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Name: マルモ
Date: 2011/07/05(火) 22:35
No:4389
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Title: 信仰?宗教観?なんと説明したらいいのか…
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私の家のお寺は、日蓮宗のお寺になります。 総本山は身延山久遠寺の流れの日蓮宗のお寺です。
お墓には、祖父母が眠っています。 どうしてこのお寺にしたのか?というと、祖母が仲の良い友達と一緒のお寺さんにしよう…というようなことで、このお寺で墓地を購入し壇家となったようだと、親から聞きかされました。 明治生まれの人ですし、生きてきた時代背景もあったかと思いますが。
人それぞれ、宗教観や信仰、ひいては宗旨のイメージなどさまざまあるかと思います。 また、我が国では、信仰の自由が憲法で認められています。 日蓮宗(いわゆる法華経)というと、ある種の色眼鏡みたいな見方で受け止められることが、何度かありました。
どの宗派や宗旨がいいとかわるいとかいうつもりはありません。
私自身、家の菩提寺が日蓮宗のお寺である以上、それを信仰とするのが自然なことだとも思います。
しかし、仏教の教えに触れていく中で、菩提寺を下にする信仰とは別に、自身の宗教観というか、教えというか、いわゆる導きといったものは、さまざまな宗派の垣根を越えたような触れ方でもいいのだろうかと思うことがあるのです。
言葉は適切かどうかわかりませんが、良いとこ取りみたいな…。
でも、それをつきつめれば、行きつく先はどの宗派も同じところのようにも思います。
だから、いろいろな宗派の教えに触れること、またできることを実践することはしてもいいのではないかと…。
菩提寺はしっかりありながら、こういう八方美人的なものの見方、教えに触れるというのは好ましくないものなのでしょうか?
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Name: 水波坊 [URL]
Date: 2011/07/06(水) 10:08
No:4393
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Title: Re:信仰?宗教観?なんと説明したらいいのか…
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本来、宗教あるいは仏教というのは、個人個人が「どう生きるべきか」を考えて、それを歩むものです。家の宗教、というのは、まぁ確かにどこにでもあります(欧米にもあります)。 が、自覚的に学び実践し、「これだ」と思えるものが見付かれば、人はそれに従って信仰をしていくのは自然な事で、「でも家の宗教は…」というのは、ナンセンスでしょう。生きているのは家ではなくて、あなたですから。
あと、日蓮宗が色眼鏡で…ということを気にされているようですが、それは主に富士山方面から出た某団体関係が原因だと思います。それ自体はあまり気にしなくていいと思いますよ。大切なのは、あなたがどう、それを受容できるのか、それを信じて歩めるのか、ということですから。
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Name: 天台沙門
Date: 2011/07/06(水) 10:10
No:4394
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Title: Re:信仰?宗教観?なんと説明したらいいのか…
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私見ながら、純粋な信仰のほうが「正しい」とする意識は一神教に基づく西欧の宗教学の影響下で生じたものであり、これは日本の伝統的な信仰感覚(神仏習合)とは異なっていると考えます。
純粋(単純)であるほうが正しいという宗教観は、「お念仏」や「お題目」という易行(これだけやっておけば間違いない)を旨とする法然さんや日蓮さんの思想と類似しているので、日本の近代化の途上で「正しい仏教」というイメージが定着します。面白いのは、けして易行とはいえない禅宗も座禅一筋という点から「正しい仏教」というイメージをもたれているところでしょう。
私が宗とする天台は、顕・密・禅・戒の四宗を兼学することを旨としております。つまり、純粋ではないうえに「鎌倉仏教」に対する「平安仏教」のイメージもあり、同じ平安仏教の真言宗さんが密教専行であることと比較して、「夾雑物の多いまがいもの」というイメージをもたれた時期があります。しかし、天台の顕教から法然さんと日蓮さんが出たことも、禅行から栄西さんと道元さんが出たことも周知の事実です。いわば「比叡山」という総合大学から「浄土宗」・「日蓮宗」・「臨済禅」・「曹洞禅」という単科大学院が成立したといってよいでしょう。いずれの御祖師も四宗を兼学なさったからこそひとつの修行法を極めることを選択なさったのであり、それぞれの御宗旨も天台式の仏教を基礎になさっているということは間違いないと判断できます。 違うというだけで、そこに善悪や優劣はありません。
ところで、法然さんや日蓮さんの同時代人として、栂尾の明恵上人がいらっしゃいます。明恵上人は宗旨的には華厳宗(奈良仏教である南都六宗の一)に属した方ですが、仏教を学ぶために異なる宗旨の僧侶の教えを請うことは恥ずべきではなく進んで行うべきだ、との発言をなさっています。
ですから「いろいろな宗派の教えに触れること、またできることを実践することはしてもいい」のですし、そうすべきでしょう。 各宗教の修行の本質は「祖師の経験を追体験すること」にあります。つまり、仏教徒であろうとするならば釈尊の修行(瞑想)を追体験すべきですし、御祖師さんの修行を追体験する中で他宗旨の教えに触れることは必要なことと考えられます。
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Name: 水波坊 [URL]
Date: 2011/07/06(水) 10:18
No:4395
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Title: 追伸
