という方便を用いているだけです。

あくまでも、生物としてのヒトの存在の基本である血縁という縁に連なる人々のなかに、産まれることができなかったり幼くして死んだ子供たちがいた、というよくある事実(現代でも流産率は〜15%)に基づき、その親や祖父母や兄弟姉妹の悲しみを想像してさしあげればよろしいでしょう。つまり、ご自分には産まれることのなかった伯父(叔父)さんがいたんだな、と想像いただければ、それでよろしいのではありませんか? 



>お墓参りやお盆やお葬式はその通りセレモニーや懐古会で本当の供養ではなく、魂の供養をしないと故人は天国には行けない

別項にも記しましたが、「供養」の本義は「神仏に食べ物を供え、一緒に食べる」という行為であり、これは人類に普遍の宗教行為です。ですから、冬の正月・春秋の彼岸・夏の盆という季節ごとに、死者を含めた神仏の存在を意識して、できれば一緒に過ごしているような気分になることが日本古来のきちんとした「供養」です。墓参も同様に、自分に縁のある死者を憶いだしたり、直接に知らなくても先祖と呼ばれる人々を想像することですから、それも充分に「供養」であると考えます。
そもそも、宗教儀礼(セレモニー)に参加する目的は「我々はこの儀礼の趣旨に共通の意識をもっている」と参加者全員が感じることです。感情のうえでの連帯感をもつためですね。したがって、セレモニーなくしては死者や神仏への想いを致す「供養」という行為も果たされないということになります。

ご質問の文脈では、どうもそのご寺院のなさる「本当の供養」以外の法式には意味も価値もないとのご主張をお持ちのようです。もし「魂の供養」が「生者は死者の呪縛から自由になって生きてゆき、死者は生者の執着から自由になって死ぬ」という知見に基づくことならば強く共感しますが、そのご寺院ではどのようなご葬儀をなさっているのか非常に興味がもてます。

ついでながら、仏教には「天国」という概念はありません。
極楽に代表される「浄土」に往くか、大日如来と称される宇宙の真理そのものと一体化するか、釈尊の教説に従い死後の世界については考えないか、です。また、日本古来の伝統的宗教観では、死者は「黄泉」や「常世」という「あの世」に赴き、定期的(盆と正月)に「この世」に訪ねてきてくれることになっています。
「極楽」という点でいえば、阿弥陀如来の本願(存在意義)はすべての人を往生させてくださる、ことにありますから、阿弥陀さんを信じる以上は「天国」には行けなくても「極楽」には往けるということになります。



>7代供養すべきなのでしょうか。

まずは、その伯父(叔父)様にあたる水子が葬られている(おそらく菩提寺であろう)ご寺院で、普通に回忌の法要やら季節ごとの墓参をいただければ必要にして充分です。
「七代供養」という特段の法要をしていただくよりも、人は人間関係という縁のなかでしか生きられないという現実をふまえ、その縁あるすべての人々の代表としてご先祖がいらっしゃるというご気分をおもちください。

まさかとは考えますが、7代の親子関係を遡ると対象となる人数は(2+2x2+……+2x2x2x2x2x2x2)人です。「永代供養で1体10万円でした」とのことですから……。


Name: みかん
Date: 2010/08/24(火) 20:07   No:3800
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Title: Re:水子供養・先祖供養について    
コメント頂き誠にありがとうございます。

>いわゆる水子さんが「実際、母の兄弟に居た」ならば、菩提寺さんでは何らかの理由で年回の法要が行われていなかったのでしょうか?

水子のお墓を立てており、お寺の側にある墓地なので何かしら法要はされているのかもしれませんが、正直、よくわかりません。
この曖昧な感じが、ますます何かやらなくてはいけないのでは?!という衝動に駆られました。

魂の供養について、「お盆やお彼岸に先祖を思い出すだけでは供養にならない」と、そのお寺で聞いた話について、「千の風になって」という歌にもあるように、先祖(魂)はそこにいないのか。。。。と何か説得力のあるような・・・と思いまってしまいました。

お葬式については、こう聞きました。江戸時代に疫病が流行った時、道端に人がバタバタ亡くなって行き、亡骸のやり場に困った皆が、お寺に運べばお経の一つも上げて成仏させてくれるだろうと考え、お寺の前に皆が亡骸を山のように積んで帰り、放っておくわけにもいかず、住職がお経を上げてあげたことがお葬式の始まりだとのことです。
本来、お寺の役割は、現世を生きる人に説法を説いたり、魂の供養をすることとのことです。


以上のように聞きましたが、やはり小さい時から教えられてきたお墓参りやお盆などが間違っていないことを確信しました。
ありがとございます。
今更ながら、占い師の方からは、母には水子供養のことは言わない方がいいと言われてました。それは、母がそういう霊的なことを信じる方じゃないので、とのことでした。


もし宜しければご教示ください。
今回の水子供養で木彫りのお地蔵さんを作りました。お寺に置いてもらっています。お寺の方には、月に1回はお参りに来た方がよいといわれましたが、年に1回や全く行かなくなることは良くないのでしょうか。
魂の供養だけならば1万円だったのですが、お地蔵さんとして存在すると気になってしまいます。

