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Name: しょうこ
Date: 2012/11/09(金) 17:20   No:4869
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Title: お尋ねします    
はじめして。
ごく々単純な疑問なのですが・・・今更なのですが。
お仏壇とお墓の違いは何でしょうか?
命日になると(都合により前後する日もあります)
お仏壇に供え物をして手を合わせ、お墓にも参ります。
私が存在している間は、両方に生花を絶やさない事が
私なりの決め事として行動しています。

けして両方に供えるのが嫌なのではありません。
只、本当に単純にお仏壇とお墓の違いは何だろう?と
この頃思うようになりました。

お位牌制度は私の代までとの身内による暗黙の決め事みたいです。
私の亡き後は現在のお位牌も含めてお墓に納めるようで
娘達はお墓があるので、お位牌(仏壇)は不要との思考のようです。

あまりにも無知な質問で申し訳ありませんが
ご返答頂けましたら幸いに存じます。



Name: 天台沙門
Date: 2012/11/10(土) 16:49   No:4871
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Title: Re:お尋ねします    
「墓」と「仏壇」の違いはいくつかあります。

あたりまえですが「墓」は屋外にあり「仏壇」は屋内にあります。これは、「墓」は墓でしかないのに対し、「仏壇」は寺のミニチュアであるという成り立ち(聖武天皇の詔勅)があるからです。そう考えると、ホイスト式屋内霊園は遺骨とともに墓石のイメージをもった位牌を安置する場所といえます。

さて。
宗教・信仰の違いを超えて墓は「墓」ですが、祭壇は宗教・信仰によって名が変わります。
日本の伝統仏教では寺院の祭壇を「須弥壇」と呼び、特に家庭にある場合に「仏壇」と呼びます。ちなみに、神道での家庭用祭壇は「神棚」であり、キリスト教の教会ではそのままですね。
両者の本質的な違いは、「墓」に祀られているものは「死者」であるのに対し、「仏壇」に祀られるべきものは「人ならぬ存在」であるという点です。あくまでも仏壇とは、神仏という崇拝の対象物を置く場所なのであり、位牌という死者の象徴物を置く場所ではありません。いわば位牌は本尊さんの間借り人なのです。

つまり「位牌は不要」ということと「仏壇は不要」ということは別の問題なのです。

仏壇と位牌がセットになるのは、阿弥陀如来を仏壇の本尊にして一緒に先祖や縁のある人の位牌を置き、阿弥陀如来に故人の往生と来世の安穏を祈るスタイルが基本にあります。逆にいえば、不動明王や観音菩薩に自分自身の現世利益を祈るのであれば、その仏壇には位牌は必要がないわけですし、例えば先祖霊が自分自身の守護神であると信じるならば仏像ではなく死者の霊魂の象徴である位牌を礼拝する積極的な意味が発生します。

以上、ご参考までに。


Name: しょうこ
Date: 2012/11/11(日) 00:37   No:4876
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Title: Re:天台沙門 様    
早速のお返答ありがとうございました。

私はお恥ずかしい事に無宗教です。
なので一番はどの宗派よりもまずはご先祖様という志向でした。
が、今通っているドクターに勧められて二年前から
毎朝、般若心経を唱え、1日のスタートにしています。
宗派を持たない私が般若心経を唱えてもいいものか!?
迷いはありましたが、唱えてると心が落ち着きます。
むしろ、朝に唱える事が日常になり、外泊した日は翌日に
昨日は申し訳ありませんみたいな心で唱えます。

天台沙門のお返事の中で
『位牌という死者の象徴物を置く場所ではありません。いわば位牌は本尊さんの間借り人なのです』
の箇所にドキッとしましたが

最後の
『先祖霊が自分自身の守護神であると信じるならば仏像ではなく死者の霊魂の象徴である位牌を礼拝する積極的な意味が発生します』
のお言葉に胸をなでおろしました。

お墓と仏壇の違い・・・理解できました。
私としては、折角の日本の厳かな『お仏壇』という風習といっては変ですが、私の代でそれが無くなることが寂しい事だと
感じるのです。
後を継いでくれる娘達の意向が切ない気がして
何となくお墓とお仏壇の違いをお尋ねしてみました。

ご丁寧なお話し、ありがとうございました。




Name: 大工
Date: 2012/10/18(木) 08:48   No:4860
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Title: 盛飯 一杯飯について    
地域で呼び名は様々と思いますが、人が亡くなり通夜、葬儀を行う際に故人が使っていた茶碗にご飯を盛り箸を刺します。

箸を刺す際、一本は縦に二本目は横に十字を書くように、箸を刺していましたが、これは何か意味があるのでしょうか?