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因みに、「「これだ」と思えるものが見付かれば」というのは、何も「何かの宗派」というわけではありません。そうではなくて、もっと広い意味です。 私の場合は『大乗起信論』『金剛般若経』のふたつを核にして実践し、様々な思想の相互関係を考えています。これはどこの宗派、ということは関係なく、まったく私の世界です。 色々なものを学び、触れていく中で、それぞれに色々な道を発見することと思います。それが自然な事です。 別に菩提寺を捨てろと言う事ではなくて、色々な道があるということですから、菩提寺の宗旨も認めて良いし、ご自身の考えを推し進めても良いでしょう。 私は真言宗ですが、他宗派のやり方もアリだと思っていますよ。
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Name: マルモ
Date: 2011/07/07(木) 09:46
No:4398
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Title: Re:信仰?宗教観?なんと説明したらいいのか…
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水波坊さま・天台沙門さま
早速の返信ありがとうございます。 お礼が遅くなりすみません。
はた目には、なんてくだらないと思われる人がいるかもしれませんね。 でも、愚問だったかもしれませんが、私にとっては、これから仏教の教えを学び実践していく中で疑問だったのです。 スッキリしました。
いずれは菩提寺の墓に入るわけですが、そこまでの道程(人生)においては、菩提寺の宗旨にとらわれることなく、広く仏教の教えに触れ、学ぶということは差し支えがない。 たしかにもっとも言えば、もっともですね。 ましてや、得度をしておらず、僧籍ももたないありふれた一般人においては、宗派・宗旨の教えを究めることは難しい。 そのかわり、広く浅くというのは一般人向けなのかもしれませんね。 私は、人間ができていないので、仏教の教えを通して、功徳を積み成長させたいのです。
ちなみに、京都や奈良のみならず、各地のお寺に参詣する際に、そのお寺の宗派を気にして行かれる人はどれほどいるでしょうか? 観光地であれば、特に御利益や厄除けなどで手を合わせる人が多いかと思います。 私なぞは、ただただ現世利益だけを祈念し、手をあわせていました。 それはそれで構わないことなのかもしれませんが、そうした場において、それぞれの宗派の勤行というか、易行といったものの一説を唱えて、祈念するという行為はしてよいものですか?
もしかして、勤行や易行を唱えることは当たり前なのでしょうか?
「お念仏」や「お題目」はわかりますが、「ご真言」はどう唱えたらよいのでしょうか?
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Name: 水波坊 [URL]
Date: 2011/07/07(木) 15:11
No:4399
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Title: Re:信仰?宗教観?なんと説明したらいいのか…
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勤行式などは、市販の経本で適当な物を使用してください。もちろん日蓮宗のものでも結構ですよ。 一々うるさいことをいう寺もありますが、個人的に参拝するのであれば、参拝の形式についてはそれほど気にしなくても大丈夫です。普通にお参りしてください。
仏に宗派はありません。宗派は人間が色々な経緯や思惑で形成したもので、仏の世界にそんな区分けはないです。
真言についてですが、基本的に私は般若仏母大身真言だけです。本尊が何であっても。 もちろん他の尊格の真言を使う事もありますが、それにしても、あらゆる尊格の真言をすべて憶えて、参拝の時に使う…というのも、なかなかきついと思います。 ですから特に信心している尊格があればその真言を、そうでもないなら光明真言をいつも唱えるようにすればいいと思いますよ。それで問題ないです。
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Name: マルモ
Date: 2011/07/08(金) 00:00
No:4401
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Title: 水波坊さま
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水波坊さま
いろいろとお教えいただきありがとうございます。 今まで、お寺に参詣する際に、ここは○○宗のお寺だから、という意識をもって参詣したことはほとんどありませんでした。
でも、そうした思いを多少なりともいだいて参詣できたら、単なる自己満足かもしれませんが、そのお寺への礼儀にでもなるのかと思ったりもします。
> あらゆる尊格の真言をすべて憶えて、参拝の時に使う…というのも、なかなかきついと思います。
たしかにおっしゃるとおりです。 また、私になぞ、そのようなことは難しすぎます。
私の漠然としたイメージですと、「お念仏」や「お題目」で許していただけることろは、それを唱えさせていただいて、わずかでも敬う気持ちというか、学ばせていただく気持ちを表わせられたと、思ったのです。 私には、特別信心している尊格はありませんので、真言宗のお寺に参詣する際は、光明真言を唱えさせていだきたいと思います。
私が、どうしていろいろなお寺に参詣する際に、そのお寺の宗派というか、宗旨というか、○○宗ということに合わせて、「お念仏」や「お題目」、「勤行」などを唱えた方がいいのでは?と思ったのには理由があります。
私は、普段通勤で自転車を利用しているのですが、その際に菩提寺の近くを通るのです。 行き帰りの際には、菩提寺の近くを通る時にいつも「法華経」を心の中で唱えながら、祖父母にあいさつをして、心の中で対話をしています。 その時、「他のお寺に参詣する時などは、何かを唱えるようなことはした方がいいのかな?(日蓮宗でいうところの法華経みたいなもののこと)」 「それには、どういうものがふさわしいのか?」と思ったのです。
「南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀仏」といったものぐらいは、頭には浮かぶのですが、「勤行」となるとそれはまた難しいですし…。 でも、もし、できることならこれからはお寺に参詣する際は、ただただ現世利益を祈念して手を合わせるのではなく、易行や勤行を唱えさせていただければ、心もまた少しの汚れを綺麗にしていただけるのでは?と思ったのです。
そうしなければならないとか、する必要はないといか、いわゆる義務や強制などではなく、自分がそうしたいからする。 その発想で、参詣と自分の仏心とを結び付けてもいいのですよね?
