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Name: 香織ママ
Date: 2012/10/03(水) 16:26
No:4845
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Title: 水子供養
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5人の水子がいます。 供養の仕方教えてください。 高いお金を払って供養しなければならないのでしょうか? お寺や神社があったらどこでも手を合わせればいいというわけではありませんよね? どうしたらいいのでしょう。 私が死ぬまで供養にはいきたいです。 詳しく教えてくれると助かります。 今までは、初詣に行くお寺で1度お経を読んでいただきました。
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Name: 天台沙門
Date: 2012/10/04(木) 06:03
No:4846
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Title: Re:水子供養
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Q1:供養の仕方教えてください。 A1:供養の本質は死者を記憶することです。ですから、お子様がたのことを覚えていてあげてください。日常生活の中では忘れてしまうこともあるでしょう。ですから、冬の正月・春の彼岸・夏の盆・秋の彼岸、そういった季節折々に想いだしてさしあげましょう。
Q2:高いお金を払って供養しなければならないのでしょうか? A2:上記の通り、死者を記憶することが「供養」なのですから、はっきり申し上げて宗教的儀式は充分条件に過ぎず必要条件ではありません。ましてや布施料の問題ではありません。
Q3:お寺や神社があったらどこでも手を合わせればいいというわけではありませんよね? A3:どこででも手を合わせてあげてください。「水子供養」を標榜する社寺以外でも大丈夫です。
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生まれてくることができなかった子供や幼くして亡くなった子供に対する態度は大きく二分されます。ひとつは「生まれてこなかったこと」にする態度であり、もうひとつは「大人と同じにきちんとお弔いをする」という態度です。 どちらが正しいという問題ではなく、ものの考え方が違うというだけのことで、どちらも正しいのです。上記の通り、私は産まれてくることができなかった水子も、生まれてきた人と同じようにお弔いをすることをお勧めする立場です。
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水子は祟る、といわれます。 「祟る」とはどういうことかというと「死者(=神霊)が生者にとって都合の悪いことをする」ということです。逆にいえば「生者にとって都合の悪いことの原因を死者(=神霊)に求める」場合に「祟り」という言葉を使うわけです。ちなみに「仏」は「祟り」ません。
多かれ少なかれ、生者は死者に一種の「申し訳なさ」をもちます。
自己や災害の場合に「サバイバーズ(生存者の)ギルト(罪悪感)」と呼ばれ、一般的には「もっと何かをしてあげられたのではないか」という感情であり、対象が水子の場合であれば「元気に産んであげられたはずなのに」という自責の念です。 こういった「申し訳なさ」つまり「祟りへの怖れ」は、「死」を受け容れたり乗り超えたりすることによって消えるといってよく、実は宗教的儀礼とは死の受容や超克のために行われるのですから、ここに祟り除けの祈祷が発生する理由があります。 ただし、大切なことは、死の受容や超克には「一定の時間」を「同様の体験・感情をもつ人と支えあう」ということが必要である、ということです。宗教的儀礼の本質は、この「一定の時間」を区切り、「同様の体験・感情をもつ人」と一緒に過ごす場を設けるという点にあります。 「水子供養」をする場合、上記のようなメカニクスを知っておくだけで「供養」の意味あいは変わってくるはずです。
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ちなみに「供養」とは「供物を捧げること」です。 文化文明を問わず、お祭りの骨子は「神仏を招き、食事を共にすること」ですから、水子供養も、お子様がたと一緒に食事をしているつもりで想いだしてさしあげればよろしいかと存じます。
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Name: 香織ママ
Date: 2012/10/16(火) 14:16
No:4858
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Title: Re:水子供養
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お返事遅くなり申し訳ありません。 何度も何度も読み返しました。
高いお金を払えば、供養に関して満足してしまい、足が遠のいてしまうような気がしました。 いつでもどこでも、手を合わせていいと知りうれしい気持ちになりました。 時間があるときは、立ち寄って手を合わせたいと思います。 水子供養については、知らないことが多く自分が間違ったやりかたをしているんじゃないかと常に思っていていましたが今回教えて頂いたことを参考にしたいと思います。 天国にいる大切な子供たちです。 ずっとずっと忘れたくはないです。 本当にありがとうございました。
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