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  聖天信仰について

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[3849] 天台沙門
[3856] 午前零時

Name: 午前0時
Date: 2010/09/21(火) 01:45   No:3842
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Title: 聖天信仰について    
初めて投稿します。
私はかなり前に、どうしても叶えて欲しい願いがありました。
大聖歓喜天さまにおすがりすれば叶わぬ願いはないと言うのを聞いたことがあり、
願いを叶えて欲しい!
ただそれだけの理由で、特別な信仰心もなく、近くの聖天さまのお寺に、それこそ駆け込みました。

結局、私の願いは叶わず、
まぁそもそも叶わぬ願いだったのだろうと諦め
せっかくのご縁なので、そのお寺に毎週末にお参りしておりました。

その間、願い事があり、そのたび願をかけておりましたが願い事が叶うことはありませんでした。

その代わり、降って沸いたような不可解な災難に逢い
原因を考えておりました。
自分の撒いた種の結果とは考えてづらく、もしかしたら聖天さまの天罰ではないかと
思うようになってきました。
責任転嫁も甚だしいのは十分承知ですが、もしかしたら、聖天さまに好かれていないのではないか、拒絶されているのではないかと思うようになってきております。

聖天さまは誠意を持っておすがりすれば、必ず願いは叶うと言われていますが
もしかしたら人を選んだりするのでしょうか?

聖天さまを信仰してから、災難が多いような気がするのですが…



Name: 一九
Date: 2010/09/21(火) 06:02   No:3843
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Title: Re:聖天信仰について    
聖天様に限りませんが、自分のカルマ(学び)に反する願いはかないませんよ。
それからエゴによる欲望、つまり全体の調和に反する願望、人と比較による願望、結果として人に不幸が回る願望はかないません。

もう一つ願い方の問題があります。
願望が実現した結果をイメージして、その喜びを感じます。
イメージとは五感で体験し、その感情を味わうこと。
「何々してください」という願い方は欠乏感を体験しますから、欠乏した状態がかないます。
さらに結果を時間上で追わないこと、「果報は寝て待て」です。
熱意があること、あきらめないことも必要です。
熱意と結果を追わないことの関係が難しいですね。

最後に神仏との接し方です。
神仏と個人的に親しい関係になること。
日ごろから恵みに気づいて感謝していること。
願いを委ねること、つまり自分でどうこうしようとすることを放棄すること。
熱意と委ねるの関係も難しいです。


災難なんてどこにもないですよ。
神仏の罰もないです。
自分に必要なことが起こっているだけ、偶然起こることは何もないです。
どんなことも否定せずに受け容れてください。


Name: 午前0時
Date: 2010/09/22(水) 00:55   No:3844
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Title: Re:聖天信仰について    
ご回答ありがとうございます。
実は私は先月、事故を起こしまして、幸い(?)対物でしたが、車は廃車になってしまいました。
これも、私に何かを気付かせようとすることだったのでしょうか。
必然的に起こったことだったのでしょうか。

吟味する必要があるな…

そう感じています。


Name: 天台沙門
Date: 2010/09/22(水) 17:36   No:3849
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Title: Re:聖天信仰について    
業界内部では「聖天さんは怖い」と言われます。「下手に拝むより拝まんほうが身のためや」とのことで、きちんとお仕えしないと祟られると真剣に信じられております。それだけ功験と威の強い仏様と、私は理解しております。

大切なことは「きちんと」という点でしょう。
そうと決めたら、朝夕の勤行は欠かさないだけではなく略さない。時間も守る。「願掛け」と「○○断ち」を対にするのもよく行われているようです。あと忘れがちですが、願いが叶ったときは「お礼参り」をして「願解き」をしてください。


さて、現世利益のお祈り事を「加持祈祷」といいますが、「加」は神仏の威力が人に加わること、「持」はその力を維持しようと励むこと、「祈祷」は祈ること、をいいます。祈るだけでなく、祈りがかなうよう努めることが必要なのですね。例えば、ご祈祷いただいたクルマに交通安全の御守をいくらぶらさげていても酔いどれが歩行者天国に突っ込めば悲惨な結果となります。禅的な表現をすれば、拍手は片手では鳴りません。


仏教の基本教義からすれば、すべての事/物は因と縁によって成り立ちます。そして結果である事/物も新たな因縁となります。そういった縁起のシステムでは祈祷祈願も因縁のひとつを作ったにすぎず、お祈りをして好いことがあったから云々という理解も、お祈りをしたのに好いことがないから云々という理解も、厳しい表現をすれば短絡思考ということになります。

そもそも、神仏という人の上にいます偉大な存在は、人の努力の範疇を超えたところについて、その努力に感応して守護や援助をくださるものと信じます。それは聖天さんも同じでしょう。まずはご自身のできることをなさり、次いで聖天さんに祈る。それでよろしいと考えます。


Name: 午前零時
Date: 2010/09/24(金) 06:49   No:3856
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Title: Re:聖天信仰について    
天台沙門さま、ご回答ありがとうございました。

聖天さまについて
今までは「困った時の神頼み」的に礼拝しておりました。
一応はお祀りしておりましたが、まだまだ甘いようで
聖天さまを礼拝する資格などないのかな……などと思っております。


因果の法則なども、書籍などで知識はありましたが
最近の(被害者意識丸だしの言い方をすれば)不運も、私が蒔いた種なのだな、
と考えております。

ご回答、参考にさせていただきます。
またどこかで、よろしくお願いいたします。

それにしても、なぜあんな不自然な事故(対物で幸いでした)を起こしてしまったのか、未だに不自然でなりません。





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