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  因果応報

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Name: 雷神
Date: 2010/12/07(火) 00:15   No:3992
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Title: 因果応報    
因果応報は本当にあるのでしょうか?

人を焼き殺しても焼かれる事もなく殺される事もなく寿命を全うする人。
人をレイプしてもレイプされる事なく寿命を全うする人。
子供を虐待して殺しても虐待もされず殺されもせず寿命を全うする人。
いじめの被害者は自殺し加害者はいじめられる事もなく寿命を全うする。
これだけ自殺する人が多い中そんな人ばかりですので、因果応報があるとは信じられません。
もし因果応報があるなら上記の被害者にはどの様なカルマが返ってきていて加害者にはどの様なカルマが返ってくるのでしょうか?
又、加害者を恨んだり憎んだりしていてもいけないのでしょうか? そして
加害者を恨みつづけ
加害者を憎みつづけ
頭の中で加害者を痛めつけ続け、頭の中で加害者を殺し続けていれば、これもマイナスのカルマとなって自分に返って来るのでしょうか?
又 マイナスのカルマは誰かに返されその誰かがまた別の誰かに返され返しと永遠に続くのですか? 同じ出来事が永久にループし続けるなんて事があり得るのでしょうか?
同じ出来事が永久にループし続けてるなんて事は観たことも聞いた事もない。
本当に因果応報はあるのでしょうか?

現実として
※暴力には何が返ってきますか?
※陰口、悪口には何が返ってきますか?
※嘘には何が返ってきますか?
※イジメには何が返ってきますか?

現実には

暴力には名誉、栄光、自信、優越感、仲間、信用、一体感、絆、笑顔

陰口・悪口には名誉、栄光、自信、優越感、仲間、信用、一体感、絆、笑顔

嘘には名誉、栄光、自信、優越感、仲間、信用、一体感、絆、笑顔

イジメには名誉、栄光、自信、優越感、仲間、信用、一体感、絆、笑顔

などが返ってきます。
因果応報は本当にあるのでしょうか?



Name: 一九
Date: 2010/12/07(火) 14:18   No:3995
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Title: Re:因果応報    
> 因果応報は本当にあるのでしょうか?
あるというより、身の回りに起こることはすべて自分の心の結果です。
でもそれは人に問う言葉ではありません。
もし「因果応報」という言葉を人を責めるために使うとしたら、その結果は必ず自分に現れますよ。
外側の問題ではなくて、あくまでも自分の内面的な心の問題として扱う言葉です。


Name: 天台沙門
Date: 2010/12/08(水) 08:25   No:4005
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Title: Re:因果応報    
いわゆる「因果応報」という事象に関しては「ある」とも「ない」とも証明はできません。

または「因に応じた報いが果である」という価値判断抜きの字義解釈ならば、この宇宙すべてがビッグバンという「因」に応じた「果」ですから、因果応報は現実そのものです。ただし「報い」という言葉が暗示する善悪という価値判断は含まれませんが。


仏教における縁起説は「現実認識においては人が認識する現象は、その他の現象との相関性のなかで存在している」という当然ながらも忘れがちなことの指摘です。
仏教的な因果関係とは、いってみれば「なにかの結果が原因となった」・「原因があって結果がある」・「この結果は新たな原因になる」というループ構造を意味するというより、物/事には「因=直接的原因」と「縁=間接的原因・環境」とがネットワーク/システムとして働き、過渡的な「果」としての物/事を導いているというイメージです。

「因果応報」という言葉の意味は、「諸悪莫作、諸善奉行」という経典の一節を下敷きにした、「善い事をすれば善い報いがあり悪い事をすれば悪い報いがあるのだから、悪事はせずに善事をこころがけよう」という倫理規範としての性格が強いのではないでしょうか。
因果応報というシステムが「ある」か「ない」かの判断はさておき、「ある」と信じて身を慎むということが宗教的な立場であろうと考えます。


人の行為について考えると、法律に「罪刑法定主義」という考えがあります。一定の「罪」という「因」に応じて、一定の「罰」という「果」を報わせるという考えですから、これも「因果応報」の実践例ですね。
ですが、罪と罰との整合性(とくに殺人と死刑との関係)やら、そもそも論としての法の公正な適用についての議論が絶えないことはご存知の通りで、つまり、大枠としての因果応報は成り立つとしても因と果の均衡についての判断は別次元の問題と理解すべきでしょう。

さて。
「輪廻」と「業」の観念が強いと、「イジメにあって自死を選んだ人には、いじめられて自死を選ばざるをえないだけの悪業があったのだ」であるとか「だれかを自死に追い込んでも安泰に長寿を全うする人には、その悪事では帳消しされないだけの善業があったのだ」という解釈が成り立ってしまいます。
ですがやはり、こういった解釈は「正しくない」わけです。なぜ正しくないかについては善と悪について考えることが必要ですが、長くなりますのでここでは措きます。


Name: 雷神
Date: 2010/12/09(木) 19:41   No:4011
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Title: Re:因果応報    
ここにいる人達はみんなお坊さんですか?
仏教の関係者ですか?


Name: 天台沙門
Date: 2010/12/10(金) 09:10   No:4013
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Title: Re:因果応報    
私個人に関していえば、現実社会において某政令指定都市に所在する寺を預かっております僧侶です。
また、天台宗門の僧階取得の必要上、大正大学仏教学科にて天台学を専攻いたしました仏教関係者です。


Name: 一九
Date: 2010/12/10(金) 15:07   No:4014
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Title: Re:因果応報    
私は坊さんではありません。
だから私の言うことがいい加減だと思いたいですか?^^

もう少し付け加えておきます。
因果応報は一生のうちに結果に結びつくわけではなくて、いくつもの生涯にわたって繰り越されます。
繰り越される因果の種子が狭義の「カルマ」ですね。

たとえばおっしゃるように憎しみで人を焼き殺した人がいるとします。
そのあと加害者は被害者の苦しみを共感して、自分の行為を悔います。
それによって被害者の憎しみも少しづつなくなってゆきます。
加害者が被害者の苦しみを感じ尽くしたとき、被害者に許しが生じて、お互いのカルマは解消されます。

ところが加害者が被害者の苦しみを共感することなく、被害者が憎しみを解消することがなければ、カルマが別の生涯に繰り越されて、その加害者と被害者が反転する縁で結ばれます。
それによってかっての加害者は被害者の苦しみを体験することになります。
その憎しみは更に連鎖して、その縁は延々と繰り返されるわけです。

これがカルマのおよその仕組みですが、実際には創造的で固定したパターンはありません。
刑法の罰則も大体これに沿ってできていますよ。
刑法もカルマも学びのためにあって、憎しみや仇討のためではありません。
だから「因果応報」や「カルマ」という言葉を、人を責める道具に使ってはいけないんですよ。


Name: 雷神
Date: 2010/12/12(日) 01:25   No:4018
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Title: Re:因果応報    
人殺し、レイプ、いじめ、虐待、迫害、虐殺、現世では自分のやった事は自分に返ってこないが来世では返ってくると言う事ですね?