どうぞ、よろしくお願いします。


Name: 天台沙門
Date: 2010/08/30(月) 14:53   No:3802
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Title: Re:水子供養・先祖供養について    
その1
>年に1回や全く行かなくなることは良くないのでしょうか。

無理に毎月の参拝を続けることまではお勧めしません。
これは「月参り」の風習の有無によります。おそらく、お寺さんがこの風習のある地域に所在しているので、お勧めになっているのでしょう。あくまでも「月参り」は風習の問題ですから、ご自身の菩提寺さんにもこの習慣があるならば、毎月の命日にご参拝なさるほうが良いでしょう。
私の預かる寺(と近在)には、月参りの風習はありません。ですから、月参りをいただく方は丁寧な方だと感じますが、「したほうが良いですか?」と訊かれたときには「そのほうが丁寧なのは確かですが、私としては祥月のご命日と季節毎の墓参をいただければ充分と考えています」とお答えしています。

その2
>水子のお墓

ご事情は了解いたしました。
前稿では述べませんでしたが、いわゆる水子霊については、ふたつの考え方があります。ひとつは「いずれ新しい身体を得て還ってきてくれる」というもの、もうひとつは「生まれてこなかっただけで、亡くなってしまったということは大人と同じ」というものです。
前者の場合は、現世に存在しなかった人ですから葬儀は必要がなく、先祖代々の墓所に身体や霊魂を納める必要もないということになります。ですから、水子霊を弔う(記憶する)場合は家の墓ではなく公(お寺)のものとして「水子墓」を造る必要があります。
後者の場合は、きちんと葬儀をして墓所を設けて弔うことが必要となります。水子さんとは、いわば、最も不幸な死に方をした人ですから、それだけしっかりと祀らねば祟り神になる可能性も高いと考えられてきています。よって、もしかしたら遺体・遺骨は納められないにせよ、独立した人格として戒名を授かり墓誌に記すなどして一家一族のひとりとして扱うことが必要になります。
これらは「考え方が違う」というだけのことで、優劣や善悪の問題ではありません。




以下は、余談です。

江戸時代に仏教式葬儀が一般化した理由は徳川幕府の宗教政策によるものです。仏式葬儀をするということは、キリスト者が臨終の際の告解をできないということですから、仏式葬儀をすることをもってキリシタンではないという証明にしたのです。

葬儀の起源については、いうまでもなく仏教をはじめとする「宗教」よりも古く、おそらくは人類が文明や文化をもったときにまで遡ってよいでしょう。日本における葬儀と仏教の関係に限っていえば、仏教儀礼に葬礼が取り入れられた時期、または仏教式な葬儀が始まった時期は、江戸時代よりも古いことは明らかです。
奈良時代の歴史書『続日本紀』には、釈尊の葬儀に倣って火葬された僧侶のことが記載されています。鎌倉時代の『方丈記』には「疫病が流行った時に、仁和寺の僧が仲間とともに、京の街に捨てられたままの死者の額に阿字(大日如来の種字)を書いて、その成仏を祈った」話があります。

さて、寺院(というか僧侶)の役割が現世利益であるかどうかは議論の対象になりますが、私は「自分以外の死者の冥福」や「自分自身の死後の冥福」を祈り安心を得ることも現世利益であるという観点から、宗教の役割は現世利益であると考えております。よって、葬儀も「生きている者の心の平安」という文脈で行われるべき儀式であり、宗教者が葬儀を行うことを忌避すべきではなく、本然的な義務の一環であると考えております。

仏典には『キサーゴータミー説話』と呼ばれる、釈尊その人が子を喪った母に対して「葬儀」を行い子への執着から自由にさせる、という話があります。もちろん釈尊が現在の仏式葬儀を行ったわけはありません。「死んだ子を生き返らせる祈祷をするから、街のどの家からでもいいから食材をもらってきなさい、ただし死者を出したことのない家からもらってきなさい」と母親におっしゃるのです。当然、祈祷に必要な供物(どの家の台所にもある食材)を集めることはできませんが、しかし母親は大切な身内を喪って悲しんでいるのは自分ひとりではないというあたりまえの事実に気がつきます。

本来の仏教的な葬儀とは、民族宗教的な祟り神の信仰を菩薩や如来による救済によって代替するものではなく、釈尊が行われたように辛い事実であっても事実として受けとめるための行為であるといえます。

なお『千の風になって』ですが、我々が昔から使っている「草葉の陰に」という表現と響きあいます。仏教のうちの密教の本尊である大日如来は「宇宙の真理そのもの」であり、これと一体化することを成仏であると考えています。宇宙と一体化した故人が、風や雨や鳥の声になって我々と一緒にいてくれるという考えは、別におかしなことではありません。
墓石や位牌や仏像は、姿の見えない故人や神霊や仏を感じることが大変なので、象徴となる物体を必要としているということです。





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