二本を盛飯に刺した場合と何か違いがあるのでしょうか?

ご指導よろしくお願いします。



Name: 天台沙門
Date: 2012/10/18(木) 10:59   No:4861
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Title: Re:盛飯 一杯飯について    
大雑把に言って、葬礼のときには日常では行わないこと(行ってはいけないこと)を行うとか、日常とは逆のやり方をするということになっています。典型例が「着物のあわせを逆にする」ですね。
さらにいえば、葬祭儀礼は宗旨宗教の違いではなく地域性の違いが色濃く表れます。ですから「立て箸」ではなく「十字箸」だから間違いという理屈にはなりません。

私の預かる寺の周囲では一膳を縦に刺す風習しかありませんので、「十字箸」の由来や意味はわかりません。

強いて想像すれば、箸は「揃えて使う物」ですから「揃えずに置く=使う」ことによって非日常を表現するということか、それとも日常では箸を食器の上に横たえる行為を「渡し箸」として食事の終わりを示す合図としていますから、箸を横に使うことで最後の食事ということを示しているとも思われます。

なお、インターネット検索をしてみると、「真言宗は十字に置く」とか「縦が火、横が水を表し、両方で清める」という説明がありますので、この点については真言宗さんのご回答を待たれることがよろしいでしょう。


Name: 大工
Date: 2012/10/21(日) 08:43   No:4862
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Title: Re:盛飯 一杯飯について    
ご回答ありがとうございました。





Name: 新参者
Date: 2012/10/14(日) 19:50   No:4854
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Title: 四十九日までの、勤行についてお伺いさせて下さい    
真言宗の豊山派でお世話になっております。
母は平成19年に亡くなりました。今まで毎朝夕勤行を行なってまいりましたが、先日父が亡くなり、葬儀社により仏壇の扉を閉じられてしまいました。49日までの間亡き母と、大日如来様にお詣りはしなくても良いのでしょうか?
お忙しいところ申し訳ございませんが、よろしくご指導お願いいたします。



Name: 天台沙門
Date: 2012/10/15(月) 09:50   No:4855
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Title: Re:四十九日までの、勤行についてお伺いさせて下さい    
ハンドルの通り、天台を宗とする者ですので真言宗的理解とは異なる点があると思われますがご参考までに。

まずもって仏壇の扉は閉める必要はありません。
まあ、菩提寺の住職さんが閉じるようおっしゃったならまだしも、葬儀社の手によるものでしたら開けて普段通りに勤行をなさったほうが故人のためにもご自身のためにもなると考えます。



日本古来の信仰感覚(=神仏習合)では、神は死を忌みますが仏は死を忌みません。
密教的には、死者は「死」によって「生」という呪縛から自由になり、大日如来という宇宙の真理と一体化(=成仏)できるのですから、御父君でもあるところの大日如来を拝まずにどうせよというのでしょう。(註:生という呪縛を、どう認識して生きていくかは、また別の話)

この場合、葬儀社が神棚に半紙を張る行為をそのまま仏壇に適用して扉を閉めてしまっただけで、宗教的な根拠に基づいてのこととは考えられません。もうちょっと勉強してほしいですね。


Name: ツリー主です
Date: 2012/10/15(月) 18:10   No:4856
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Title: Re:四十九日までの、勤行についてお伺いさせて下さい    
お答え戴きありがとうございます。
仏壇の大日如来様と母と、四十九日までの仮壇の新仏の父と一緒にお祈りすることとします。
勉強不足でした。本当にありがとうございました。


Name: 盛岡青龍寺 (真言宗)
Date: 2012/10/16(火) 10:17   No:4857
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Title: Re:四十九日までの、勤行についてお伺いさせて下さい    
 天台沙門様のおっしゃる通りで、私ども真言宗でもツリー主様のような例で御先祖様の御仏壇の扉を閉めるようなことはございません。
 最近は大規模な葬儀社で新人が多く入っておりまして、仏事を知らないでご相談の件の他にも、驚くようなことをしていく例も起きております。
 今まで通り、大日如来様にお祈りし、御先祖様の御供養をなさって差し上げてくださいませ。
 また、お困りごとはこの場でご相談いただくのもよろしゅうございますが、どうしても時間差が生じますので、突然の仏事でお困りの時は、菩提寺様にまずご相談なさるのがよろしいかと存じます。


Name: ツリー主です
Date: 2012/10/16(火) 20:09   No:4859
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Title: Re:四十九日までの、勤行についてお伺いさせて下さい    
有難うございます。
今までどおり、勤行を行なってまいります。




