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  般若心経

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Name:
Date: 2011/06/17(金) 22:41   No:4338
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Title: 般若心経    
このお経に、十年来強迫神経症を患い、自殺サイトの常連だった私は救われました。私は自分が、いつか悪い奴に襲われるのではないかという強迫観念から、血の恐怖と苦しみを味わいました。しかし「私」も「悪い奴」も突き詰めれば空である、そして私の中で起こっている対立する上記の二者は、実は総体の一の空であり、その総体の空こそが真の『私』であることに気づかされました。『私』に立ち戻るとき、『私』の中に「私」も「悪い奴」の区別もなくなり、悪い奴に襲われるのではないかという強迫観念=葛藤が消えました。般若心経の解釈において、私が合点したような解釈は正しいのでしょうか?


Name: 一九
Date: 2011/06/18(土) 06:30   No:4340
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Title: Re:般若心経    
言葉がまとまり過ぎているのが気になりますが、もし般若心経の解釈に先入観がなければ、それは真理の啓示だと思います。
おそらく救いの力(神仏)が降りているんでしょうね。
正しいかどうかは悪い奴と同じ理由で、正しいとは言いませんが。^^

自殺サイトでどのような経緯でそこへ導かれたのですか?
普通は逆効果になるような気がしますが。
般若心経や仏教に興味を持った経緯も教えていただけると手がかりになります。


Name:
Date: 2011/06/18(土) 10:19   No:4342
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Title: Re:般若心経    
一九さんありがとうございます。般若心経との出会いは、たまたま救いを求めたお寺が縁でした。写経に興味がわき、意味よりも写経をすることで快癒の利益を得られるのではないかと考えたのです。来る日も来る日も、般若心経の意味や読み方など解さないまま写経をつづけたのですが、次第に、言葉が頭の中に入ってきました。そして、スレの気づきは、その繰り返しの中で得ました。目も耳も鼻も意識も、あらゆるものが空である、というわけです。初めは意味が不明で、般若心経に対して疑問さえ湧いたのですが、写経をつづけるうち、言わんとしていることが入ってくるようになりました。。日常に生きている私は、それまで、目・耳・鼻・意識と、あらゆるものが別個だと思い込んでいました。しかし、般若心経の言う空とは、物の下地という意味だと感じたのです。下地の存在に気づかされたことで、色々なものが合点がいくようになりました。私が目で見、耳で聞き、意識で意識を同時にできるのは、個別だと思い込んでいたものが個別でないからである、下地があり、連鎖性があるからである、そして、空という下地の総体こそが『私』ではないか、だからこそ『私』は目で見、耳で聞き、意識で意識を同時に可能なのだと気づかされたのです。「私」が「悪い奴」に襲われるという意識も、私の中に起こる以上は、実は総体の空である真の『私』の一部であり、両者は、『私』の構成体=下地だったのだと気づかされたのです。「私」の外側に「悪い奴」がいるのではなく、両者が包摂したところの総体が『私』なのだと気づいたことで、「悪い奴」は消えました。

Name: 天台沙門
Date: 2011/06/18(土) 14:59   No:4343
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Title: Re:般若心経    
帰納的に(つまり結果から)考えれば、強迫観念=葛藤すなわち「苦」からの解放に際し、『般若心経』に対する関心と理解が役に立ったというのですから、その関心と理解は「正しい」ものであったと結論できます。



>「私」も「悪い奴」も突き詰めれば空である、そして私の中で起こっている対立する上記の二者は、実は総体の一の空であり、その総体の空こそが真の『私』であること

この認識は、仏教の基本教理である「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の「諸法無我」を具体的な形式で理解した一例といってよいでしょう。

「無我」ということを個別具体的な人格に即していえば、「われ」すなわち自分自身の自我は独立して存在しているわけではない、という主張です。いま現在の人間関係やら自分自身の成育歴やら生まれ育った時代や社会やら、そういった因縁によってのみ「われ」は存在しています。もしかしたら、「悪い奴」の存在を前提として「私」が存在するのかもしれないわけですし。
『般若心経』においては、「照見五薀皆空」から導かれる「是諸法空相」との認識のうち、「諸法=もろもろのありかた」を「自分自身の人格」にあてはめれば「自分自身の人格は固定した実体をもたない」となるというわけです。
つまり演繹的に(今度は理論先行的に)考えても貴殿の解釈は正しいものと理解できます。

ただし、厳密にいえば「空」という言葉は「固定した実体をもたない」という事物のありかたを示す認識論的言葉であって、一切の諸物を包括する超越的な存在に対して用いる存在論的呼称ではありませんので、「貴方の解釈は違う」と主張する人もいるはずです。しかし、空観という修行法に則ってのものと考えれば多少の違いは問題になりません。
大切なことは、そう理解したことによって貴方が苦から解放されたという事実です。



ユング心理学では、誰の人格においても「影」という「悪い奴」が不離の存在であることを認め、「影」を人格全体(セルフ)の一部として統合することを「自己実現」と称しています。ご関心をもたれたなら、河合隼雄『明恵・夢を生きる』ですとか、アーシュラ=ル=グゥイン『影との闘い〜ゲド戦記⑴』のご一読をお勧めします。


Name: 一九
Date: 2011/06/18(土) 20:59   No:4344
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Title: Re:般若心経    
素晴らしいですね。
般若心経が言わんとしていることは、その表現で合っていると思います。
やはり神仏の救いが降りていると思いますよ。
透知能力(直感)は誰でも持っていて、それを通して神仏が働きます。

おそらく自分ではお手上げになって、般若心経(写経)や神仏に救いをゆだねた(任せた)のではないかと思います。
神仏は全面的にゆだねられたとき初めて助けてくれます。
自分でもがいている間、神仏は手出ししないんですよ。

善悪は相対的なもので、それは私たちのエゴが作っています。
強迫観念の恐怖(不安)もエゴの作用です。
私たちの本質(下地^^)は1つのもの(絶対性)で、エゴが自分なのではないことに気づけば善悪も恐怖もなくなります。
それを理解するのではなく体験するのですから、いっぺんに治るのでしょうね。

般若心経の解釈は、これがぴったりとしませんか?
http://www.pure.cc/~zero/hannya.htm
この方は「宇宙根源の魂」という言葉を使っていますが、自分なりの言葉に置き換えればよいと思います。


Name: 一九
Date: 2011/06/20(月) 05:26   No:4346
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Title: Re:般若心経    
一時的ですがそれはさとりの体験だと思いますので、感謝して体験をよく覚えておかれたらよいと思います。


Name:
Date: 2011/06/21(火) 12:10   No:4349
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Title: Re:般若心経    
天台沙門さん、一九さん回答ありがとうございます。コメント、大変参考になりました。今にして思えば、般若心経は心をほぐすヒントを与えてくれたように思います。自我(執着)を捨てる、という発想を得られたことが大きかったです。写経と同時に、お寺の内観堂に通ったのも良かったのかもしれません。




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