現世での被害者は前世での加害者

現世での加害者は来世での被害者

と言う事ですね?
だから因果応報があると言う事ですね?


Name: 一九
Date: 2010/12/12(日) 03:47   No:4019
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Title: Re:因果応報    
そうですね、来世とは限りませんが縁が整ったタイミングですね。
でもお互いのカルマが解消されれば何も起こりません。
つまり原因は過去の行為にあるのではなくて、現在の心にあるということです。
現在の心が過去の行為を生み、そして未来の行為を生んでいます。
だからお互いに憎しみをなくしてゆくことが大切です。

それからこのことは犯罪の被害者を傷つけますのでね。
自分の心にしまっておいたほうがよいです。
さもないと社会から袋叩きに遭いますよ。


Name: 天台沙門
Date: 2010/12/13(月) 10:58   No:4021
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Title: Re:因果応報    
>現世での被害者は前世での加害者
>現世での加害者は来世での被害者

こう考える場合、2つの前提が必要と考えます。
第1には、いわゆる輪廻転生が実在するシステムであるということ。
第2には、輪廻の主体が輪廻をへても同一であること。

仏教的には、第1の前提は認めるとしても、その輪廻転生というシステムから離脱することを目的としています。その離脱のための「道具」が釈尊の提起なさった「縁起説」です。
縁起説によれば、すべての存在は「因=直接的原因」と「縁=間接的原因・環境」によって成り立つから固定した実体はもちえないので、第2の前提である「輪廻の主体が同一であること」はありえない、ということになります。
したがって、前世と来世が存在すると仮定しても、仏教的には「被害」と「加害」が単純に応報するとは考えられません。


性悪説的にいえば、犯罪被害を受けた人が(その人の生死に関わらず)自身の受けた被害を他者にもたらす(報復行為を正当化する)存在となることは否定できません。実例は、政治闘争に端を発する相互報復のエスカレーションです。
性善説的にいえば、何事かの不運にあった人は、他の人をその不運から守ってくれる存在となります。こちらの実例は、救済機能を持つキリスト教における殉教聖人であったり、難産で死んだ女性を子安神として祀る日本の民俗信仰です。


ついでにいえば、宗教的な「罪=sin」は法律的な「犯罪=crime」は別次元の話です。
このあたりは宗教における原罪意識を考えてみればよいでしょう。キリスト教的には原罪を一身に贖ってくれたからこそイエスさんを崇拝するわけですし、仏教的には全ての生命は他の生命を奪うことなく存在できないからこそ慈悲行に励むわけです。

ある人の身にふりかかった悲運が「前世の因縁」によるか「神の意志」によるか「現世の自身の因果応報」によるかなど、因縁生起を旨とする以上、「わからないことはわからない」としておくことが正しい態度であると考えます。


Name: 雷神
Date: 2010/12/13(月) 21:13   No:4022
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Title: Re:因果応報    
現世での被害者は前世での加害者

現世での加害者は来世での被害者

現世で返ってこなければ来世で返ってくる。

そう考えないとつじつまが合わないし
自分のやった事は自分に返って来ない
つまり因果応報はないという事になるのではないでしょうか

最初に書いたスレが因果応報が無いと言う証明になり
因果応報が無いという証明が出来てしまいます。

無いという証明は出来てもあるという証明は出来ないのは無いからですか?


人殺し、レイプ、いじめ、虐待、迫害、虐殺、自分のやった事がなぜ自分に返って来ないのですか?


Name: 一九
Date: 2010/12/14(火) 11:18   No:4023
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Title: Re:因果応報    
ここで結論を出さずに、疑問のままにされては如何でしょうか?

カルマや因果応報は日本仏教の専売特許ではありませんのでね。
カルマは古くからインドに伝わる考え方で、日本仏教は伝達ルートの一つにすぎません。
今では世界中の書物でカルマを知ることができます。
キリスト教の「自分でまいた種は自分で刈り取らねばならない」というのも同じことですね。

私が申し上げたカルマ観は、実際の過去生記憶や記憶層リーディングを私が確認したもので、その中には殺し合いを繰り返していた兄弟のケースもあります。
知識で申し上げたわけではなくて、すべて私が体験した事実です。

4〜50年前の仏教者も私と同じカルマ観だったように記憶していますから、その後日本仏教が変わったのではないかと推測しています。
当時は唯物論が隆盛の時代で、確かに「カルマ」の考え方は評判が悪かったです。
最近の仏教者は誰に聞いても、判で押したように上のような返事が返ってきます。

補足
確かにさとりの視点では固定した実体はないんでしょうけど、個の視点(「私」という錯覚の中)では輪廻も個のカルマもありますのでね。
論理を追えば矛盾しますが、それは視点が違うからで、どちらの視点も仏教にあるはずです。


Name: せんべい
Date: 2010/12/15(水) 01:55   No:4024
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Title: Re:因果応報    
こんばんは。

因果応報って、意味としては原因と結果の関係ですよね。

原因と結果の関係だけを見て考えてしまうと、目には目を歯には歯をと同じ苦痛をと思ってしまいますよね。

しかし、繰り返すという事は、現世での被害者は来世での加害者になってしまっては悪が無くなる事もないと思います。

でも、同じ苦痛をと考えれば来世まで持ち越すかも知れませんが、同等に値するものと考えると現世にて被害者にも加害者にも何か起きた因果に同等の気づきがあるかも知れません。

仏様は、原因と結果ともう一つ見ている気がします。

たぶんそれは、原因と結果で自身の中で感じるもの、自分です。

自身の中に感じる苦痛の元を相手に探すと、恨み憎しみとなっていくように感じます。

しかし、苦痛の元を自分へ探すと、苦痛の元には恨みや憎しみよりも悲しみが強く感じます。

悲しみは、祈りでもあり仏でもあると思います。

俺個人的には、やった事された事が自分だと思うよりも、やった事された事で感じる事が自分への入り口だと思います。

自分へ入っていけば、現世でもやった事に対して同等の因果応報があると思います。

罪や罰だけが因果応報ではないと思います。

因果応報にも導きがあるはずです。


Name: りっく
Date: 2010/12/15(水) 23:57   No:4026
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Title: Re:因果応報    
>現世での被害者は前世での加害者