Name: 香織ママ
Date: 2012/10/03(水) 16:26   No:4845
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Title: 水子供養    
5人の水子がいます。
供養の仕方教えてください。
高いお金を払って供養しなければならないのでしょうか?
お寺や神社があったらどこでも手を合わせればいいというわけではありませんよね?
どうしたらいいのでしょう。
私が死ぬまで供養にはいきたいです。
詳しく教えてくれると助かります。
今までは、初詣に行くお寺で1度お経を読んでいただきました。



Name: 天台沙門
Date: 2012/10/04(木) 06:03   No:4846
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Title: Re:水子供養    
Q1:供養の仕方教えてください。
A1:供養の本質は死者を記憶することです。ですから、お子様がたのことを覚えていてあげてください。日常生活の中では忘れてしまうこともあるでしょう。ですから、冬の正月・春の彼岸・夏の盆・秋の彼岸、そういった季節折々に想いだしてさしあげましょう。


Q2:高いお金を払って供養しなければならないのでしょうか?
A2:上記の通り、死者を記憶することが「供養」なのですから、はっきり申し上げて宗教的儀式は充分条件に過ぎず必要条件ではありません。ましてや布施料の問題ではありません。


Q3:お寺や神社があったらどこでも手を合わせればいいというわけではありませんよね?
A3:どこででも手を合わせてあげてください。「水子供養」を標榜する社寺以外でも大丈夫です。



生まれてくることができなかった子供や幼くして亡くなった子供に対する態度は大きく二分されます。ひとつは「生まれてこなかったこと」にする態度であり、もうひとつは「大人と同じにきちんとお弔いをする」という態度です。
どちらが正しいという問題ではなく、ものの考え方が違うというだけのことで、どちらも正しいのです。上記の通り、私は産まれてくることができなかった水子も、生まれてきた人と同じようにお弔いをすることをお勧めする立場です。



水子は祟る、といわれます。
「祟る」とはどういうことかというと「死者(=神霊)が生者にとって都合の悪いことをする」ということです。逆にいえば「生者にとって都合の悪いことの原因を死者(=神霊)に求める」場合に「祟り」という言葉を使うわけです。ちなみに「仏」は「祟り」ません。

多かれ少なかれ、生者は死者に一種の「申し訳なさ」をもちます。

自己や災害の場合に「サバイバーズ(生存者の)ギルト(罪悪感)」と呼ばれ、一般的には「もっと何かをしてあげられたのではないか」という感情であり、対象が水子の場合であれば「元気に産んであげられたはずなのに」という自責の念です。
こういった「申し訳なさ」つまり「祟りへの怖れ」は、「死」を受け容れたり乗り超えたりすることによって消えるといってよく、実は宗教的儀礼とは死の受容や超克のために行われるのですから、ここに祟り除けの祈祷が発生する理由があります。
ただし、大切なことは、死の受容や超克には「一定の時間」を「同様の体験・感情をもつ人と支えあう」ということが必要である、ということです。宗教的儀礼の本質は、この「一定の時間」を区切り、「同様の体験・感情をもつ人」と一緒に過ごす場を設けるという点にあります。
「水子供養」をする場合、上記のようなメカニクスを知っておくだけで「供養」の意味あいは変わってくるはずです。



ちなみに「供養」とは「供物を捧げること」です。
文化文明を問わず、お祭りの骨子は「神仏を招き、食事を共にすること」ですから、水子供養も、お子様がたと一緒に食事をしているつもりで想いだしてさしあげればよろしいかと存じます。


Name: 香織ママ
Date: 2012/10/16(火) 14:16   No:4858
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Title: Re:水子供養    
お返事遅くなり申し訳ありません。
何度も何度も読み返しました。

高いお金を払えば、供養に関して満足してしまい、足が遠のいてしまうような気がしました。
いつでもどこでも、手を合わせていいと知りうれしい気持ちになりました。
時間があるときは、立ち寄って手を合わせたいと思います。
水子供養については、知らないことが多く自分が間違ったやりかたをしているんじゃないかと常に思っていていましたが今回教えて頂いたことを参考にしたいと思います。
天国にいる大切な子供たちです。
ずっとずっと忘れたくはないです。
本当にありがとうございました。




