Title: Re:霊友会の先祖供養
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結論から申し上げれば、「普通は母方と父方の先祖供養は別々にするもの」なのかも知れませんが、しかし「同じ仏壇に母方と父方の先祖を奉っても」なんの問題もないと考えられます。 その最大の理由は、個々人の先祖は父方だけではなく母方にも存在することが厳然たる事実であるにもかかわらず、母系先祖と父系先祖とを区別せねばならない確固たる理由がないということです。また、仏教儀礼などの(その理由が忘れられてしまった)習俗における「普通」ということが本当に「普通」なのか疑わしい、ということもあります。
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私はハンドルの通り天台を宗とする者ですから、霊友会さんの教義に関しては言及しません。ですから、以下は「仏教」という大枠の中での「先祖供養」に関する概説とご理解ください。
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厳密にいえば、仏教の教義そのものには先祖供養という考え方は存在しません。釈尊その人の教えは、あくまでも自分自身が苦から自由になること(解脱)にあり、自身の解脱と先祖霊とは関係がないからです。なおかつ、仏教が誕生したインド文明では中陰を経た霊魂は新しい肉体を得て転生していると考えますから、崇敬の対象とはなる先祖霊自体が存在しえないのです。 仏教に先祖供養という考え方が取り込まれるのは仏教が中国化してからのことで、そこには儒教の「孝」の概念が基本にあります。日本の仏教は中国化した仏教ですから、もとから仏式儀礼による先祖供養が含まれていたうえに日本独自の祖霊信仰が習合して現在に至っております。
実は、母系先祖と父系先祖とを一緒に祀らない習俗は神道に起源があるとされています。 いわゆる「氏神」は名の通りに「氏=一族の神」であるから他の一族はみだりに祀るものではない、ということが理由です。端的な例が伊勢神宮でして、中世以前は皇室宗家(天皇・皇后・皇太子)のみが参拝できる場所でした。中世以降の伊勢神宮が皇室の氏神でなくなったように、一族の神である氏神と地域の守護神である産土神とが混同されるようになり族外者の参拝禁忌は廃れましたが、本来は他族(他家)の祖霊をみだりに祀ってはならず、よって母系祖先と父系祖先を一緒に祀らないという習俗だけが残ったと想像できます。
というわけで、仏教における先祖供養は仏教本来のものではなく儒教や祖霊信仰との習合の結果なのですが、釈尊その人の教えから先祖供養の必要性を導くことも可能といえば可能です。 釈尊その人の教説は「縁起説」に集約されますが、これを具体的にいえば「すべての存在は因と縁による関係性のなかに存在しており、その意味で固定かつ独立した実体はありえない。よって、苦にも実体はないし、苦の原因を知ることで苦を除くことができる」というものです。本来的には「縁起説」とは西洋哲学でいう認識論に属する事象ですが、これを存在論に適用すれば「自分自身の存在は、父母という因とそれ以外の人間関係という縁によって存在しており、個別独立した自我は存在していない」ということになります。
つまり、自分自身について考えることは自分自身を取り巻く人間関係について考えることにほかなりませんし、逆もまた然りでしょう。その人間関係の中で最も根源的な関係が父母とはじめとする血縁関係ですから、自分の血縁に属する誰かを代表者として「供養」することは自分に縁のあるすべての人々を「供養」することになるのです。もっとも、それを意識するかどうかは別の話ですが。
顔も知らない父方の曽祖父のご供養と、世話になった母方の伯母のご供養と、どちらが大切におもえるかを想像いただければよいのですが、私は故人を偲ぶにあたり母系・父系という区別をすること自体に不自然さを感じます。
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