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  読経の意味

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Name: hotoke
Date: 2011/11/13(日) 20:02   No:4496
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Title: 読経の意味    
子供みたいな質問で申し訳ありません。
葬式や法事などで何故、お経を唱えるのでしょうか?

実は義父から「自分が死んだら仏壇の前で南無阿弥陀仏を十回唱えるだけでいいからな。それ以外の難しいお経は何を言っているのかさっぱりわからんから無駄だよ。」と言われました。

確かにお経には有難い言葉がたくさん書かれていますが、亡くなった人がお経の意味もわからないまま亡くなったのでは、義父の言うように無駄なのではと思ってしまいます。






Name: 天台沙門
Date: 2011/11/14(月) 12:15   No:4497
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Title: Re:読経の意味    
本質的には、人の死にあたり釈尊の教えを聴くことによって、理知的に「死」を受け容れたり乗り超えたりする一助にすることが読経の目的です。
ですが、アタマで「死」を受容しても、ココロが「死」を納得するかどうかは別の話です。ココロの納得のためには儀式というものが必要であり、読経を荘厳に行うことで儀式が成立しているといってよいでしょう。

ですから、「お経を唱えること」が「善い事」だから、ということになってしまいました。その「善い事」を故人のために行うことで、故人がしたくてもできなかったかもしれない「善い事」に替えて故人の来世がより安穏であることを願うためです。これを「回向=功徳を故人のためとして回し向けること」と呼んでいます。 (註:もちろん読経は善い事である。読経に限らず宗教的行為一般が実践されている空間では具体的な悪事の実行が抑制される。)


Name: hotoke
Date: 2011/11/14(月) 13:51   No:4499
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Title: Re:読経の意味    
ご回答ありがとうございます

お経は亡くなった人のためではなく、自分のために読むものなのでしょうか?

意味がよくわからず?です。


Name: 水波坊
Date: 2011/11/14(月) 14:50   No:4500
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Title: Re:読経の意味    
供養・回向の場において読経は亡者のためです。当たり前ですよ。
http://blog.goo.ne.jp/harch75/e/b57dda4b7b422ef8e1cb79f027baf1d7
少なくとも私は、遺族の癒しのため、などという気持ちで回向の読経をしたことはありません。癒しになるかならないかは、結果論ですし、もちろん色々な場面で寺がそういう役割を果たせれば…とは思いますが、しかし、読経に関しては、あくまでも亡くなった方のためです。
確かに人によっては「そうではない」という立場もありますが、その場合は親鸞聖人のように、葬儀そのものをしないのがその立場だと思います。

「意味もわからずに〜〜」ということに関してですが、色々な考え方が可能です。

そもそも読経について言うならば、インドであれ中国であれ、基本的には「読んでわかる」ものでした。しかし日本では漢文そのままを利用したため、一般には読経してもわからない、ということになってしまっています。
しかし少なくとも、読んでいる坊さんはその経典を理解して読んでいます。逐語的に読経と同時に…でなくとも、少なくとも内容は知った上で読んでいます。
もちろん一般の方も、「わかって読む」「わかって聴く」のがベストだというのも事実です。
それを前提に。

さてまず、仏教の究極・真如というものは本来、言語道断の世界ですから、言葉以前の世界の事です。それを敢えて言葉にしたものが経典であり真言ですので、そういう意味で「経典は言葉以前のところを示すものだ」と思い、意味がわからなくても「信仰で」捉える、という立場がひとつ、あると思います。
もうひとつは薫習といいますが、たとえば「線香の香」は、その成分や製造過程を知らずとも衣に移ります。読経も一緒だと考え、仏の音声を理性以前のところに薫じる気持ちで捉える。それもひとつの立場。
また、亡くなった方は現世的な分別理屈の世界(妄念の世界)を脱した仏の世界に結縁するのだから、経典の文句の一々がわかるわからないということではなく、その本質的意味・言説を超えた真如法身の説法そのものをダイレクトに聞くことができるから、生前に漢文がわかるわからないは関係ない…と信じる。そういう捉え方。
他にも色々な考え方があるかも知れません。
ただいずれにしても、私たちの分別・妄想心の判断とは別次元の考え方で、それらは行われているのだ…ということが前提です。それを無理に「合理化」したところで、それは世間妄念の枠内での事に過ぎません。

いずれにしても読経の声は「僧侶の声」ではなくて、仏界からの「仏の声」であり(坊さんはスピーカーとして仏に口をお貸ししているだけ)、それは意味分節を超えたところの本源的な「力」だと信じて手を合わせるのが、私はいいと思いますよ。

以下は一般論ですが…。
自分の経験範囲の狭い了見で四の五の言う前に、素直に感性で読経を「感じてみる」という姿勢も大切かなぁ、と。
同時にまた、「わからない」なら「学んでみる」という気持ちも大切なのではないかと思います。今の時代、ちょっと勉強する気があれば、経典の解説書や現代語訳などいくらでもあるわけですから。


Name: 水波坊
Date: 2011/11/14(月) 15:00   No:4501
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Title: Re:読経の意味    
因みに、

>私たちの分別・妄想心の判断とは別次元の考え方で、それらは行われているのだ

とは言っても、いわゆるカルト的な意味ではありません。
意味もわからず盲信してやれ、というのは仏教ですらないです。
あくまでも、分別妄想の心=生滅心の次元ではなく、言語不達の不二真如の根源において、という意味です。

仏教では、すべての迷い・苦は、「分別心・主客相対の心」から起こる、つまり「言葉の世界・論理の世界」は仮には成立していると必要だけれども、究極的にはそれらはどこまで行っても「迷いの分際」ということです。
いくらテレビ画面に映るものが素晴らしくとも、ハイビジョンでいくらキレイになったとしても、それらは電気信号でしかないし、幻のようなものでしかない、ということです。言葉・論理も、どこまで精密にしても、どこまでやっても、それは「妄想」です。
そういう妄想次元のものも、「本物」を指し示す「縁」にはなりますから、大切なものです。テレビがあるから、外国の事も学べます。でも、それ自体は幻です。
言葉とはそういうものですから、読経についても、その応用として、ご自身で考えてみてください。


Name: 天台沙門
Date: 2011/11/15(火) 09:59   No:4503
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Title: Re:読経の意味    
>お経は亡くなった人のためではなく、自分のために読むものなのでしょうか?

