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Name: 23歳男性
Date: 2011/09/13(火) 17:00
No:4462
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Title: 日蓮聖人の教え
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はじめまして。 私は18歳の時に専門学校のクラスメイトである創価学会に折伏されました。 その後も「身延山の日蓮宗の教えは間違っている。池田先生の教えが絶対に正しいんだ」としつこいのです。
私も実は仏教に造詣が深く、実家の菩提寺は天台宗です。 法華経を中心に据えていることは共通点なのですが、「南無妙法蓮華経」を唱えることにより、大宇宙と同化し、己の仏性が引き起こされる日蓮聖人の教えには惹かれました。 私も南無妙法蓮華経を唱え、自分の仏性を引き起こし、大宇宙と一体化して、不幸ばかりが続く今の境遇を変えたいのです。 しかしその功徳のためには、他の宗教の教え、それにまつわる祭りも邪教、間違った教えだと思わなくてはなりません。 私も功徳は得たいし、仏の教えは素晴らしいですし、研究したいです。 しかし他の宗教を罵ってまで、否定してまで功徳をえたくありません。
私は趣味は寺社仏閣・パワースポットめぐりで、先々の聖地や寺社仏閣に赴くたびにそこの神仏に敬意を払い、心から敬い、拝むのを礼儀としています。 旅先・故郷・居住地の土着の神を敬い、拝むことでパワーを分けてもらっていると信じています。 加えて私の親戚にキリスト教徒がおり、無毛な宗教争いで親族の和を乱したくありません。
しかし創価学会では幸せになる条件として日蓮聖人以外の教えを謗法と考えねばなりません。 これまでの信仰は幸せの代価にすぎないのでしょうか? 幸せとは他宗や他教を排斥しなければえれないものなのでしょうか? また、創価学会についてもあまりいい噂を聞きはしません。 「創価学会の信心を始めて、残業もなくなり給与も増えた」 と信心の体験談を耳にしますが、どうも生理的に胡散臭いと感じせざるを得ません。 財務の件にしても公明党の選挙にしても到底自分の支持できるものではありません。 日蓮聖人の教えは素晴らしいのですが折伏など他の宗教を否定、批判し無理にほかの人を無理やり引き込んでまではしたくありません。
日本の神やキリスト教の神にも敬意を払い、諸仏を信仰して法華経を学び、その功徳にあやかるのは仏陀の説く「極端に走る」「人の存在を否定するような行動をしてはならない」「人は互いに敬愛し、施しあわねばならない」(いずれも無量寿経からの引用です)にかなっているのでしょうか? それとも単に虫が良すぎる話でしょうか? 幸せになるためには他の教えをバカにしたり、敬意を払うななど私にはできません。 そのような人間は幸せに離れないし、功徳も仏性もあったものではないのでしょうか? 南無妙法蓮華経を唱え、信仰したら最後、ほかの宗教に対して批判的にならなくてはならないのでしょうか? 私は他の教えを尊重しつつ、法華経を学び自分の仏性を引き起こしたいのです。 それにはどうしたらいかがでしょう?
よろしくお願いします。
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Name: 早紀
Date: 2011/09/14(水) 01:50
No:4463
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Title: Re:日蓮聖人の教え
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はじめまして。私はお坊さんではありませんが、少し体験をお話したくて口出しさせて頂きますね。私は曹洞宗の檀家から日蓮宗の檀家へ嫁いだ者です。 第一印象は、なんてお金のかかる宗派なんだろうでした。 次に、これは私の理解不足だと思うのですが、自分が苦行をしないと幸せになれないような印象をうけました。
学会については、信心している幼なじみが、熱心になる毎に、夫の不倫から離婚、親御さんの会社倒産、自身の難病等に悩まされています。本人いわく毒だしだそうですが、どれだけ溜めているのでしょう…(苦笑)
以上の点から一くくりにするのも微妙ですが日蓮宗、学会は信心する気になれません。
今、私は現世利益の仏様を信心しています。
が、一般人の考え方として、東京〜大阪に行く方法が沢山あるように、また、移動の度に手段を変えるように捉えるなら、目的地がはっきりしているならパワースポットも含め宗派はこだわらなくてもいいかと思います。 素人の長文失礼致します。
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Name: 宥心
Date: 2011/09/14(水) 17:19
No:4464
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Title: Re:日蓮聖人の教え
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貴方は貴方の信じるやり方で、神仏との御縁を大切になされたら宜しいかと思いますよ。 何をもって『幸せ』とするかは人それぞれですが、幸せは何かを信仰したから与えられるというものではなく、例えば毎日おいしいご飯を食べられる事、1日怪我もなく元気に過ごせた事、大好きな人の笑顔が見れた事…そういう何気ない事を有難いと感じる事が本当の幸せではないでしょうか。 人間は人間だけの都合で生きている訳ではありませんし、様々な生き物や自然の恩恵があってこそ命あるのです。
誰かが偉い、あちらは邪宗…などという狭い視野ではなく、大きな視野で自然や動物に感謝をする。有難いと手を合わせ、今を生かされている事に感謝をする…その感謝の心があってこその幸せなんだと思いますよ(^^)
創価学会の方々は確かに熱心ではあります。 良くも悪くもその姿は、ある意味凄く感心します。
私の周りにもおりますが、自分本人だけ熱心であり、他に強要しないなら、特に個人の自由ですし問題ないと思います。 ただそういう方は稀でしょうから、不快ならそう申されたら宜しいと思いますよ。 ハッキリ断ったからといって誰かが不幸になるなんて事はありませんから(笑)