>現世での加害者は来世での被害者

それももちろんあるようですが・・・
それだけではないようです。それほど単純ではないようです。
本人にだけではなく、周りの人(血縁者等)にも影響します。
DNAというものがそれ(縁者たちの歴史)を忘れないように刻んでいるように感じます。

私はお寺の関係者でも何かの宗教をしているわけでもありません。
単に小さいころから色々辛い体験をしてきた者でして、旦那さんの影響で普通よりは少し霊感といわれるものがあるのかもしれません。

以前、私の祖母のやったことが私に戻ったのだとはっきり分かる出来事がありました。ひどい経験をしました。
幻聴で起こされ眠れなくなり食べることも困難となり一ヶ月で10キロ痩せました。自殺も考えました。
感がよくなければきっと気付かずに「これは運が悪かったのだ」と終わったことかもしれません。

私の祖母は生前若い頃男女関係で問題を持ちました。
そのことで女性一人が自殺したのです。
同じように、人を自殺に追いやった女性に出会い酷い目にあいました。
(そういう人だというのは酷い目にあった頃に知りました。知っていたら近づきません。)
その女性の顔を最後に見たとき、彼女の顔の上に私の祖母の顔がうすらと浮かび??でした。
なぜ祖母の顔が現れたのか後で知りました。
祖母の業が私に返ってきているのを知り、気をつけろと知らせに来たのだそうです。


殺人→殺人、いじめ→いじめというように、そのまま同じパターンが返るというわけでもないようですが、形は違ってもループにはなっているとおもいます。

これは私の単なる想像ですが、被害者も加害者もループを断ち切るカルマがあるのかとおもいます。
加害者は加害者にならないように(事件を起こす前に)ループを断ち切る努力、
被害者は恨みを持たずループを断ち切り、加害者との縁を切る努力
です。

私は今回祖母の業を受けたようですが、彼女ももちろんまだ受けなければならない業は残っていると思います。

ちなみに私の祖母は80半ばで天寿を全うしましたが、一人さびしく施設ででした。葬式では誰一人泣くものはいませんでした。
これも故人の最後として惨めなものかと思います。
故人の人生が葬式にすべて現れているかと思います。



上手にかけなくてすみません。






Name: 雷神
Date: 2010/12/16(木) 05:02   No:4027
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Title: Re:因果応報    
そのまま同じ事が返ってくる訳じゃないんですか?

人を殺しても殺される事なく寿命を全うするみたいな事ですよね


それとカルマの振り分けで例えば10人で1人を1発ずつ殴ったとします。
1人の被害者は合計10発殴られましたが10人の加害者側に返ってくるのは1人1発ずつですか?それとも1人1人が10人から1発ずつ合計10発殴られるのですか?

集団対個人
集団の場合はカルマが振り分けられるのですか?

なぜ集団対個人になるのでしょうか?

又、被害者が加害者を許した場合 加害者には何も返って来ないのですか?

日々の細かい事はスルーされるのですか?それとも日々の細かい事もカルマとなって返ってくるのでしょうか?


Name: 天台沙門
Date: 2010/12/16(木) 08:31   No:4028
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Title: Re:因果応報    
>無いという証明は出来てもあるという証明は出来ないのは無いからですか?

一般的には「有の証明は易しく、無の証明は難しい」とされています。例えば、「白いカラスがいる」の証明は「一羽の白いカラスがいる」ことで済みますが、「白いカラスはいない」の証明は「存在する全てのカラスが白くない」ことを示さねばなりません。

応報論の本質は、善因に対して善果が報いられ、悪因に対して悪果が報いられる、という点でしょう。
ここで大事なことは、ある「因→果」の関係があっても、これを根拠にした「果→因」の関係を導くことはできない点にあります。AだからBである事を理由に、BだからAだったとはいきません。CだからBだという可能性もあるわけですし、Pという条件下でAだからBなので、Qという条件下でAならばCだったかもしれません。


>人殺し、レイプ、いじめ、虐待、迫害、虐殺、自分のやった事がなぜ自分に返って来ないのですか?

ご質問は「ある人物のやった事がなぜ(現世で生きているうちの)その人物に返ってこない(場合がある)のですか?」と、理解します。

ひとつには、これらの行為は強者が弱者に強いる行為であり、したがって弱者が強者に報復する事は不可能に近いからです。また、近代法のもとでは復讐の権利は国家が独占し、私的報復を認めません。つまり近代国家においては、犯罪行為に関しては国家と法律というクッションが入るため、法的に免罪される(処罰の対象と認められない暗数事件とされる)可能性があるから、とも答えられます。

もうひとつは、これらの行為を正当化する理由をもっているから、と答えられます。
政治・宗教が絡んだジェノサイドは「正義」の名のもとに行われますから、正義の名のもとなら誰に何をどうしようと「悪因」にはなりません。それは、「正しい」ことであり、正しいことは「善因」なのですから。
ということは、行為者が自身の行為を正当化できてしまえば「応報」があったとしても自身の行為とは関係のないことと認識できるわけです。

そのうえで、応報論と同害復讐の理念とは別物だということを指摘しておきます。
応報論の主体は、いわばギリシア神話でいうところのネメシス(復讐の女神)に代表される「運命」や「宿命」であり、必ずしも犯した罪と同様の報復が行われるわけではありません。対して、同害復讐法の主体は古典古代の王に代表される国家主権であり、基本的には犯した罪と同様の報復が行われるか代替としての財産刑が用いられます。



すでに述べた通り、いわゆる「因果応報」という事象に関しては「ある」とも「ない」とも証明はできません。
論理学という観点では、矛盾のない体系には真とも偽とも証明のできない命題が存在する(ゲーデルの不完全性定理)わけですし、宗教学においても不可知論という立場が存在します。
したがって、「ある」とも「ない」ともわからないことは、「わからない」としておくことが正しい態度と考えます。ですが、因果応報がないから悪行をしてもよいという理屈にはなりませんし、因果応報があるから善行をするというのも不健康でしょう。

