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Name: 開運
Date: 2015/04/09(木) 16:40
No:5179
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Title: 真言宗 仏壇引っ越しについて
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他県へ引っ越しのため、仏壇を「魂ぬき」「魂入れ」したほうがよいのかアドバイスお願いいたします。
とくに、壇家さんのお寺とかございません。
お不動様で有名 ○田山 系列別院にそれぞれ、現在の愛知住居の県のお寺と、引越し先お寺にお聞きしました。 1,現在の住居では「魂ぬきし、引越し後、魂入れをする。1番はじめに仏壇を家に入れること」
2,引越し先、東京のお寺「仏壇に魂入れしたものを、引っ越しごとに魂抜きはしない」 との返答でした。
どのようにしたらよろしいのでしょうか。同じ系列のお寺でも、県によりこんなに違いますと困ります。引越し日が近い為困っております。宗派が違うところでしたら理解できるのですが。 仏壇を1番はじめに引越し先に運びたいのですが、2週かけて引っ越しますので、仏壇だけ先に運ぶのは気になります。 その為、最期の日に私共と同時に仏壇と家に入りたいと考えてます。
また、出来ましたら、魂抜きせずに自家用車で大切に仏壇を運びたいと考えてます。いつまでも、見守って頂きたいのです。良きアドバイスお願い致します。 4月5日
------------ 過去の仏事相談例にコメントとして投稿されていましたので、 この掲示板に投稿させていただきました。 4月9日 管理者
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Name: 一求道者50歳
Date: 2015/04/18(土) 01:13
No:5181
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Title: Re:真言宗 仏壇引っ越しについて
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残念ながら、「これが絶対だ!」というものはないということです。 宗派の違いは当然のこと、同宗派でも各寺院による違いもあるし、 個々の僧侶たちによっても見解も云うこともまるで違う場合がある、 というのが実情のようです。
まず、そもそも「入魂」という云い方自体に問題があるのであって、 正確には仏壇そのものに入魂しているわけではなくて、 仏壇に対しては“清め”を行っているものと理解すべきです。 そして、重要なことは入魂するのは本尊である仏像や掛軸なんだということ (本山から授与された場合については、当然、すでに入魂済の本尊です)。 つまり、清めの作法が修された仏壇に入魂された本尊を祀る。 または、清めた仏檀に納めた本尊に対して開眼(入魂)の作法を施すのです。 一般的には、これらのことをすべて纏めて、「魂入れをした/してない」などといっているわけです。
それでご質問のご引越しに関してですが、 つまり、仏檀そのものには入魂はされてなどいないので、仏壇に対する魂抜きなどは不要です。 ただ丁寧に大切に扱って、壊れないよう汚れないようにすればそれでいいです。 そして、もしも汚れたら綺麗に清掃をすれば、それで何も問題ありません。 最も肝心なものは、入魂されている本尊(仏像や掛軸)であり、或いは、位牌なわけですから、 これこそがもっとも大切に慎重に扱われるべきです。 衝撃を与えることなくソフトに大切に扱われれば、こちらも特に魂抜きなどは不要です。 不浄な手で安易に触れることを避け、 清めた手(もし、塗香などがあればこれで手を清めて下さい)で、 更に手袋を着用してから触れるようにするといいです。
例えば、大きな仏像が修復工事のために解体されるなどの場合については、 当然、入魂済の仏像をバラバラにしてしまうのですから、その前に必ず魂抜きしてただの像にする必要があります。
一応、私は真言宗の一檀信徒で、 個人的に新勝寺の本尊もお祀りしています。
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Name: 見牛
Date: 2015/04/25(土) 07:47
No:5186
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Title: Re:真言宗 仏壇引っ越しについて
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何のために「魂ぬき」「魂入れ」をしたいのですか? 祟たたりが怖いからですか? それならお寺の言うことではなく、自分の思うようにした方が精神衛生上よろしいのではありませんか?・・・
針供養という言葉がありますが、人間が作ったものも魂があります。 建物も自動車も絵や写真も、もちろん位牌もそうですね。 インドではパドゥカと呼ばれる足型に神仏が宿ります。
その魂は人の思い込みによって入魂します。 人が作ったものは人が入魂しています。 人間の思いは現実化する力を持つからです。・・・引き寄せの法則 その思い込みを強化する方法が儀式です。 儀式は大勢いればいるほど効果があります。 それが「魂入れ」と呼ばれる儀式だと理解しています。
例えば仏像に入魂した神仏は、仏像に何かがあれば実際に違和感を感じるようです。 神仏ですから文句は言わないでしょうけど。 ですから私は仏像の顔などを掃除するときは「掃除します、お抜けください。」「終わりました、お戻りください。」と言っています。
それは自分がそう信じているからで、それが信じられないなら、教条的にやっても無意味だとは思いますが。 これは日本仏教とは関係ない個人的な意見です。
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