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Name: 1Q
Date: 2012/11/23(金) 19:40
No:4897
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Title: 釣りと不殺生戒について
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日蓮宗の在家・中年男子でございます。思うところがあり、数ヶ月前から、五戒や十善戒を心掛けるようにしております。
戒のひとつに不殺生戒がありましたので、趣味の海釣りを辞め、道具も処分しました。代わりの趣味として、バードウォッチングを始めてみようと思っているところです。
ところが日が経つにつれ、やはり釣りをしたいという欲求にかられてしまいます。どうも釣りへの誘惑は断ち切れそうにない気がしてしまいます。
実際に釣りをしていた時には、餌虫を殺し、釣れた魚を殺すことに罪悪感を感じるものの、そのうち夢中になり出すと、しだいにその罪悪感も薄れてしまうという状況でした。
不殺生なのですから、文字通りに解釈すれば、道楽としての釣りは悪しき行為になるのは理解しているつもりですが、現代社会なら、多少は許されるのではないかという思いも、なぜだか頭の片隅にございます。
しかし、釣りで餌や魚を殺す(なるべく魚は食していました)ことは、同じ戒の不偸盗、不邪淫のように、盗んだり、不倫をすることと同レベルの行為なのかという疑問も生じ、悩んでしまいます。
お釈迦様なら現代であれ、当然釣りを禁ずるでしょうか。野暮な質問で申し訳ありませんが、ご助言賜りますと幸いです。どうぞよろしくお願いします。
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Name: 天台沙門
Date: 2012/11/24(土) 15:41
No:4898
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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端的に申せば、「道楽として」魚類の生命を奪う可能性のある行為である「釣り」を行うことは、釈尊は禁じられると考えます。
論点は2点あります。
第1点目は「釣り」という行為の目的です。それを生業とする(せざるをえない)人が存在する以上、「釣り」という行為を全否定することは生業とする人々の存在を全否定することになります。そのような判断を釈尊がするか、という論点です。 釈尊在世中も、出家者は「自分のために釣られた魚/殺された獣」でなければ布施として食してよいこととなっていましたから、釣魚や魚食そのものは否定されるものではないでしょう。 したがって、職業であれば釣魚は制限はされても禁止はされないと判断できます。
第2点目は「道楽」という行為の考察です。職業であれば「せねばならぬこと」でしょうが、娯楽そのものは明らかに「しなくてもよいこと」に含まれます。なおかつ他の生命を奪う行為は「してはならぬこと」や「しないほうがよいこと」に属しますから、娯楽としての釣魚は「しなくてもよいこと」かつ「しないほうがよいこと」なので禁止されるべきと判断できます。 さらにいわせていただくと、貴殿のご質問にある「誘惑は断ちきれない」・「罪悪感も薄れる」とのご自覚をおもちであれば、「誘惑を抑える」・「罪悪感を意識し続ける」とお勤めいただくことが、そのまま戒に則ることと考えられます。
※
ところで、原始的な宗教感覚では「生命を食すること」に一定の価値を見いだします。 狩猟神である諏訪大社の祭文には、人に狩られて死んだ獣は肉体を失うことで成仏できる、という思想が隠されているそうです。北海道のイヨマンテや北米原住民のトーテム信仰にも同様の感覚をみてとれます。「いただきます」という言葉に象徴される日本の食文化の基底にある、食材となった動植物の生命が自分自身の生命の一部として一緒に生きてゆく、という感覚も一緒でしょう。 この観点からは、ご自身で食することを前提とする限りにおいては目をつぶっていただけるのでは、とも想像できますが、ただし神へ犠牲を捧げる(生命を供物とする)行為は釈尊が否定なさっていたことには留意せねばなりません。
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Name: 1Q
Date: 2012/11/24(土) 18:29
No:4899
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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天台沙門 様
はじめまして。ご丁寧な回答、ありがとうございました。釣りをするために、心のどこかで肯定的な回答をいただきたいという期待があったのだと思います。しかし覚悟を決めて、二度と釣りはしないことを決意致しました。
この度は誠にありがとうございました。またご縁がございましたら、なにとぞ御教授下さいますようよろしくお願いします。大変参考になりました。
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Name: 風来坊
Date: 2012/11/26(月) 05:52
No:4900
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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釣りをするしないという行為の問題ではなく、釣りをしたいという心が問題なのです。 釣りという行為を我慢したところで、その心が発する殺生はほかのいろんな行為に現れるでしょう。 戒律というのは意思の象徴ではありますが、型だけ真似しても点で面を相手にするようなものです。
その心を本気でなくしたければ、どんどん釣りをすることです。 そして針を刺され切り刻まれるミミズの苦しみ、必死で逃げ回る魚の苦しみを自分のこととして体験しながら、一方でそれを楽しんでいる自分の中の残忍さを見つめることです。 そうすれば我慢せずとも自然に釣りをしたいと思わなくなります。
私は道具は非常用具として残してありますよ。 いつでも釣りに行けます。 20年以上経つのでリールなんか使えないかも?^^
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Name: 1Q
Date: 2012/11/26(月) 12:09
No:4901
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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風来坊 様
