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Name: 愛里
Date: 2012/08/29(水) 02:27
No:4809
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Title: 阿弥陀如来と数珠について
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こんばんは夜分ごめんなさい。 気になり眠れないので夜分に相談することを申し訳なく思います。 私の家は浄土真宗大谷派です。夫も浄土真宗大谷派で二人とも神仏の信仰はとても厚く深く知恩院や内宮へもよく行ったものです。 ただ幼い頃に徳があると言われ、知恩院から特別な数珠を進められ現在も持っています。それは守り数珠らしく現在は忘れましたが、他の人の墓参りをするときやお葬式の参加などに使うとよいと言われ、現在は使用しています。 ただ夫もたまたま知恩院で同じように言われて首に巻く長い数珠を持っています。黒檀です。 その数珠はどういう物でしょうか?教えてください。(ただ志も似ていて側にいて安心できたのは彼だけでした。暇があると二人で墓参りをしています。) 彼と二人でいるとお葬式や焼き場で数珠を忘れた人が人格交代をして感謝して成仏されます現象をいつも不思議に思えます。
もうひとつ実家の前には、阿弥陀如来像のお地蔵様が北にあり、こちらにまともに向い立っています。皆が大切にする習慣があります。阿弥陀如来像のお地蔵様はどうゆう由来があるのでしょうか?歴史書で調べようとしても本がありませんので不可能でした。ただ両家ともお墓は賑やかです。血筋もまた夫と歴史上では似たり寄ったりでした。まったくの偶然です。 彼といると二人とも自然体でいられますし、幸せだと思えます。
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Name: 天台沙門
Date: 2012/08/29(水) 11:45
No:4810
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Title: Re:阿弥陀如来と数珠について
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Q1 知恩院で……首に巻く長い数珠を持っています A1 ハンドルの通り、私は天台を宗とするものですので、最終的には知恩院さんにお問い合わせいただくことが最善と考えます。 一般論をいえば、数珠は字のとおり「数える珠」でして、左手にもって仏名や真言を唱えた回数を数える道具ですが、道具が本来の意味を失い装飾や象徴となるのはよくある話です。重要な法要のときに「装束数珠」として飾りのために長い数珠を持つことは多いですし、数珠が神仏との縁をつなぐ「御守」になる過程で「手で持つ物」から「首にかけて加護を頼む物」になることもあったでしょう。 あとは、複数の人々が輪になって座り大きな数珠を繰りながら念仏をする法会があります(知恩院ではなく百万遍の通称で呼ばれる知恩寺が著名)から、このときに使う大きな数珠のミニチュアなのかもしれません。 浄土教の総本山からいただいた長数珠であれば、後者がアタリでしょうか?
※
Q2 実家の前には、阿弥陀如来像のお地蔵様が北にあり A2 想像ですが、「阿弥陀如来像のお地蔵さま」と呼ばれていることから「地蔵尊に間違えられていた阿弥陀如来像」なのでしょう。 通常、地蔵菩薩というと路傍に僧形で錫杖と宝珠をもっている立像(しかも条件的に石造が多い)として知られています。如来形の螺髪が剃髪の僧形に、右手を上げた施無畏印が錫杖を持っていない手に、左手を下げた与願印が宝珠を持っていない手に、それぞれ見做されたうえで道端にある石造りの立像ならば「お地蔵さん」と認識されても不思議はありません。
あくまでも「阿弥陀如来」は阿弥陀如来であり、「地蔵菩薩」は地蔵菩薩です。「阿弥陀如来であり地蔵菩薩である尊像」はありえません。
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Name: とてもありがとうございます。
Date: 2012/08/29(水) 17:10
No:4811
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Title: Re:阿弥陀如来と数珠について
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とても感謝致しております。 今後ともご指導お願い申し上げます。 これからも大切にしておきたいと思います。
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Name: 愛里
Date: 2012/08/31(金) 16:16
No:4812
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Title: Re:阿弥陀如来と数珠について
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先日はありがとうございました。 「阿弥陀如来のお地蔵様」については、ただ皆に親しまれているだけで実際には、違っていたようです。 簡単に申しますとこの土地は地盤が低い農村地です。昔は、よく水害や天災があったとされておりました。 間違えられたお地蔵様でした。すっきりしました。 ありがとうございました。 祖父母は嫁に行く身と教えてくれなかったようです。
数珠に関しては、江戸時代から剣道の道場をお祖父さんの代で閉めたことを思い出しました。 どちらとも判断できません。けれど山の中の道場なので後者の可能性があります。 ありがとうございました。
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Name: 愛里
Date: 2012/09/02(日) 20:22
No:4815
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Title: Re:阿弥陀如来と数珠について
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人の縁、人の繋がりとは不思議なものです。 毎朝、15坪ぐらいの喫茶店である時間帯に高校時代からの習い事の友人たちでぎっしりと埋まります。自分の立場を離れ言いたいことを言い、私の疑問に資料協力をしてくれました。 今日雨でしたのでゆっくりと疑問、問題解決ができまして清々しい気持ちです。 文章で説明ができませんことをお許しください。 明日皆に口で説明、報告をしたいと存じます。 「間違えられたお地蔵様」は、ただ戦国時代の農村民の安否を願う心からのものではないかと存じます。当時のこの土地の時代背景からの推測です。 自治会もない田舎です。 名古屋との逆差はそれは激しいものです。 人々の心のよりどころだと存じますので知らないふりをするのも優しさのような気がします。 21世紀は心の時代と言われております。 戦国時代と現代とあいかさなるものがあるかも知れませんね。
私は子供が居ないからできる今、自分ができることを仕事と家事、もてなしを頑張って行きたいと存じます。 本当にありがとうございます。
感謝
追伸、友人たち(遠方から来る友人も)はいつも疑問に思っていたそうです。
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