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  顕在意識と潜在意識

[4135] タイム
[4149] 一九
[4150] 天台沙門

Name: タイム
Date: 2011/02/08(火) 12:20   No:4135
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Title: 顕在意識と潜在意識    
仏教の言葉には、アラヤシキ等の潜在意識の分野が登場します。ここで今ひとつ理解できないのですが、一つの「識」に、認識可能な識である顕在意識と、表裏の形で認識できない潜在意識とのニ層が同時に含有されていることなど、実際あり得るのでしょうか?認識できる識の状態であれば「識」はすべてが顕在意識、認識していない状態での「識」であればすべてが潜在意識、と時系列的に「識」が顕在と潜在の相互の裏返しを繰り返すというなら理解できます。しかし一時点において、一つの「識」に認識できる部分と認識できない部分があるというのなら、「識」は部分を分かち二つある(含有する)ことになり、その時点で一元的な解釈が成立しないような気がします。



Name: 一九
Date: 2011/02/11(金) 04:57   No:4149
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Title: Re:顕在意識と潜在意識    
それは考えてわかることじゃなくて、感じてわかることですよ。
私は唯識学はよくわかりませんのでとりあえずのお返事ですが、阿頼耶識は蓄積された感情のことだと思います。
怒ったり悲しんだりする気持ち(感情)ですね。
それはカルマの媒体、自分という個を生ずる源泉です。

言葉は地上の現象を表現することはできますが、阿頼耶識はそれを超えたものですから、言葉の理屈で云々できることではありません。


Name: 天台沙門
Date: 2011/02/12(土) 10:42   No:4150
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Title: Re:顕在意識と潜在意識    
ご質問における

>一つの「識」に、認識可能な識である顕在意識と、表裏の形で認識できない潜在意識とのニ層が同時に含有されていることなど、実際あり得るのでしょうか?

については、

認識行為には、「認識すること」という随意的な「表」のありかたと「そう認識してしまうこと」および「そう認識したくないこと」という不随意的な「裏」のありかたが、相互補完的に機能していると解釈しておいたほうが現実的です。

とお答えできます。また

>一時点において、一つの「識」に認識できる部分と認識できない部分があるというのなら、「識」は部分を分かち二つある(含有する)ことになり、その時点で一元的な解釈が成立しないような気がします。

については、

単に認識能力または認識機能が認識対象とミスマッチをおこしているならば、認識対象たる「識」に認識可能部と不可能部が発生することは自然にありえます。実例として、外国語の歌劇を聴取した場合に旋律やハーモニーは認識できても歌詞内容は認識できないわけですが、しかし劇全体は当方が外国語歌詞を解釈できなくても一体のものとして存在しますし、歌詞を理解せずとも当方が劇全体に感動することも可能でしょう。

とお答えしておきます。



そもそも「潜在意識(または無意識)」という術語は、西洋の精神医学や心理学において「自覚されていること/もの」を「意識(すなわち顕在意識)」と定義し、これに含まれない部分を「潜在意識(または無意識)」として再定義したものと考えられます。フロイトやユングの解説書には、海に浮かぶ氷山の絵を用いて、海面の上にある部分を「意識(イドまたはエゴ)」・海面の下にある部分を「無意識(エスまたはセルフ)」などと説明しています。ですから、「潜在意識」という術語そのものが「顕在意識」との同時性を前提にしているのです。

仏教の教理的をみると「識」という言葉が二義性をもちます。
第一義は「認識機能」です。
『般若心経』を引用しましょう。
「照見五薀皆空、度一切苦厄。舎利子。色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是。」
ここに記された「色受想行識」が「五薀」です。五薀とは認識行動における情報処理の過程と考えてよいでしょう。「色」は外的環境です。「受」は情報の入力です。「想」は入力と記憶との突き合わせです。「行」は突き合わせの結果の判断です。そして「識」が認識機能です。
第二義は「認識されたもの/こと」です。
『般若心経』の引用を続けます。
「是故空中、無色無受想行識(五薀)、無眼耳鼻舌身意(六根)、無色声香味触法(六境)、無眼界乃至無意識界(六識)」
この引用文末尾の六識が「認識された認識対象」としての「識」です。
このあたり、きちんと用語と用法の対応を明確にすることが必要です。

ところで、ご質問の冒頭にあるアラヤシキ(阿頼耶識)についてです。
唯識学では「認識」の実際は「アーラヤ識に映っている、いわば虚像の認識」にすぎず、我々はその虚像を実存と誤解しているだけで、外界の「色」は存在しないという理解に立ちます。
このアーラヤ識は、「認識されたもの/こと」の集合体でありつつ、かつ認識機能の本体でもありますが、しかし人が自覚的に働かせることはできない潜在的機能です。このアーラヤ識の上位(下位?)に、認識主体の意志とは関わらず自我の実在を認識し続ける認識機能としてのマナ識(未那識)が存在します。
第6識までの識は自覚的に働く認識機能なので「顕在意識」に属します。第7識であるマナ識と第8識であるアーラヤ識は自覚的には働かないとされていますから「潜在意識」に属します。冒頭で「認識してしまう」・「不随意的」という表現を用いたのは、自律的な認識機能を発揮してしまっているという、この理解に基づきます。
やはり、仏教思想においても意識と無意識は並列的または重層的に機能していると考えられているわけです。





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