私は、どんな生物も他の生物の生命を奪って生きていかざるを得ないという「原罪」を負って生きているという事実、そして消費エネルギーの高い先進国に生活している以上は後進国の人々の生存可能性を狭めているという「犯罪」を犯しつつある現実、これらを冷静に認識すべきと考えます。
人類は「原罪」と「犯罪」を「因」としたは「応報」を受けつつあります。幸いなことに、そこからの解放が人類全体の課題となっていますから、解放の手段を個々人の問題に振り替え日々の生活をおくることが応報論の現代的な意義だと理解しております。


Name: 一九
Date: 2010/12/16(木) 10:00   No:4030
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Title: Re:因果応報    
奥の深い話になりましたね。^^
カルマって個のカルマだけじゃなくて、集合のカルマもあるんですよ。
集合というのは自分一人ではなく、家族、民族(国家)、男(女)、人類といった1つのまとまりです。
ですからりっくさんのおっしゃるようなことが起こります。

たとえば日本人は第二次大戦で中国を支配しましたね。
そのカルマを受けて、全く関係ない私たちの世代が、いまでも中国に責められて苦しんでいます。
アメリカは広島長崎に原爆を落としたカルマとして、いま核拡散の脅威におびえながら、イラクやアフガニスタンで苦しい思いをしています。
それも個別には原爆を落とした人たちとは違う世代の人たちですね。

それと同じようなことが家族(先祖代々)にも起こります。
私が前に申したことはカルマの原理モデルですのでね。
実際のカルマはとても創造的でパターンがありませんから、原理のように単純ではありません。
研究すると面白いですよ。


Name: 雷神
Date: 2010/12/16(木) 18:10   No:4031
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Title: Re:因果応報    
自分のした事は自分に返ってくる訳じゃない。

そして分からない。


悲しいですね。

被害者が悲しすぎる。
被害者は救われませんね。報われませんね。
被害者は加害者を許す事はできませんね。
苦しいですね。
苦しみだけが残りますね。


許す事もできず
救われる事もない
報われる事もない
苦しいだけ
苦しみが残るだけ



最悪です。

人間
最悪です。

最悪です。
この世 人の世
前世 現世 来世
森羅万象
神仏
何もかも全て最悪です。


Name: 仏教徒
Date: 2010/12/16(木) 18:53   No:4032
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Title: Re:因果応報    
そう、それが真理です。
人間なんて最低な生き物なのです。犬猫のほうがよっぽどマシです。

人は1人で生きられないくせに、人を殺します。
人は1人で生きられないくせに、人を責めます。

・・だから、心を鍛える必要があるのです。心を整える必要があるのです。

許せない事を許す努力をし、慈悲の心を育てる。それを説いたのがお釈迦様の教えである仏教です。


合掌。


Name: せんべい
Date: 2010/12/16(木) 22:54   No:4033
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Title: Re:因果応報    
こんばんは。

ほんと、遣りきれませんね。

狭い世間ですけど、それなりに見てきましたからほとんどの加害者は変わらずのうのうと生きると思います。

でもだからと言って、やり返して繰り返す事も悲しくないですか?

被害者は加害者から悪を見せられる訳だから、悪を知ります。

もし加害者がまた違う誰かに殺された事を知り、それを望んだ事が悪を知っているだけに被害者もツライんじゃないでしょうか。


俺個人的な事ですけど、善をはっきりとさせません。

はっきりとさせれないほど善は大きいものだと思っています。

善を知り善を歩くよりも、知った悪をしないよう避けて行く方が歩き易いかもと思っています。

浄化の道を考えたいです。


Name: 一九
Date: 2010/12/17(金) 05:13   No:4034
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Title: Re:因果応報    
お天道様に向かって「暑い!」ってダダこねてもしょうがないですよ。
自分で日陰探さなくちゃ。
カルマは地球が太陽の周りを周るのと同じ宇宙の法則ですからね。
ダダこねてもカルマになるだけです。^^

ついでだから集合の意味を説明すると。
たとえば人殺しを全員死刑にしても、また同じ数だけ人殺しは発生します。
それはなぜかというと、私たち全員の心の中に人殺しの要素があるからです。
自分の中に憎む心がありませんか?テレビで残虐シーン見ませんか?
それですよ!

私たちは集合として人殺しなんですよ。
だから私たちの社会には必ず一定数の殺人事件が起きます。
そして殺人事件によって私たちは悪を知り、自分が人殺しになることを思いとどまります。
ある意味人殺しはありがたい存在ですね。
だから私たちは集合としてカルマの結果を受ける必要があるんですよ。


よいカルマ(サットカルマ)もありますのでね。
宝くじに当たったり、人からいつもよくしてもらう人、つまり幸運がよいカルマの結果です。
人のため自然のために一生懸命尽くしているとそうなります。
幸運を期待してやるのは逆効果ですけど。^^
どうかたくさんよいカルマの貯金をしてください。


Name: 雷神
Date: 2010/12/18(土) 01:38   No:4035
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Title: Re:因果応報    
良いカルマですか

良い事をすると良い事がある

悪い事をすると悪い事がある

本当でしょうか?

それは理想や願望ではないですか

現実は違いますよね!

悪い事をしても何もなかったり
良い事があったり

良い事をしても何もなかったり
悪い事があったり


何か話しが最初に戻ってしまいましたね。
すいませんm(__)m


Name: 一九
Date: 2010/12/18(土) 06:21   No:4036
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Title: Re:因果応報    
> それは理想や願望ではないですか
これは宇宙の法則です。
結果は縁(つながり)を介して与えられるものですから、原因と結果の脈絡がありませんし、一生を超えた長い時間を経て表れるものが多いです。
だから契約書のようにはっきりわからないだけです。

人間の感覚は変化しかわかりませんから、長い間の蓄積はそれだけ難しいです。
だから幸運の人は少なく、苦しむ人が多いんですよ。
因果応報は観えない仕組みだから。
たくさんの人を観察していると、だんだんそれがわかるようになります。

それから最初に言いましたが、因果応報は人を責めるために期待することじゃないですよ。
人を責めることが今の自分の苦しみになっていますので、自分に因果応報を問うんですよ。
そうすれば自分の苦しみはなくなってゆきます。
人の苦しみは人に任せましょう。^^


Name: 雷神
Date: 2010/12/18(土) 16:13   No:4037
   削除 
Title: Re:因果応報    
結局どういう事?

自分のやった事は自分に返ってくるの?

最終的には分からないのでしょ?