Name: たかこ
Date: 2012/10/07(日) 13:07   No:4850
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Title: 元来の宗教    
私は仏教徒で育ってきたのですが
結婚後、婚家の宗教が金光教という新興宗教でした。
何代かまえの曾祖母が、改宗をしたそうで
主人の祖母も熱心に通ってたようです。
主人の父は全く興味がなく、もちろんのこと主人も
金光教には関わったことはありません、
祖母が亡くなったときは、金光教での葬儀をしたようですが・・・
長男の嫁なのでいつか、義父が何かあった時には
葬儀をしなければなりません
そのタイミングで元来の宗教に戻したいと思っていますが、元来の宗教が何だったのかわからなく困っています。
違う宗教にしては意味がないと思いますし
たぶん仏教のどこかの宗派だっただろうと思っていますが・・・
この場合どうしたらよいのでしょうか?
全く信仰していない宗教との関わりはもちたくありません。
義母は、祖父母の供養のことで、金光教にはその都度
お参りしているようですが、義父の代で改宗することには、賛成してくださっています。

またお墓は、主人の祖母が祖父(次男)が亡くなった時に
とくふうかい?という墓相学にのっとったお墓をたてたようで、
縁も由もない場所に、当時住んでいた場所から
方角がいいと言う墓相学にのっとり
建てたようです。
そのお墓に祖父母が眠っています。
改宗もそうですが、このお墓に対しても疑問をもっています
もしできることなら、改宗と同じタイミングで
お墓も先祖代々のお墓として、立て直すことができたら
イイなあと思っています



Name: 奇瑞
Date: 2012/10/08(月) 18:11   No:4851
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Title: Re:元来の宗教    
初めまして。こんにちは。どなたからも返事がないので、あくまでもひとつの考え方として簡単にお答えします。

まず、現在のご宗旨に既に、何かしらの拒否感があるのではないでしょうか。
例を挙げればこんな事があります。鎌倉時代から続いている宗教であるから正道、最近の新興宗教だから胡散臭い、人によっては邪教と間違った捉え方をされている方がとても多いのです。
日本で鎌倉時代に出来た宗教宗派でも、その当時は新興宗教に過ぎないわけです。何百年も続いていても、同じ宗教間でも、宗派間でも、一宗教施設間でも、教義自体異なったり、企業等の優良企業もあれば、そうでない企業が有ったりと同じ事なんです。別の例も挙げれば要するにブランドで中身をしっかり理解せずに、有名、無名だからと価値を決める事と同じです。

でも、宗旨替えそのものには問題はありません。お調べしてもともとのご宗旨がどうしても不明で、ただ宗旨変えはどうしてもと言われるならそれこそピンとくるところとしかここでは答えられません。仏教各宗派の寺院の方もご事情は汲み取ってくれると思います。たしかにスッキリしない気持ちも分かりますが、何代か前ということですので、当時のことをご存知の方もなかなかいらっしゃらないかもしれませんが。

この機会に今のご宗旨の宗教がどのようなものなのか、他にある宗教についても基本的なところで構いませんからどのような教義のものなのかお調べいただくのが良いかと思いますよ。元のご宗旨に戻すことにこだわるのにそんなに意味はもたないと思います。勿論、先祖代々の供養にも一切支障はありません。

あとは葬儀のため、各法要のためにだけ宗教があるわけではないですからね。もともとは一宗教の信仰と、死者の供養は全く分かれていたのです。お仏壇も信仰する仏様をお祀りするお寺のミニチュア版といったところです。死者の供養のためだけにあるのではありません。

良いご縁がありますように。


Name: 天台沙門
Date: 2012/10/09(火) 17:52   No:4852
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Title: Re:元来の宗教    
まず実務的な点から。

>元来の宗教が何だったのかわからなく困っています。
ご婚家のご親戚にお訊ねになるのが最善かと考えます。「祖父(次男)」とのことですから、ご分家さんと想像できます。したがって、義父さんの伯父(=祖父さんの長兄)方のご家系が菩提寺さんとおつきあいをなさっているのではありませんか?

>墓相学にのっとり建てたようです。
もし、金光教入信以前のご先祖のご遺骨も併せて納められているならば、改葬許可証から元の墓所が判明しますが、どうもご分家のようですからこの筋は難しいかもしれません。



以下、余談として。

>全く信仰していない宗教との関わりはもちたくありません。
これは、とても大切な観点です。

私は、某政令指定都市にある寺を預かっておりますが、私が寺に入ってしばらくしてから檀家さんにいわれた言葉があります。
「俺の親父はあんたのお父さんに世話になったから、あんたはちゃんと俺の面倒を見てくれよ」
私は僧侶の世襲制に(いま現在も)疑問をもっているうえに先代の実子ではありません。ですが、この言葉によって、日本の伝統における仏教(というか先祖供養=祖霊信仰)と僧侶の世襲の合理性を教えられました。普通の人々は、仏教の教義を信じているのではなく、仏式祭祀の継続性を信じているのです。強いて「教義」的に表現をすると、「自分が先祖を供養してきているから、自分も子孫によって供養されていくに違いない」という「信仰」によって「安心を得ることができる」のでしょう。
すなわち、自分が記憶しているように記憶されていくという保証が大切なのですから、非宗教的な儀礼に基づく死者の記憶という選択肢もありえますし、教義ではなく美しい儀礼をもつ宗旨によって死者を弔うという選択肢もありえるわけです。