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Name: マルモ
Date: 2011/07/08(金) 01:06
No:4402
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Title: Re:信仰?宗教観?なんと説明したらいいのか…
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天台沙門さま
日蓮聖人が、天台顕教で学ばれたことは知っておりました。 その過程において、数ある経典の中から「法華経」を選ばれたのですよね。
また、明恵上人のお話をうけて、私がこれから実践しようとしていることに背中を押されたように受け止めています。
本当にありがとうございます。
ちなみに、天台宗のお寺に参詣する際にふさわしい易行や勤行はあるのでしょうか?
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Name: 天台沙門
Date: 2011/07/08(金) 09:23
No:4403
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Title: Re:信仰?宗教観?なんと説明したらいいのか…
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>お寺の宗派を気にして
予備知識として、その寺の本尊さんを調べたり宗旨がどうであるかを調べたりする人はいても、基本的に宗旨を気にして参詣の是非を決める人はいないと想像できます。天台宗で東北地方に団体参拝する時、天台宗の中尊寺(平泉)と立石寺(山寺)は当然として、臨済宗の瑞巌寺(松島)も定番の参拝所です。
※
>それぞれの宗派の勤行というか、易行といったものの一説を唱えて、祈念するという行為はしてよいものですか? もしかして、勤行や易行を唱えることは当たり前なのでしょうか?
寺院を参拝した時の最大公約数的な作法として、『般若心経』と本尊宝号(南無○○仏)を3回唱える、というものがあります。 基本は、本尊さんにご挨拶をする、という感覚でしょう。ですから、最低限の礼儀として、本尊さんに手を合わせて頭を下げることは当たり前のことでしょう。ですが、その際に何をするかについてはご自身で判断なさるべきことと考えます。 私は、自分の宗旨と参拝先の宗旨が異なる場合は、参拝先の方法を優先させるべきと考えます。自分は「人」で本尊は「仏」ですから、人が仏にあわせるべきです。
※
>「お念仏」や「お題目」はわかりますが、「ご真言」はどう唱えたらよいのでしょうか?
上記の「本尊宝号」の代わりに「本尊真言」をお唱えする、という感じでよろしいと考えます。お札所に行くと、本尊の名前と本尊真言と「三返お唱えください」と書いた札があったりします。
※ >天台宗のお寺に参詣する際
『般若心経』に本尊宝号をお唱えいただければ結構です。
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Name: マルモ
Date: 2011/07/08(金) 11:32
No:4404
| 解決
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Title: Re:信仰?宗教観?なんと説明したらいいのか…
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天台沙門さま
詳細なご説明ありがとうございます。 文才がないので、なかなかうまいこと思っていることが伝えられなかったのですが…。
天台沙門さまが言われるように、お寺に参詣する際に宗旨を気にして参詣の是非を決めることはありませんでした。
私自身、宗旨を気にして参詣の是非ということは全く考えておらず、これからも何気にお寺に参詣することは多々あるかと思います。 その際の礼儀をどうしたらよいのかを考えていたのです。
天台沙門さまの書かれた
> 私は、自分の宗旨と参拝先の宗旨が異なる場合は、参拝先の方法を優先させるべきと考えます。自分は「人」で本尊は「仏」ですから、人が仏にあわせるべきです。
これで納得できました。
お寺はいつも身近なところにあって、そこは私にさまざまなことを教えてくださり、導いてくれるところであると思っています。 参詣先のお寺に敬意を払い、そちらの方法で参詣させていただくようにします。
ありがとうございます。
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