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  水子について

[4257] やぁ
[4258] 天台沙門

Name: やぁ
Date: 2011/04/22(金) 06:04   No:4257
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Title: 水子について    
はじめまして。
先月小さな命を諦めてしまいました。
ギリギリまで考えて、自分にもっと経済的に余裕があったら良かったのにと、こんな風に諦めたなくて済んだかもしれないと。
産みたい気や持ちもあった。
けど諦めてしまって何処かで安心してる自分がいる。
守りたい物は結局自分だったのかも知れません。
産む事も怖くて、諦めてしまうのも怖くて、こんな無責任な自分凄く嫌で苦しくて。
自分を傷つけても何もかわらない。
一番傷つけてしまったのは日の目が見れなかった我が子で。
一緒にいるパートナーは今までに三人の子を水子にいます。
パートナーは『俺はもぉ呪われてる。から今更供養に行っても意味か無い』と言うのです。
私的にそれは違うと思いのですが!?
なんだか分かりません。



Name: 天台沙門
Date: 2011/04/23(土) 17:06   No:4258
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Title: Re:水子について    
残念なことでした。お悔やみ申し上げます。

さて、私は死者というものは、死因や年齢の如何を問わず、無条件で敬意をもって弔われるべき存在であると考えています。この「弔い」の具体的な内容は、生者が死者の存在を忘れない、という一点につきます。

この震災においても、報道で「サバイバー・ギルト(生存者の罪)症候群」という言葉がちらちらと聞かれますが、生者は死者に対して色々と「申し訳なさ」を感じるものです。なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろうとか、自分が代わりに死ねばよかったとか、もっと何かをしてあげられたに違いないとか、きちんと産んで育ててあげられたに違いないとか。

いわゆる「祟り」というものは、そういった申し訳なさが背景にあります。死者とは無関係だけれども生者にとって都合の悪いことがあると、生者は申し訳なさから逃れようと死者に責任をおしつけてしまいます。この場合の「都合の悪いこと」が「祟り」と表現されるのです。


世間で「供養」と呼ばれる宗教的儀式を行うことは、死者に対する気持ちを儀式というカタチで表現することにほかなりません。「気持ち」という目に見えない物/事を、「儀式」という目に見える物/事にすることで、人は救われる(囚われた気分が解放される)ものなのです。
ですから、貴方ご自身が「一番傷ついているのは我が子である」という自覚をお持ちなら、形式の如何を問わず、そのお気持ちを大切になさることで、貴方ご自身はいわゆる「水子の祟り」というものからは自由になることができるでしょう。

おわかりですね。
パートナーさんの「呪われて」という表現は、パートナーさんがご自身の「申し訳なさ」を自覚したくないが故の表現なのです。





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