拍手は片手では鳴らないように、「故人のための読経」であることと「自分のための読経」であることは矛盾しません。
それが通夜葬儀の場での読経であっても、僧侶本人にとっては自分自身の修行のための読経です。通夜葬儀という場で読経を聴くことは、その場の人にとって仏法を知る自分自身の修行といえます。儀式に集ったことを機縁とした方々が故人を悼むことは故人のためです。
どれかひとつだけが読経の目的なのではなく、どれもすべてが読経の目的なのです。


Name: hotoke
Date: 2011/11/15(火) 15:51   No:4505
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Title: Re:読経の意味    
ご回答ありがとうございます。

> また、亡くなった方は現世的な分別理屈の世界(妄念の世界)を脱した仏の世界に結縁するのだから、経典の文句の一々がわかるわからないということではなく、その本質的意味・言説を超えた真如法身の説法そのものをダイレクトに聞くことができるから、生前に漢文がわかるわからないは関係ない…と信じる。そういう捉え方。

真如法身の説法そのものをダイレクトに聞くことができる?
あの世に行けば、お経の意味を理解することができる?と考えてよろしいのでしょうか?

たとえ無宗教で神仏を全く信じないで亡くなった人でも、読経して供養することには意味があると考えてよろしいのでしょうか?


Name: 水波坊
Date: 2011/11/15(火) 16:56   No:4506
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Title: Re:読経の意味    
http://blog.goo.ne.jp/harch75/e/b57dda4b7b422ef8e1cb79f027baf1d7
↑に書いていますが、私としては、【法事とは、他の波、この場合は故人という波が本来は「海と同一である」ということを、「自己を通して知らしめる」という「伝道」「法施」そのもの】と思っています。

亡くなったとしても、その人の生前のカルマは残っているわけで、つまり「死んで海中に没しても、生前の波としての力は潜在力として不可視ではあっても、ひとつのまとまりとしては存続している」、つまりその「まとまり」を俗に「魂」などと言うんだと思いますが、それに対する働きかけは、もちろん可能だと思います。

読経あるいは供養というのは、故人が悟りに至る・仏となるための「因」にはなりませんが、「縁」にはなります。その「縁」を受けるだけの機根が故人にあれば、良い結果を産むでしょう。
そして、どのような人であれ、機根自体は持っていると言うのが、大乗仏教の考え方と思います。

あとは故人のカルマの問題と、どのような縁を回向するのかということと、そういう色々な絡みの問題ですが、少なくとも「縁」がなければ「因」は「因」のままです。
火打石は「火という因」を持ちますが、「叩く」という縁がなければ「火」という結果は生まれません。それと同様です。

ちなみに仏教には内薫・外薫という専門的な言葉があるのですが、内薫というのは本人の「機根」究極的には「仏性」のことですが、外薫というのは「縁」特に「仏縁」です。
読経する・回向するということは、故人にとっては外薫に相当するものです。


Name: 勝運寺 山主
Date: 2011/11/24(木) 09:37   No:4509
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Title: Re:読経の意味    
hotoke様へ
本当はプロである僧侶自体もお経に書かれている内容をどれだけ理解しているか疑問なのですが、大まかにお話をしますと人が生きているときに「しなければいけない事」や「してはいけない事」が書かれています。この様な事をお釈迦様や仏様がお話になられましたと言う様な事が書いてあります。仏前でお経を御唱えするのは「この様に正しき行いを約束いたします。ご先祖様、仏様も証人になってください」という意味なのです。お経はご先祖様へのお供えではありません。あえて申し上げるなら「お経を唱え正しき行いと感謝の気持ちがご先祖様への供物と言えます。


Name: 猿田坊
Date: 2011/11/24(木) 23:06   No:4510
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Title: Re:読経の意味    
hotokeさん、突然ですがお子さんはいますか? お子さんがいるなら、学芸会や発表会のとき、お子さんが頑張ってしっかりやれていて楽しんでいれば嬉しくはなりませんか。

お経を読むことは、仏教的には尊い言葉を読んで学ぶ行為ですから、それを"自分のためにやってくれている"(回向)となるとご先祖が嬉しくなるわけです。
他者の善い行為を喜ぶ気持ちは清らかな心ですから、その清らかな気持ちによってご先祖様自身が救われるわけです。だから、たとえ意味が分からずとも、清らかな行いを喜ぶ気持ちにこそ意味があるので、読経して回向することに意味はあると思われます(回向がポイントです)。

なお、有名な話ですが、池に大きな石を放り込み、「浮かべ、浮かべ」と祈祷したところで石は浮かぶだろうか? と問いかけたお釈迦様の話があります。
当然、石は浮かんできませんね。亡くなったあとに祈祷しても「石」を動かすことなどできませんが、「石」自体のチカラで浮かんでくるなら話は別です。

在家仏教信者の回答でした。専門家の皆様、お邪魔しました。





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