Name: 一九
Date: 2010/12/19(日) 06:00   No:4038
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Title: Re:因果応報    
法則というのは必ずそうなるという決まりです。
芸術を思わせるほど正確で巧妙ですよ。
わからないなんてどこでも言っていません。

心に原因の作用があれば、即座に結果の反作用があります。
結果の反作用が縁を通して、身の回りに現実化するまで時間がかかります。
その間自分が改心すれば現実化する原因はなくなります。
未来の運命は変わるんですよ。・・・そういう人は稀ですが。

ずっと上にも書いてありますけど、因果応報の原因は過去の行為にあるのではなくて現在の心にあります。
行為が行為を生むのではありません。
自分の思い違いに気づきませんか?
つまり仕返しの法則ではなく、学びの法則だということ。
だから人に問うものではなくて、自分に問うものだと何度も言っています。

このことを理解できるにはある程度の素地が必要で、疑問のままキープしておけばいつかわかるようになります。
ゆっくりと勉強してくださいね。
最後に参考書です。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4393322088/ref=ord_cart_shr?ie=UTF8&m=A2TK4LED5TM3HR


Name: 天台沙門
Date: 2010/12/19(日) 11:12   No:4040
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Title: Re:因果応報    
塩野七生『ローマ人の物語V 〜ユリウス=カエサル・ルビコン以後』
 ー憤怒とか復讐とかは、相手と自分とを同等視するがゆえに生ずる想いであり成しうる行為なのである。



>被害者が加害者を許した場合 加害者には何も返って来ないのですか?

哲学的には、人には「わからないこと」であるから「わからないまま」にしておくことが理性的判断です。
法律的には、被害者の赦免感情や処罰意志と法的処罰は無関係です。被害者が「赦し」ても罰が与えられることはもちろん、被害者が「赦さ」ずとも法的に免責される場合もあります。これは、近代法の構造上、仕方のないことです。また、加害者側が加害者意識をもつか、被害者による赦免が加害者意識の消去に資するか、は加害者側の内面の問題であり、被害者側の感情や思考とは別次元の問題です。
宗教的には、神仏の領域に属することですから、人は諦観し受け容れるべきこととなるでしょう。


>被害者は加害者を許す事はできませんね。
>苦しいですね。
>苦しみだけが残りますね。

被害者が加害者を赦すのは、加害者の「業」や「悪因」を消すためではありません。被害者自身が、加害者を憎み続けるという「苦」から解放されるという利己的または実利的な理由と考えたほうがよいでしょう。応報論と同害復讐の理念は別であることは指摘しましたが、ここに被害者からの「赦し」の本質があります。
応報論の観点では「他者を憎むことは、自身の苦の種であり業とも悪因ともなる」から「他者を憎み続けることで、自身は苦を背負い続け悪果を得るかもしれない」ので「自身の苦や業や悪因縁から解放されるために他者を憎むことをやめる、すなわち赦しを行う」のです。
冒頭の引用を拡張すれば、「人」が赦すことができるのは自分だけであって、他者を赦すことができるのは「神」だけあり、「人」が他者を赦すことは「神」への不遜ということになるでしょう。


>現実は違いますよね!

だからこそ仏教は存在します。
仏教の(つまり釈尊の)現実認識の根底は、世間は苦である、という点です。
「生・老・病・死」という四苦、「生老病死」および「愛別離・怨憎会・求不得苦・五蘊盛」の八苦から自由になることが、仏教の目的です。縁起説に基づけば、その「苦」ですら固定した実体をもちえず、人それぞれの様態をもって表れる以上、人の生存には苦はつきものということです。
この現実に正面から向き合うことが仏教的な態度です。



ユリウス=カエサル『内乱記』
 ー人間は自分が見たいとおもう現実しか見ない。


Name: 雷神
Date: 2010/12/19(日) 12:21   No:4041
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Title: Re:因果応報    
つまり自分のした事が自分に返ってくる訳じゃないんですね

行為が行為を生むのではない

子供を虐待して殺しても
虐待もされないし
殺されもしない

行為が行為を生むのではない

虐待されて殺された子供の心にどんな原因があったかは分かりませんが


天台沙門さん
ありがとうございます
m(__)m

自分を許す ですか。

自分を許すにはどうすれば良いのでしょうか?


Name: 一九
Date: 2010/12/20(月) 06:40   No:4042
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Title: Re:因果応報    
行為は結果でその原因はすべて心にあります。
何度でも読み返してくださいね。
先入観(自分の主張)を捨てて素直になれば、文字通り理解できるようになります。

子供は親のカルマを受けますのでね。
集合のカルマも説明しましたね。


Name: 雷神
Date: 2010/12/20(月) 20:25   No:4044
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Title: Re:因果応報    
自分のやった事が自分に返ってくる訳じゃないんですね。

分かりました。


Name: 菊雅
Date: 2010/12/21(火) 09:29   No:4045
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Title: Re:因果応報    
自分のやった事は必ず自分に還って来ますよ。
ただそれが直接か間接的にかの違いだけです。
悪い行いは借金みたいなもので一括返済もあれば分割もある。
(分割だってリボルビングや24回払いもある)
人それぞれ返し方が違う。中には自分の一生の間で返せない人もいる。
それを途中で投げ出せば来世でも払わなきゃならない事になる。
また善い行いは、幸運として還って来たり借金(悪い行い)を減らしたり貯金となったりする。
それと借金の返し方や貯金は人が決める事ではないから人が判断できる事では無い。
私は、そう思います。
ちなみに、私は人を殺したり犯したりする人間を信頼も尊敬もしません。
ましてや友達になろうとは思いませんね。


Name: 天台沙門
Date: 2010/12/21(火) 11:46   No:4046
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Title: Re:因果応報    
>自分を許すにはどうすれば良いのでしょうか?

どうしましょう?

