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Name: りょう
Date: 2012/09/22(土) 01:32
No:4825
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Title: 仏教で言う謙虚になるとはどういう意味でしょう?
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私は両親とほとんど暮らしていなかったので、絆の結び方を知りません。 親戚や祖母の家を転々としていたので、ほしい物はほとんど買い与えてもらっていました。 我慢すると言うことが出来ず、大人になってから浪費癖がついてしまいました。 今それを直すこと、主人との関係を修復することに自分と見詰め合って、自分が常に優越感を感じていたい 人より上だと見られたいと自分のことしか考えていなかったことに気づきました。 謙虚な気持ちを忘れなければいいと言われましたが、 謙虚になるとはどういうことでしょうか?
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Name: 風来坊
Date: 2012/09/22(土) 07:55
No:4826
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Title: Re:仏教で言う謙虚になるとはどういう意味でしょう?
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謙虚になるというのはおごりがなくなることです。 おごりはエゴの二元性によるもので、優劣を比較する心から生じます。 ですから「謙虚」は優越も劣等もない心の状態(be)で、どうするこうするという行為(do)ではありません。
どうなれば謙虚になるかといえば、人を優劣で比較しない習慣を身につけることで、その究極がエゴを脱すること、すなわちさとりを得ることです。
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Name: 天台沙門
Date: 2012/09/24(月) 12:08
No:4828
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Title: Re:仏教で言う謙虚になるとはどういう意味でしょう?
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『インディアナ=ジョーンズ/最後の聖戦』に「悔い改めた者は謙虚だ……悔い改めた者は謙虚にひざまずく……」と言う台詞(1:45”過ぎ)があります。非常にキリスト教的ではありますが、人の上の「何か偉大な存在=Something the great」を意識せよということです。その偉大な存在を「神」と呼ぶか「仏」と呼ぶか「真実」と呼ぶか、それはそれぞれの人の勝手な判断の結果でして、まあ宗教的には「謙虚」とはそういうことでしょう。
国語辞典的に「謙虚」とは「控え目で、自己を強く主張しないこと。自分の能力や地位におごらない素直な態度。ありのままに受け入れること。」だそうです。
私見ながら「仏教的謙虚」とは「価値観や先入観による判断をしないこと」と理解します。 その根拠は『般若心経』にある「行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」との文言です。これは「智慧を深く行じた時、認知の過程には固定した様態はないと理解したので、一切の苦厄から自由になった」ということでして、仏教の本質を「般若=智慧の実践」とした場合、「仏教的智慧とは、何事/何物かにとらわれない自由な境地を保つこと」と言い換えることができるからです。
「謙虚」と「般若」とを同値に扱う妥当性についてですが、辞書における「ありのまま」とは、対象となる事/物をあくまでも客観的に認識することですから、これは仏教における「とらわれない」という感覚すなわち自分の私慮や世間の常識という価値観による認識を排除することと響きあいます。ですから、仏教的には「謙虚」とは「般若」の一部または六波羅蜜の「忍辱」そのものといって間違いはないでしょう。
さらにいえば、仏教における「覚り/悟り」は、一定の状態を示すものではなく「覚り/悟り」を得ようとする営みそのものです。この観点からは「謙虚」とは、謙虚であることではなく、謙虚とは何かを考え続け、謙虚であろうとする営みそのものであるといえます。
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Name: りょう
Date: 2012/09/24(月) 22:47
No:4829
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Title: ありがとうございます。
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風来坊様、天台沙門様、 非常にわかりやすい解説をありがとうございます。
確かに優劣で何事も判断していたように思います。 気をつけたいと思います すべてをただ受け入れるということですね。
般若心経はよくあげているにもかかわらずその意味をよく知りませんでした。 偉大な存在を意識せよ 心にストンときました。 頑張れそうです。 ありがとうございます!
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