はっきり申し上げて、仏教そのもの(=釈尊その人の思想と思考)には「先祖供養」という概念はありません。ですから、死者を弔うための宗旨宗教を選択する際の基準は、式典を主催する人物が信頼できるかどうかの一点に絞ってしまってかまわないと考えます。


Name: たかこ
Date: 2012/10/11(木) 22:21   No:4853
解決    削除 
Title: Re:元来の宗教    
奇瑞 様 
ご返信ありがとうございます。


天台沙門 様
ご返信ありがとうございます。
本家のお墓があるお寺は義母が知っているようなので
一度見に行ってみようと思っています。
ただ、本家(祖父の長兄の家)も、同じように
金光教に改宗していますので
昔のお墓がどうなっているのか?
わかりません。


元来の宗教を調べるのはなかなか難しいことですね
それにこだわるのではなく、信じられる方(お寺)を
見つけて、将来的に弔ってもらうことができるように
宗教を決めるというのも手だなあと思っています。
私自身、浄土真宗と真言宗の両親の家を見てきていますので
仏教はイイなあと思います。
いいお経を聞くと清々しい気持ちにもなりますし・・・
これから義母と主人と3人で
どう弔ってもらいたいのか
これから、息子にどう受け継いでもらいたいのか
相談していきたいと思います

元来の宗教に拘る必要はないということを
このページで知ることができて、本当に安心いたしました

お返事をいただき本当に感謝しております。




Name: くりちゃん
Date: 2012/10/04(木) 09:18   No:4847
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Title: 月命日    
3代前までのご先祖様の戒名を過去帳に記し、月命日が来るたびに毎月、過去帳を開いてお経をあげています。

しかし1日〜30日までに亡くなったご先祖様なら毎月、供養してあげられるのですが、31日になくなったご先祖様の場合、2ヶ月に1回しか過去帳が開けられません。

何だか31日が月命日のご先祖様に申し訳ないような気がするのですが仕方のないことなのでしょうか?



Name: 天台沙門
Date: 2012/10/05(金) 08:28   No:4849
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Title: Re:月命日    
いわゆる旧暦だと、大の月=30日・小の月=29日、なので伝統としては仕方ないことです。

「ご先祖さまに申し訳ない」とお考えでしたら、
(1)記載だけは30日に併せておいて、お勤めは31日にする
(2)30日以下にに余白があれば、そこを31日とする
の、いずれかを便法としてお採りになればよろしいかとおもいます。




Name: brasil 66
Date: 2012/09/30(日) 17:50   No:4839
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Title: 母方の姓を継いだ者が実の父母の墓も見ていけるでしょうか。    
私(男性)は母方の姓を継いでいますが、将来のことを考え、山奥にある母方の祖先の墓を私の家に近い霊園に移す計画を立てています。お寺は私の家からは離れていますが、代々檀家になってきたお寺に引き続きお世話になるのだろうと考えています。

さて、その墓の移転の件を老齢の父母と話し合っていたとき、「私達の墓はあと見てくれる者がいないので、永代供養の墓をどこかに造ろうかなあ。」と父母が言ったのを受けて、私の妻が「そんな寂しいこと言わないで。同じ霊園に墓を造ったら?まとめてお墓参りをしてあげるから。」と答えていました。ちなみにこの霊園には永代供養の墓はありません。

実は私には弟が一人おり、筋から行くと私の父母の墓を見ることになるわけなのですが、彼は現在関東地方に住み(私と父母は関西で、車で2時間離れています)、経済的に、家庭的に父母の墓を見ていく余裕がない様子です。父母はたぶん自分達の墓を見れそうにないので自分達だけが入る墓をと考えています。

姓に関わらず元は私が長男なので、父母の墓と、母方の祖先の墓(将来は私がこの墓に入ることになる)が同じ霊園にあればそれはそれでいいかなあと思ったのですが、いろいろ考えていると駄目なのでは・・・。位牌は私が持っていてもいいのだろうか、それなら仏壇が2つ?父母はどこかのお寺に属する必要があるのだろうか、継いでいくものがないな、霊園の年間の管理料金は営々と誰が払い続けていくのか、そうなると私の子孫に負担がかかるなあ、などの心配ごとが出てきました。