と、いうのは人それぞれは、それぞれの生を生きてきたわけですから個別具体的に解決せざるをえません。いま現在の「苦」は、今までの生という因と縁によってできあがっているので、その因と縁に応じて解放への途を探るしかありません。



私は、自分を許す許さないという以前の問題として世俗的価値観から自由になった自己の確立が第一と考えます。いうまでもなく「ある価値観から自由になる」ということは「他者の価値観を認めない」ということではありませんので、念のため。

宗教的には瞑想(内観)が古典的な手法ですが、正直なところ即効性はありません。瞑想そのものに馴れる訓練からはじめ、何をどう瞑想するのかを知る必要があります。最終的には禅語でいう「無の境地」を体得すること、すなわち「赦しの主体」である偉大な存在との同一体験を果たしたり、自我を客観視できる高次の自己を認識することで、自分自身が許し許される存在になれると感じます。
カウンセリング手法では自分史の構成があります。いま現在の自分が、どういった過程を経てできあがったのか、を言語化(文書化)することによって客観視できるようにするわけです。その過程で、今の自分の「苦」の「因」や「縁」を知ることができるようになるでしょう。

いずれにせよ、自分を肯定する、ということが求められます。
この「自己肯定」は誤解されやすいのですが、「すべて自分が正しい」ということではありません。「自分は自分である」ということを気負いなく認めることです。善なる自分を否定するわけでもなく、悪なる自分を否定するわけでありません。善なる自分を肯定し、悪なる自分も肯定します。 (註:天台宗は仏教的性悪説に立つ。釈尊=仏陀も、その内面に地獄をもっているからこそ地獄にある存在を救うことができる、とする。)



自分を赦すという行為は、赦されるべき自分がいるということです。それはつまり、自分が赦しの対象となる罪を犯したという自覚が必要となります。その自分の罪と正面から向き合い、その結果を受け容れる覚悟を決めて、決めた自分から逃げないということが「自分を赦す」ことの総体でしょう。これを「自己責任」というと非常に浅薄な表現になりますが、自分の行為(=因)の結果と責任(=果)は自分で負う(=応報)という当然至極の原理です。

なお、忘れてはならないことは、「罪を赦す/赦される」ということは、必ずしも「罰を免れる」ことにはならないということです。このあたりは、スポーツにおいて反則の自己申告が世界標準でフェアプレイであると認められることを想起いただければよいでしょう。
逆に「罰を受ける」ことで「罪が赦す/赦される」とは限らないことも同様です。こちらについては、文学におけるシェークスピアなどの悲劇を想起ください。


Name: 一般人
Date: 2010/12/21(火) 12:43   No:4047
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Title: Re:因果応報    
自分のカルマはあくまで自分のカルマであり、親だろうか社会だろうが、カルマを引き受けることはないはずですが……。

たとえば、社会のカルマを受ける、という言い方をしたとき、まず、その社会に生まれるカルマが自分にありますから、自分のカルマでしかありません。考え方として、社会や親のカルマのせいにするのは間違いのはずです。

ちょっと気になったので横から失礼させていただきました。。


Name: 雷神
Date: 2010/12/23(木) 04:24   No:4049
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Title: Re:因果応報    
菊雅さん

例えば
虐待されて殺された子は何をしたのですか?

前世ですか?

虐待して殺した親は少しずつ借金を返して最後には無くなる。

何かを少しずつ返して最後には無くなる
その同等の何かって現世でありますか?

やはり来世ですか?

あくまで例えばの話しです。
他にも色々な事がありますよね。

又、最初に話しが戻ってしまいます。

後 天台沙門さんありがとうございますm(__)m


Name: 菊雅
Date: 2010/12/23(木) 05:38   No:4050
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Title: Re:因果応報    
雷神さん

私は前世の記憶なんてありませんからね。
来世だって、あれば良いぐらいにしか思っていません。
先ず、それが私の基本的な考え方です。

前世で殺されたからと言って、現世で人を殺したら怨みは晴らせるかもしれませんが、その行為は悪い行いにはかわりませんからね。
子供は犠牲になったと考えますよ。
でも、私は神仏を信じますから。
その子は次に生まれてくるときは善い行いの貯金から始まると思っています。
理想なんですけどね。

通勤途中なんで、簡単に書きました。
続きは、また後でm(__)m


Name: 菊雅
Date: 2010/12/23(木) 07:39   No:4051
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Title: Re:因果応報    
先ず、借金は返すにあたって悔いるということが必要ですよね。
自分は悪い行いをしたと自覚しなければなりません。(罪の意識を背負う)
自覚が無ければ返したという事にはなりません。
自覚が無いまま又は畜生道や餓鬼道の心で生きたとしたら当然来世はその様に生まれて来るでしょう。
(人は来世に必ずしも人として生まれて来るという保証は無いですから)

それと、前世で殺された(殺した)から現世で殺す(殺される)の輪廻はどこかで断ち切らなければなりませんよね。

当然被害者は、可哀想です。
でも、その被害者が来世に加害者になる事も可哀想な事です。
私は罰を与えることより、そこから抜け出る事を願いたいですね。

私の養父は子供の私を虐めました。
で、その養父は結局、首を吊って死にました。
他にも原因はあったんでしょうが、虐めも因果応報の中に含まれているとしたら、正直あまりよい気持にはなりません。
恨みはありましたが、だからと言って、死なれてもね〜。


Name: 一九
Date: 2010/12/23(木) 10:58   No:4052
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Title: Re:因果応報    
まだ納得がいかないようですね。^^
確かにいたいけない子供が殺されるのは理不尽ですが、子供は親の学びを促すために、親のカルマを受ける運命を承知して生まれているんですよ。
自分から志願しています。
だからそのような子供に限って素晴らしい子が多いですよ。
親は泣きですね。
そうしてその子は更によいカルマ(徳)を積んで死んでゆきます。
死ぬことが最悪と考える唯物論ではなかなか理解しがたいことですが、生死を越えた真理の世界はそうなっています。

因果応報はやればやり返すといったものではないですよ。
自分の心が発したものは宇宙にこだまして、ありとあらゆる方向から自分に還ってきます。
よいもを発すればよいものが、悪いものを発すれば悪いものが還る、ただそれだけのことです。


Name:
Date: 2010/12/23(木) 14:12   No:4053
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Title: Re:因果応報    
雷神さま、はじめまして。
菊雅さま、ご無沙汰してます。
一九さま、先だってはお世話になりました。
わたしは、元気にしています。
カルマってね、利息がつかないんですよね。
無利息ってありえないような、後ろめたいような気がしますけど、気がつくまで無期限無利息、どうもそうなってるみたいです。
それにね、いくつかのキーワードがあって、『鏡』『あるがまま』『受け入れる』。
わたしは、性分が悪くこれらを受け入れられなかったので、随分苦労をしました。
まだ苦労真っ只中ですが、心持ちが変わりました。
なにをもって苦労とするかは人それぞれですが、『苦労買ってカルマの精算をしなくても、宇宙の本質に気がつくことこそカルマ。魂の浄化成長こそカルマ』という思いで日々を過ごしております。
それは苦行者だけの特権ではなく、日々の暮らしをきちんと楽しみ生きている者の特権と思います。
みなさまが安らかな一日を過ごされますように、では(^人^)♪


