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  脇持について。

[3975] あかしや
[3979] 天台沙門
[3983] あかしや

Name: あかしや
Date: 2010/12/05(日) 11:09   No:3975
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Title: 脇持について。    
脇持についての質問です。例えば、釈迦如来の脇持はご承知の通り、普賢菩薩と文殊菩薩です。普賢菩薩は徳、文殊菩薩は知恵の菩薩でいらっしゃいますが、釈迦如来は万能であって、徳も知恵も充分に兼ねていらっしゃると思うのですが、なぜ改めて徳の菩薩と知恵の菩薩を脇に置くのでしょうか?


Name: 天台沙門
Date: 2010/12/06(月) 09:39   No:3979
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Title: Re:脇持について。    
歴史上の釈尊(=人格)とは別に信仰の対象としての釈迦如来(=仏格・神格)を考えた場合、その象徴するところは「仏教の本質」であろうと考えられます。
その仏教の本質とは「智慧」と「慈悲」です。
この2点があることを意識するために、あえて「智慧」を象徴する仏格として文殊菩薩を、「慈悲」を象徴する仏格として普賢菩薩を、それぞれ個別の存在として提示していると考えられます。

「智慧」とは十二因縁をはじめとする理論体系であり、近代西洋哲学における「理性」といってよく、「慈悲」とは修行の動機となる他者との共感能力であり、こちらは「感性」といってよいでしょう。
「智慧」と「慈悲」は、「理論」と「実践」もしくは「アタマ」と「ココロ」と言い換えてもよく、つまりは、どちらが欠けても仏道の成就には至らず、文殊菩薩に体現される智慧の実践と普賢菩薩に体現される慈悲の実践とを共に行ずることが必要であるということ、どちらをも意識せねばならないということ、そして別々の心的機能である「智慧」と「慈悲」を統合したものが「覚り/悟り」であるとすることを、三尊像という形式で象徴していると理解できます。


ところで、釈迦如来の脇侍を呼ぶときは「文殊・普賢」と「智慧・慈悲」の順で呼ぶのですが、阿弥陀如来の場合には「観音・勢至」と「慈悲・智慧」の順で呼びます。これは、釈迦如来という仏格は「智慧」の面が重視されるべきものであり、対して阿弥陀如来は「慈悲」が重視される仏格だからである、と梅原猛『仏像のこころ』(集英社文庫)で指摘されております。


Name: あかしや
Date: 2010/12/06(月) 17:57   No:3983
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Title: Re:脇持について。    
菊雅様、天台沙門様ありがとうございます!大変参考になりました。不足を補うために脇持が存在するのではなく、むしろその逆、本尊の知恵と徳を強調するために力を合わせ、あたかも光を束ねるがごとく、その太い威光によって人々を救おうとなされているという点がよく理解できました。菊雅様のわかりやすい解説、天台沙門様の専門的で的確な解説、ありがとうございました。




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