やはり、筋の上から私の弟が父母の墓の面倒を見ていくべきなのか、あるいはそれが無理そうなので永代供養の墓を選んだらよいのか。あるいは、姓が違う私の家で位牌を受け継いでいき、法要時にどこかのお寺に頼んで済ませ、霊園の管理料(5千円ですが)はこちらで受け継いでいくのがよいか。

私は仏事に弱いので、誰かご教示頂ければ幸いです。




Name: 天台沙門
Date: 2012/10/02(火) 20:47   No:4844
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Title: Re:母方の姓を継いだ者が実の父母の墓も見ていけるでしょうか。    
別稿でも述べましたが、私は墓の面倒をみる(=先祖供養をする)人がいる間は積極的に永代供養という方策をとる必要はない、と考えております。だいたいにおいて、その人による御両親を始めとするご縁者の先祖供養を、姓が異なるというだけの理由で妨げるということは理不尽すぎるでしょう。

>姓が違う私の家で位牌を受け継いでいき、法要時にどこかのお寺に頼んで済ませ、霊園の管理料(5千円ですが)はこちらで受け継いでいくのがよいか。

ご自身が、そう判断なされているならば、それが最善ではないでしょうか。
御両家のお位牌をご自宅にあわせてお祀りすることも、御遺骨をあわせて合祀することも問題はないと考えます。



私は某政令指定都市の駅の側の寺を預かっております。
この寺には、長男が戦死した家を長女が嫁ぎ先の姓のまま嫁ぎ先と併せ供養している、という事情が彫込んである墓所が複数あります。また、一箇所の墓所に二家の墓石が建っている場所もあります。
それだけではなく、過去帳を見てみると明治期の素封家階層では、分家の遺骨は当然としても嫁に行った先の母子(当然、異姓)の遺骨を引き取っていたり、家での雇用者(あかの他人)のみならず行路病者の遺骨(!)も埋葬していたりします。
したがって、歴史的文化的な伝統に則れば「姓が違うから埋葬や供養はできない」という言は根拠がない、というよりも単純な誤解に基づいていることがわかります。
そもそも伝統的な文脈での「家」とは「親戚一同」や「一族」という広めの意味なのですが、現在の「家」は「世帯」というきわめて限定された意味に使われています。言い換えると、仏事に代表される習俗での「家」とは、旧民法の「家」であり歴史的意味での「家」を意味する言葉であるにも関わらず、現在では現民法の「世帯」に対して使われているところに誤解の原因があります。

人と人との付き合いは、生者においては「相手の人格」が対象となり、死者に対しては「たましい」が対象となります。「供養」とは「死者を記憶する」ということであり、「人格」と「たましい」との違いは生身の肉体をもっているかどうかの違いだけです。生者の人格に対して「姓」を問題としないならば、死者の「たましい」に対しても「姓」を問題としないことが礼儀にかなうことになるでしょう。
姓が違うことをもって、親の介護を拒否する理由になる話になるでしょうか?
そういうことです。


Name: brasil 66
Date: 2012/10/04(木) 21:25   No:4848
解決    削除 
Title: Re:母方の姓を継いだ者が実の父母の墓も見ていけるでしょうか。    
ありがとうございます。大変参考になりました。
柔軟に考えるということですね。




Name: はるきち。
Date: 2012/09/26(水) 21:56   No:4833
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Title: 自分の先祖の仏壇について。    
初めてここに書き込みします。
今、私にはお姉ちゃんがいます。
姉妹二人です。
二人とも嫁にいきました。

しかし、嫁にいったものの
自分の親が亡くなった場合、
仏壇などはどう対処すれば良いのでしょうか?
苗字が変わったのにもかかわらず、自分の旧姓の
仏壇を自分の新居に持ってくるのもどうかと思いまして。

いい方法がありましたら教えて下さい。
やはり永代供養が無難なのでしょうか?





