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  墓参りの意味がわからない。

[4827] 秋風
[4830] 天台沙門
[4831] 風来坊
[4832] 秋風

Name: 秋風
Date: 2012/09/23(日) 14:07   No:4827
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Title: 墓参りの意味がわからない。    
私は、墓参りは不要だと思っています。その代わり、自宅には仏壇があり、毎朝供え物をし、手を合わせています。亡き魂への思いが重要であり、なぜ抜け「殻」である骨にわざわざ手を合わせに行くのか不思議でなりません。仏教における墓参りの意義を教えてください。


Name: 天台沙門
Date: 2012/09/25(火) 00:55   No:4830
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Title: Re:墓参りの意味がわからない。    
まずは結論のみ。

家にある位牌は日常生活の中に存在していますが、墓は(多くの場合)日常の生活空間には所在していません。
つまり墓参をするということは非日常の体験をするということです。
宗教的な体験とは、つまるところ非日常を体験するということですから、ここに墓参の意義を求めることができます。
ひるがえって、自宅に仏壇を置いて位牌を合祀する習慣は、江戸時代の寺請制度によって普及したとされていますから、死者を追悼する道具立てとしては位牌よりも墓石が本来的なものであるといえます。



さて。
仏教における「墓参」の起源は、釈尊その人を偲ぶために釈尊の遺骨(=仏舎利)を祀った施設(=ストゥーパ:卒塔婆)を礼拝の対象としたことに始ります。インドの言葉で「ストゥーパ」、これが漢字表記されて「卒塔婆」、さらに簡略化されて「塔」となり現在に至ります。
したがって「塔」とは当初「釈尊を偲ぶための施設」であったはずなのですが、いわゆる大乗仏教の成立をもって「釈尊を象徴させる施設」へと転換します。すると仏教施設には塔が不可欠だ、ということになります。塔があれば釈尊がおわすということです。日本でいえば、飛鳥の法隆寺・大阪の四天王寺・奈良の薬師寺など、古典古代の寺院ほど立派な塔を所持しておられます。
(註1:いわゆる本尊としての仏像はインド=グリーク文化によって発生した。よって仏像によって表現される仏格は、ギリシア的神格と同様に人に対する救済や守護の機能を表現すると考えておいたほうが良い。)

ですが、立派な塔を立てることは経済的に難しいうえに、塔を建てることが功徳になるという思想に転化してきましたから、中世から近世にかけて低コストの一般市民にも建立できる五輪塔・板碑・板卒塔婆が普及するようになります。最終的には現在の和式墓石の形である直方体の石塔となります。つまり、墓参り=墓石を礼拝する、ということは広義の仏を拝むということなのです。基底にある気分は「塔」という形式をもって「死者を象徴する」ということといってよいでしょう。
(註2:日本の伝統的な宗教観である神仏習合の哲学のもとではカミとホトケは区別されない。ホトケと死者との関係については措くが、カミとホトケの本質は先祖霊であってホトケを礼拝することは先祖霊を礼拝することと同値なのだ。)


ところで。
日本人の宗教意識には「遺骨信仰」とでもいうべき感覚があります。それについて述べることは本旨でありませんが、散骨や分骨をすると死者が浮かばれないと感じる人が現在も少なくないことから日本人の遺骨信仰の根深さは証明できます。しかし、これに対して、遺骨を納める墓所と参拝対象となる墓所をきっちりとわける制度(両墓制)が存在していることも事実であり、両墓制度下では遺骨を納めない墓所を参拝対象とすることが知られています。つまり、日本人の信仰感覚では「遺骨が信仰対象である」場合と「遺骨は信仰対象にならない」場合とが存在しているのです。

貴方は後者の立場の信仰観をもっているわけです。

(註3:原始的な死霊への畏怖感が両墓制を司っていると想像できる。また、遺骨信仰は古代エジプトにおける転生信仰、またはキリスト教とイスラム教に共通する復活の概念の表象と想像できる。とすると、物質への執着を否定する仏教的思想と釈尊の御遺骨が分骨されたという実例からすれば仏教式葬儀では分骨・散骨は推奨されるべき行動といってよく、ここに仏教思想の特異性を観ねばならない。)



人類に普遍的な信仰観では、生者は「この世」に暮らし死者は「あの世」に赴くことになっています。「あの世」は神仏=Something th great の時空間であり、一般的には「天国」とか「極楽」とか「常世」と表現されています。実は、墓地は「あの世」であって「この世」ではないのです。宗教学的には、そこを聖地と呼びます。墓参は聖地に行くこと、「あの世」に行くことなのです。
仏教では「あの世」を「浄土」と称します。
「浄土」のうち、最も著名なものが「極楽」なのですが、極楽浄土は西にあるとされています。春分秋分には太陽が西に沈みます。極楽浄土の教主は阿弥陀如来であり、阿弥陀如来は「十方を照らす無量の光」と表現されていますから、真西に沈む太陽は阿弥陀如来と理解されてきました。そういった特定の日である春秋の彼岸に墓参をするのは西方極楽浄土に往生しているに違いない死者たちを追悼するに最適な日なのです。
「あの世」に往った人々に想いをいたすには、やはり自宅という日常空間では不充分でして、墓所という非日常空間に赴く必要があるのです。
(註4:その代わりに、冬の正月には歳神として、夏の盆には水神や穀霊として、先祖霊が帰ってきてくれる。春秋はこちらから先祖霊のそばに出向くのが礼儀というものだろう。)





余談ですが、仏教という信仰体系には「死者の追悼」という目的はありませんでした。日本の仏教の特徴といってよい「先祖供養」という行為が発生するのは、仏教が中国化する過程で儒教の影響を受けた中国化した仏教を、原始的な祖霊崇拝が「神道」として洗練化される途上の日本が仏教を導入したからです。
ちなみに、釈尊その人も「葬儀」を行っております(=キサーゴータミー説話)が、それは死者の追悼や鎮魂のためではなく、あくまでも生者の解脱(=受け容れ難い死の受容)を目的としてのことです。



Name: 風来坊
Date: 2012/09/25(火) 08:36   No:4831
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Title: Re:墓参りの意味がわからない。    
人間は生きている間は身体を自分だと思っています。
死んだ後身体はなくなりますが、中には自分のよりどころを必要とする死者がいて、その辺が墓標の起源だと思うのですね。

一方位牌を死者とする習慣もあって、どれにするか遺族が決めることはなかなかできないと思います。
周りのお墓がきれいに整っていて、自家のお墓が荒れているのでは、亡くなったご先祖様が寂しい思いをしているかも知れませんのでね。


Name: 秋風
Date: 2012/09/26(水) 21:23   No:4832
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Title: Re:墓参りの意味がわからない。    
天台様、風来坊様ありがとうございます。近々、墓参りに行こうと思います。この質問を投稿してから、不思議と亡き祖父母の夢を見ます。そう言えば昔私が不登校だった自分、自転車で一時間かけ、自転車のかごにお土産を積んで、毎週のように私のところへ来た祖父を思いだしました。「学校へ行け」というのでもなく、一時間ばかり話して、帰るだけ。祖母がお土産を持たせてくれることもありました。なんとなく来てくれるのが心強かったです。お墓にはその祖父母が眠ります。行く意味がわからないなどと思って足を遠退いていたことを後悔します。




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