Name: せんべい
Date: 2010/12/23(木) 15:19   No:4054
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Title: Re:因果応報    
こんにちは。

真理には「無」が、先ず前提にありますよね。

「無」は闇に見えるけど、宇宙であり自分であり未来でもあると思います。

なので「無」の中にあるもの、自分にとって良い事も悪い事も今はわからないだけではないでしょうか。

「無」から学ばないと、闇を進むのは難しい気がします。

「無」の中に自分の存在に気づけば、同等なものが見つかるかも知れません。

きっと、「同等なもの」は自分で見つけるもので人が決めれるものではないと思います。


すみません。


Name: 天台沙門
Date: 2010/12/24(金) 12:47   No:4056
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Title: Re:因果応報    
>自分のやった事が自分に返ってくる訳じゃないんですね。

「ある」か「ない」か「わからない」ということは、「ない」ということとは異なります。「わからない」ということは、前述のカラスの例でいえば青いカラスや赤いカラスについて語ることにあたるでしょう。

私は、哲学的には「因果応報」について不可知の立場ですが、宗教的には実在するという立場をとります。
その理由は、ひとつには二者択一の際には、より実害の少ないほうを選択すべきという一種の功利主義からです。すでに「因果応報がないから悪行をしてもよいという理屈にはなりませんし、因果応報があるから善行をするというのも不健康でしょう」と述べた通りです。
または、宗教者として論理的かつ現実に即し「因果応報」が実在していることを証明できるからです
 
 「付属池田小学校事件」によって死刑執行された犯人。
 ノーベル賞受賞に際し「長年の努力が報われた」と発言する研究者。

「ある」の証明は一実際例の提示で必要充分ですから、上記の2例をもって「悪報でも善報でも、因果応報は実在する」という証明になります。



ところで、このスレッドの論点の概要は、「因」と「果」の「応報」の関係性が不明瞭である、という点に尽きると考えられます。私見ながら、議論に「時間」の問題および「縁」という環境や間接的原因の問題を組み込むことで、論点の整理が可能となるでしょう。
例えば、
・因と果との時間的間隔に法則性が存在するのか?
・同一の因に対して、必ずしも同一の果とならないのはなぜか?
・因果律は前世・今生・来世と保持されうるのか?
・因果律は今生だけのものなのか?
・そもそも因果律の主体は常住不変なのか?
という点をきちんと考えておくべきでしょう。



「虐待死させられた子供」の問題に関していえば、「本人が持つ因に対する果としての被虐待死」ということが「暗黙の前提」とされているようです。いくらなんでも、今生において子供が悪因を作るとは考えられないので、行為としての因ではなく「業」というものを設定したり、その業の発生した場所としての「前世」や業が清算されるべき「来世」を考える必要性がでてきてしまいます。
ですが、世間は単純な因果関係だけで成り立っているわけではありません。本人に悪因がなくとも悪縁によって不都合な出来事に遭ってしまう可能性を考慮すべきは当然でしょう。
児童虐待が事件化した時、多くの人々が介入のタイミングを逸したことを悔やみます。つまり、事件のレベルや様態を決める要素として、虐待した側された側の因果関係だけでなく、事件のレベルが決まってくることは明らかです。

もう少し、縁(具体的には人間関係)についての考察が為されて然るべきではありませんか?


Name: 雷神
Date: 2010/12/24(金) 13:11   No:4057
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Title: Re:因果応報    
職場などでいじめられてるという事はありません。
自分の身の周りにいじめはありません。
ハンネに恨みもこもっていません。
ただ人をいじめて自殺に追い込んだ人は自分もいじめられて自殺して欲しいです。
でもそんな事にはなりません。


Name: 一般人
Date: 2010/12/24(金) 15:41   No:4058
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Title: Re:因果応報    
いくつ前かはわかりませんが、過去生で

>人をいじめて自殺に追い込んだ人は自分もいじめられて自殺して欲しい

という風に、人に願われることをし、今生で現実になったのかもしれないですよね?こういう内容は仏陀しか正しく見れませんから、あくまで仮の話でしかありませんが。

人を怨んでしまっては、怨んだ人間の悪行為となり、自身に結果をもたらすといわれます。
雷神さんは、人の痛みが分かる方とお察しします。これ以上、他人の不幸を願うことなく、本来の雷神さんの優しさが発揮され、よい未来につながることを願わずにはいられません。

たびたび失礼しました。


Name: せんべい
Date: 2010/12/24(金) 22:25   No:4060
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Title: Re:因果応報    
こんばんは。

話がズレますが…

身近な人が、自殺に追い込まれたり犯罪に巻き込まれ亡くなってしまったら、加害者を怨む気持ちは誰でも持つと思います。

だけど、死んでしまった被害者を思い「許せないよね、憎いよね、怨みたいよね」って雷神さんの想いが死んでしまった被害者に聞こえたらどう思うんだろ…

極楽浄土へ行きたくても「やっぱり許せない、やっぱり憎い、やっぱり怨みたい」って思うかも知れないよ。

この世では、思いやりの気持ちで怨みますが、あの世では今の雷神さんの思いやりが逆に苦しみに縛り付ける事になるかも知れません。

どんな理不尽な事だったとしても、残された者達は極楽浄土まで押してあげる事が大切だと思います。

怨みを抱えてあの世へ行ってしまったと思うなら、雷神さんも怨みを無くす事が浄化へ、そして極楽浄土へのお手伝いになる気がします。


Name: 一九
Date: 2010/12/25(土) 05:44   No:4061
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Title: Re:因果応報    
運動会みたいなトピになりましたね。^^
みんな「俺が一番だ!」と思っているから、どれが本当だかわからないでしょう。^^
あとは自分で勉強したらよいですよ。

> 人をいじめて自殺に追い込んだ人は自分もいじめられて自殺して欲しいです。
そのように人を呪う心は、とても不幸な自分自身のカルマになりますよ。
因果応報は人に問うものではなくて、自分に問うものだと何度も言ったでしょう。

これは私が体験したことですが、近所の人を何人も呪詛(じゅそ)した人がいました。
実は昔ここの相談室であったことで、その人は間もなく交通事故で急死しました。
唯物論的には偶然で片づけられますが、真理に偶然はありませんのでね。
他の原因である可能性も、なくはないですが。・・・