Name: 天台沙門
Date: 2012/09/27(木) 09:39   No:4834
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    
>苗字が変わったのにもかかわらず、自分の旧姓の仏壇を自分の新居に持ってくる

それでよろしいかと考えます。
あくまでも永代供養とは、法要を営んだり盆彼岸の墓参をする人がいなくなってしまう不安に対する保険のようなものですから、貴方がた御姉妹がご健在であるならば永代供養などお考えになる前に、ご自分たちのお手元に御位牌をお持ちになるべきです。
物理的な空間の事情で仏壇を置くことができないならば、位牌だけでも充分でしょうし、ひとつの仏壇にたくさんの方々の位牌をご安置してもよろしいでしょう。



記憶ベースで申し訳ありませんが、嫁入り道具のひとつに実家の位牌を持っていく風習とか、子供全員に位牌分けをする風習があったはずです。つまり「家」制度が厳然と存在していた時代においてすら、氏姓を越えて死者の追悼をすることが認められていたわけです。縁のある人の位牌を持ち込んではいけないとする理由が「苗字が違うから」というだけならば、それは単なる迷信と見做してかまわないでしょう。迷信を信じることも信仰の一種かもしれませんが、無駄に理由もわからない迷信を信じることは宗教的態度ではありません。

昨今の用語を使った比喩をすれば、「ターミナル」さえあれば「クラウド」に存在する「データ」にアクセスできるわけですが、「ターミナル」=「位牌や墓石」・「クラウド」=「あの世」・「データ」=「故人の人格」、と考えれば故人を追悼するには位牌などの道具立てが必要ということになり、やはり身近な方々の位牌はお手元に置くべきでしょう。


Name: はるきち。
Date: 2012/09/27(木) 12:28   No:4835
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    

お返事ありがとうございます。

新居に仏壇を持っていくのは大丈夫なのですね。
でも、私の旦那さんが長男なので旦那さんの両親が亡くなった場合、旦那さんの方の仏壇と自分ところの仏壇を同じ家に置いておくのは良くないと聞きました。
そういう場合はどうすれば良いのでしょうか?



Name: あきかぜ
Date: 2012/09/28(金) 04:55   No:4836
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    
凡人の意見で申し訳ありませんが、うちの場合は実家の仏壇や位牌は持ち込みませんね。

やはり「良くない」という迷信を信じる人間ですので。

うちの場合は永代供養を申込みます。

うちの主人の家の仏壇とうちの実家の仏壇や位牌が二つあるようでは、やはりご先祖様が窮屈だと思います。

特に主人の家の仏壇に嫁の実家のご先祖様の位牌があるなんて、ご先祖様がお互い遠慮しながらいることになると思いますので、そのようなことは断じてしません。

うちの檀那寺の住職様からも「そのようなことはしないで下さい。絶家になる家については永代供養を申し込んで下さい」と言われました。

自分達が生きている間は親や先祖の供養ができても跡継ぎがいなければいずれ絶家になります。

その時のことを考えたら、うちの場合は親が亡くなった時点で永代供養を申し込みます。

哲学的に云々言っても霊の世界を信じる者としては、主人の実家の先祖と嫁の実家の先祖の同居は良くないと考える立場の意見です。

うちの場合は親が亡くなった後は三男の嫁である姉がしばらく仏壇を引き取りますが、数年たてば処分するつもりのようです。
その後は永代供養となります。


Name: 風来坊
Date: 2012/09/28(金) 06:57   No:4837
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    
仏壇を仏(神仏)のためのものとする立場で考えれば、どこの家の位牌を置いてもよさそうですが、大切なことは亡くなったご先祖様がどのような意識で仏壇と向かい合ってきたかですね。

もし一系の「○○家」の仏壇として向かい合ってきたのであれば、それを変えればご先祖様は違和感を感じるでしょう。
家に仏壇を2つ置くことも同じです。
あくまでご先祖様がどう感じるかですね。

しかし家制度自体消滅する運命にありますし、女性の立場も変わって今は変革期にあります。
どのように変えるにせよ、それは充分ご先祖様に説明して、納得してもらう必要があると思います。


Name: はるきち。
Date: 2012/09/28(金) 12:20   No:4838
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    

ご返信ありがとうございました。
やはり、永代供養が無難なのですね(>_<)

いろいろ参考にしたいと思います。
ありがとうございました!


Name: 天台沙門
Date: 2012/09/30(日) 23:54   No:4840
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    
〈はるきち。〉さんが、当稿をご覧になるか不明ながら。

私は、婚家と実家との位牌/仏壇を一緒に(この場合、姓が異なっても)婚家で祀っても問題はないし、そのような場合に積極的に永代供養を選択すべきではない、という立場です。

寺を預かる住職としては「そのようなことはしないで下さい。絶家になる家については永代供養を申し込んで下さい」という考え方もあるでしょうが、しかし「先祖祭祀を絶やすべきではない」という祖霊崇拝という人類に普遍的な信仰感覚からは批判されるべき考えでしょう。