世の中には様々な宗教があります。 その宗教どれかが悪いのではなく、それを悪いと言ってしまう人の心に問題があるのだと思いますよ。
それを見抜き自分が信じるやり方で神仏との御縁を持てば宜しいかと思います。
ご相談内容とは、少々離れた回答になってしまっているようでしたら、お詫び致しますねm(__)m
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Name: 天台沙門
Date: 2011/09/15(木) 08:54
No:4465
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Title: Re:日蓮聖人の教え(長文です)
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私は、現実社会では某政令指定都市の駅近隣にある檀家寺を預かっております天台を宗とする者です。
結論から先に申し上げますが、「他の教えを尊重しつつ、法華経を学び自分の仏性を引き起こしたい」ならば、創価学会の教義とは離れて一人の法華経信者として生きることを選ぶべきでしょう。そうしなければ、現在の貴方がそうであるように、創価学会の教義そのものが貴方の信仰心における矛盾の原因となり、信仰によって得られるはずの心の平安を失います。 創価学会の内側にあれば、折伏という行為によって世俗の不義理を生じます。創価学会を離れれば、そちらとの不義理を生じます。どちらにせよ、なんらかの不義理は生じるわけで、どちらを選ぶかは貴方ご自身の選択です。
法華経信仰のために家族との葛藤を経験し、最終的には汎宗教的信仰に至った(とおもわれる)宮沢賢治の思想と生涯についてお調べになることが一助になるかと考えます。
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親鸞さんは「念仏をすれば極楽に往けるのですか?」と問われたときに「私にはわからない。尊敬する法然さんがそうおっしゃったから念仏をしているだけで、もし念仏をして地獄に堕ちても法然さんを恨むこともない」とおっしゃいました。
ペトロさんはローマから逃げる際に、ローマに向かうイエスさんに出会い「どこへ行かれるのですか?」と問います。そして、お師匠が「もう一度、十字架に架けられるためにローマへ」と答えられたので、あえてローマで殉教する道を選ばれました。
お二人とも、尊敬する人の言葉(態度)に従って宗教的態度を選ばれました。その選択の結果が堕地獄であっても殉教であっても、選択は自分自身のものであるとして結果を受け容れているのです。
と、いうことは 尊敬する創価学会の教義が、「幸せになるには日蓮聖人以外の教えを謗法と考え」ねばならないから題目を唱え他宗を排撃するのであって、もしそれで世俗の不義理を生じても創価学会を恨むことこともない。 という気分になってもよいはずです。でも、なにか違和感がありますよね?
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さて。ご存知の通り『妙法蓮華経』をはじめとする大乗教典は、釈尊その人の教説ではありません。忘れがちなのですが、仏教とはあくまでも釈尊の教えなのです。 誰もが釈尊その人の教えに近づくために、自分ではない誰かの考えかたを手がかり足がかりにしているにすぎません。天台宗は天台智の経典理解に基づく修行の体系を表します。禅宗とは座禅止観に基づく修行の体系を表します。ですから日蓮宗とは日蓮の仏教理解に基づく修行の体系を表しているわけです。
逆説的にいえば、「日蓮宗」という名乗りは「釈尊その人がおっしゃったこと」よりも「日蓮聖人がおっしゃたからこと」を優先しかねない危うい性質を表しているといってよいでしょう、つまり「日蓮が理解した釈尊の言説」ではなく「私(例えば、池田先生)が理解した日蓮の言説」が信仰の関心となり、釈尊その人や日蓮その人から乖離する可能性があるのです。歴史的に日蓮宗の分派活動が盛んなのは偶然とは考えられません。
ですから、近現代に生きる仏教者は歴史上の釈尊の言説をふまえたうえで、伝統的仏教宗派の歴史的仏教理解を批判的に受容したり、近現代の方法論をもって祖師がたの思想・思考を再構築したりしながら、個別の信仰を確立していく必要があります。もちろん、信仰態度として経典一切が真の仏説という点には批判の余地はない、として近代文献学の成果を否定することもできますが、私はこの立場を執りませんし執るべきではないと考えます。
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貴方の文章から読み取れる(すなわち貴方が理解する)創価学会の教義は、 前提その1:「幸せになる条件」=「日蓮聖人以外の教えを謗法と考える」 前提その2:「日蓮聖人以外の教えを謗法と考える」=「他の宗教を否定・批判し他者を折伏する」 結論:「幸せになる条件」=「他の宗教を否定・批判し他者を折伏する」 という論理構造なのですが、「幸せ」の内容に関する議論が省かれている点から折伏にまつわる問題が発生していると考えてよいでしょう。
「幸せ」が内面的な価値だけを示すなら、それは「他者との関係性」から切り離されて考えてしかるべきです。自分が納得してのことだからそれに伴う不都合は甘んじて受けるというわけで、これは親鸞さんやペトロさんの意識と一致します。また仏教修行における出家や出世間という他者との関係を整理する(執着のもととなりかねない人間関係を必要最小限のものに減らす)行為とも一致します。これらは修行時には他者への働きかけを必要としていません。 しかし「折伏」という行為は、他者への働きかけそのものです。在家信者組織である創価学会が熱心である事実と一致する通り、出家・出世間とは正反対の志向性です。
人にものを勧める際には、その長所と短所をあわせて説明することが俗世の常識となっています。 ですから「信仰面において俗世間と積極的に関わることによって、もしかしたら信仰面での不義理や衝突が生じるが、にもかかわらず我々の信仰によって得られる個人的幸福のほうが豊かなものだから、この信仰を選びましょう」という問いかけが、布教・伝道の際には必要なはずです。 この必要性を創価学会員さんたちが自覚しているかどうかという点に注目すべきと考えます。
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