「人を呪わば穴二つ(人を呪うときは墓穴を二つ準備しなさい)」ということわざがあって、呪いの結果はかなり早く現実化するようです。
せっかくここへ来たのだから、それくらい心に留めておいた方よいと思います。
私はそろそろ運動会から引き上げますので。


Name: 太陽
Date: 2010/12/25(土) 22:29   No:4062
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Title: Re:因果応報    
因果応報というのは、例えばAがBを虐めたから、いつかBからAが虐められるという単純なものではありません。仏教にはさまざまな階層があり、魂のレベルにより、そのレベルに同じレベルの魂が集合します。つまり、虐めることが平気な奴等は、虐めることを何とも思わない奴等が集合する階層に逗留することになり、結果、虐められやすくなります。要は、因果応報とは自分の魂のレベルに応じた報いとして、同類階層に投げ込まれることであり、自然、自分が平気でしたことを他人から平気でされる事を招くということだと私は解釈してます。



Name: 雷神
Date: 2011/02/28(月) 08:53   No:4168
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Title: Re:因果応報    
さっと読み返して分からない所があります。
あくまでもサッとです。
別に返信が無くても構いませんがレスします。


>身の回りに起こることはすべて自分の心の結果です。

人を殴ろうと思って殴る、人をレイプしようと思ってレイプする
その心の結果には何が返って来て
被害者はどんな心の結果こういう目にあったのですか?


>因果応報の原因は過去の行為にあるのではなくて現在の心にあります。
行為が行為を生むのではありません。

殴られた被害者はどんな心の結果こういう目にあったのですか?
レイプされた被害者はどんな心の結果こういう目にあったのですか?
殺された被害者はどんな心の結果こういう目にあったのですか?
加害者のその心の結果には何が返って来るのですか?

>行為は結果でその原因はすべて心にあります。

殴られた被害者はどんな心の結果こういう目にあったのですか?
レイプされた被害者はどんな心の結果こういう目にあったのですか?
殺された被害者はどんな心の結果こういう目にあったのですか?
人を殴ろうと思ってなぐる、人をレイプしようと思ってレイプする
その心の結果には何が返って来るのですか?


>親は泣きですね。

虐待をして子供を殺した親には何が返ってくるのですか?


>自分の心が発したものは宇宙にこだまして、ありとあらゆる方向から自分に還ってきます。
よいもを発すればよいものが、悪いものを発すれば悪いものが還る、ただそれだけのことです。

人を殴ろうと思って殴る、人をレイプしようと思ってレイプする
その心の結果には何が返って来て
被害者はどんな心の結果こういう目にあったのですか?


>人をいじめて自殺に追い込んだ人は自分もいじめられて自殺して欲しいです。
そのように人を呪う心は、とても不幸な自分自身のカルマになりますよ。

実際に人をいじめた人はどうなりますか?


>因果応報は人に問うものではなくて、自分に問うものだと何度も言ったでしょう。

なぜ人に問うものではなく自分に問うものなのですか?


>これは私が体験したことですが、近所の人を何人も呪詛(じゅそ)した人がいました。
実は昔ここの相談室であったことで、その人は間もなく交通事故で急死しました。
唯物論的には偶然で片づけられますが、真理に偶然はありませんのでね。
他の原因である可能性も、なくはないですが。・・・
実際に人を恨んで殺した人はどうなりますか?


>「人を呪わば穴二つ(人を呪うときは墓穴を二つ準備しなさい)」ということわざがあって、
呪いの結果はかなり早く現実化するようです。

実際に人を恨んで殺した人には何が返ってくるのですか?
結果はかなり早く現実化するのですか?
実際に人を恨んで殺した人も墓穴二つですか?


>どれが本当だかわからないでしょう。^^

どれが本当なのですか?


返信が無くても構いませんが分からない所をサッとレスしてみました。


Name: 一九
Date: 2011/03/01(火) 05:44   No:4170
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Title: Re:因果応報    
言葉尻を追うとますますわからなくなりますよ。
言葉は体験して感じるための道具です。
考えるのではなく、何度も読んで意味を感じてください。

因果応報というのは、「敵だ!」と思って鉄砲玉を打ち込めば自分に命中するということです。
それは即ち、人のために一生懸命尽くせば、自分が報われるということです。
それはなぜかというと、本当は人も自分も分離したものではないからです。

「自分」と思うのはエゴの錯覚で、自分も他人も地球も宇宙も同じ一つの心です。
他人と思っているのは全部自分なんですよ。
だから自分のした行為はすべて自分にかえる。

お釈迦様はそのことに気づいて「諸法無我」と言いました。
それに気づくことが「さとり」です。
これもいくら考えても理屈ではわかりませんのでね。^^


Name: 雷神
Date: 2011/03/01(火) 08:38   No:4171
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Title: Re:因果応報    
>それに気づくことが「さとり」です。

一九さんは気づいて「さとった」のですか?


>これもいくら考えても理屈ではわかりませんのでね。

一九さんもわからないのですか?

分かっているのですか?

自分は因果応報はあると「知っています」もちろん初めてスレを立てた時から、

ですが

因果応報があるとは「分かりません」。


一九さんは因果応報があると知ってるだけですか?

それとも分かっているのですか?


Name: 一九
Date: 2011/03/02(水) 05:41   No:4173
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Title: Re:因果応報    
人はどうでもいいんですよ。
因果応報もさとりも、自分に問うことであって、人に問うことではありません。
「ああ言ったこう言った」と言葉尻にもとらわれないほうがよいです。
横道ばかりですが、因果応報はわかりましたか?


Name: 雷神
Date: 2011/03/02(水) 10:10   No:4176
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Title: Re:因果応報    
横道ばかりなのは

あなたが質問を全てスルーするからですよ。

>人はどいでもいいんです。
>因果応報はわかりましたか?

分かりません。

あなたは因果応報は分かりましたか?
またスルーですか?


Name:
Date: 2011/03/02(水) 23:05   No:4180
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Title: Re:因果応報    
波紋のようなものですから、小さな行いには直ぐに、大きな行いには時間をかけて、結果が返ってくるといいます。
波動が地球の裏側までいって、返ってくる頃には本人はいない、なんてこともあるでしょうけれど、仏陀が生きていた頃の光は、今も夜空にあるようです。

それと同じで分かりにくかったり、答えがなかなか見出せない、時間がかかる問題ほど、広く深く大きくて皆にとって重要な事なのかもしれません。

私は雷神さんの書き込みを見て、親鸞聖人の
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉が何故か浮かびました。何かのきっかけになれば幸いです。





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