はじめまして。ご回答ありがとうございます。風来坊様はかつて釣りに夢中になり、そして「自分の中の残忍さ」を自覚なされた結果、自然と釣りをしたいと思わなくなり、20年以上釣りをしていないという状況なのでしょうか。ただし道具だけは、非常用具として残してあると。
理屈くさくて申し訳ないのですが、例えば不邪淫戒、不飲酒戒に置き換えますと、もし異性と交わりたい、酒を飲みたいという気持ちがあるなら、我慢せず自分の愚かさに気付くまで、どんどんそれを実行したほうが良い、ということと同じにならないでしょうか。
しかし世間では、それで大失敗をし、取り返しのつかない人生を送らざるを得ない人が、多数いるような気がします。釣りに関しては、それをした結果、取り返しのつかない人生を送っているというのはあまり無いと思いますが。
もし差し支えなければ教えていただきたいのですが、風来坊様は僧侶さまでしょうか。
PS.天台沙門様からのご回答後、「解決」とさせていただきましたが、その後、風来坊様からコメント頂きましたので、一旦「解決」を解除させていただきました。誠に申し訳ありません。
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Name: 風来坊
Date: 2012/11/27(火) 06:51
No:4903
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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私は坊さんではありません。 信用しない方がいいかもね。^^
不邪淫、不飲酒が不殺生と同じ方法か?ということですが、邪淫は生命感情、飲酒は空虚感(エゴ)、殺生は蓄積された感情(阿頼耶識)によるもので、方法は全部違います。 心の中に邪淫、飲酒、殺生があって、それを我慢することが不邪淫、不飲酒、不殺生だと思いますか? 戒律は同じ想いの人が集まるときは相乗効果がありますが、個人的には一つの方向性です。
魚釣は自分の中に残忍さがあって、それを楽しんでいます。 残忍さを心の中に溜めておくより、開放して消滅するほうが不殺生ではありませんか? そのためには最小限の犠牲で自分の残忍さを体験し尽くしてしまうことです。 1Qさんは釣りに罪悪感を感じているわけですから、罪悪感を感じ尽くせば、自然に釣りに行きたいとは思わなくなるでしょう。
不殺生とは?行為(型)のことか?心の様相なのか?という違いだと思います。
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Name: 風来坊
Date: 2012/11/28(水) 06:56
No:4905
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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きょうは不邪淫について。
よく人は生かされていると言いますが、性欲は食欲と同じように生命に備わっているものです。 それが邪淫になるのは、性欲に飲み込まれてしまうから。 私たちと釈迦の違いは、生命感情に飲み込まれるか飲み込まれないかの違いです。
飲み込まれないためには性欲をよく見つめていること、気づいていることです。 その気づく力を養うことが不邪淫で、我慢することが不邪淫ではありません。 この辺は瞑想の領域になるので、不殺生とは方法が違います。
飯を腹八分にとどめることも同じ力で、飽食と邪淫は同じです。 教科書に書いてないことは信用できませんか?^^
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Name: 1Q
Date: 2012/11/28(水) 11:42
No:4906
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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風来坊 様
ご回答ありがとうございます。最初の質問でも記載致しましたように、私が釣りをしていた時には、餌虫を殺し(イソメというミミズのような餌で、ハリにさす時に、いやがり噛み付いてきます)、釣れた魚を殺すこと、時にはハリを飲み込んでしまった毒魚をそのまま海に返すということに、初めのうちは罪悪感を感じておりました。
しかし、そのうち夢中になり出してしまうと、しだいにその罪悪感も薄れ、時間も忘れて釣りをしてしまうという状況でした。
つまり、風来坊様が上記で書かれておられる、「飲み込まれてしまった」状況であり、その結果、仕事にも影響を与えるほどでした。遠出して釣りをしておりましたので、折角来たのだからという思いもありましたが。
そのような事情や他にも思うところがあり、やはりお釈迦様がおっしゃっていることは正しいという思いになり、釣りを断っています。ただし、お釈迦様、昔のように夢中はなりませんので、少しだけ釣りをさせて下さいという気持ちもあり、質問させていただきました。
申し訳ありませんが、風来坊様のように、あまり深く考えてはおりませんが、いずれの戒であれ、型から入ることも大事なような気がします。
度々ありがとうございます。
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Name: 風来坊
Date: 2012/11/29(木) 06:29
No:4908
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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仕事に影響を与えたり、お金を使い果たしてしまうのは依存症になりますので、何か依存の要因があるのでありませんか? 不殺生を理由に依存対象を断つのはよいと思いますが、依存の対象が他のものに移るだけだと思います。
依存や犯罪は戒律で収まる問題ではありませんので、時間をかけてご自分を見つめてみてください。
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Name: 1Q
Date: 2012/11/29(木) 19:17
No:4909
| 解決
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Title: Re:釣りと不殺生戒について
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風来坊 様
親身になってご回答下さり、ありがとうございます。 参考にさせていただきます。またご縁がございましたら、なにとぞよろしくお願いします。
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