そもそも論として「家」=「姓」であります。
「墓」を継ぐために、なぜ同姓でなければならないかといえば「家」を継ぐために「姓」を同じくする必要があるからですが、それは「家」を継ぐためには、その「家」に属する人々の祭祀をする必要があるからです。
「家」を継ぐ(具体的には、祭祀権のみならず種々の相続権を明らかにする)には、象徴としての「姓」を継ぐ必要があったわけで、だからこそ必要があれば養子をとって女系の「姓」を存続させたわけです。極端な例ですが、男系を重視するうえ養子制度がない皇族の場合、東伏見宮家の祖霊祭祀のため久邇宮家から臣籍降下してまで東伏見の姓を名乗った方が青蓮院の東伏見慈洽名誉門主です。
つまり、祖霊祭祀=先祖供養を継続させるという考え方に則れば、優先されるべきは「姓の一致」ではなく「祖霊祭祀の継続」であることは明らかです。
したがって「子孫」が存在するかぎりは同じ「姓」を名乗って先祖供養を行うべきですし、事情により同じ姓を名乗れなくとも「子」や「孫」が先祖供養を行うべきも明らかです。つまり「姓が違う」という理由で、異姓の家系による祖霊祭祀を排除することは目的(=家)と手段(=姓)を取り違えた議論なのです。
よって、上記の「檀那寺の御住職」は「祀られるべき祖霊」を守ることを説かれるところを「祀る資格にすぎない姓」を守ることを重視なさるという錯誤を犯しておられるわけです。

ところで「先祖霊」についてですが、釈尊その人の立場と同様に私は霊魂の存在については不可知論の立場をとっております。つまり「ある」とも「ない」とも断定しない立場です。
しかし、釈尊の説かれた「縁起説」に従えば、先祖とは自分自身の生物学的な「因」であり「縁」であることは明らかで、ここに仏教儀礼に基づいて祖霊祭祀=先祖供養が行われる合理性をみることができます。当然ながら、先祖には男系女系の区別をする必要などなく、それどころか名も知らぬ数世代前の先祖にも想いを致すところが必要なのです。

「永代供養」は多くの場合で寺などの法人組織に祭祀権を委ねる行為なので、祭祀を行うことができる人がいらっしゃるうちご自身でなさるほうが筋というものでしょう。
ですから、永代供養の相談を受けた際には「姓がどうあれ、ご縁のあるご先祖さんであることには変わりないので皆さん一緒にお祀りしてあげるべきです」と、私は自分が預かっている寺の檀家さん(とその御親戚)にはお話をしております。


Name: あきかぜ
Date: 2012/10/02(火) 05:01   No:4841
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    
同じ仏教のお坊さんでも、同じ宗派のお坊さんでも人によって言うことがまちまちなので困惑しますね。

うちは絶家になった家のお位牌を我が家の仏壇に祀りたかったのですが、檀那寺の住職からは阻止されてしまいました。

でもその住職の言うことを無視して勝手なことをやると、わだかまりができるでしょう。

どうしたらいいんでしょうか?


Name: 風来坊
Date: 2012/10/02(火) 06:16   No:4842
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    
> はるきち。さん
トピをお借りします。

> あきかぜさん
仏教はもともと先祖供養とは関係ない教えで、先祖供養の考え方はありません。
日本の風習に合わせて、仏教宗派がそれぞれこじつけたものが日本仏教の先祖供養です。
だから宗派によって人によってまちまちです。

> どうしたらいいんでしょうか?
情報を集めて自分で価値判断するしかないと思います。


Name: しげ
Date: 2012/10/02(火) 12:41   No:4843
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Title: Re:自分の先祖の仏壇について。    
こんにちは。

あきかぜさんは、「断家になった家のお位牌を我が家の仏壇に祀りたかった」と思っておられるので、あきかぜさんのそのお気持ちを大事にされた方がいいのではないかと思いますよ。

これもひとつの考え方になると思いますが、あきかぜさんのその思いが御先祖様の思いかも知れないと私は思いますので、私だったら檀那寺の住職に「我が家はこのようにすることに決めましたので」と、笑顔でやんわりとそう伝えると思いますよ。




Name: 秋風
Date: 2012/09/23(日) 14:07   No:4827
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Title: 墓参りの意味がわからない。    
私は、墓参りは不要だと思っています。その代わり、自宅には仏壇があり、毎朝供え物をし、手を合わせています。亡き魂への思いが重要であり、なぜ抜け「殻」である骨にわざわざ手を合わせに行くのか不思議でなりません。仏教における墓参りの意義を教えてください。


Name: 天台沙門
Date: 2012/09/25(火) 00:55   No:4830
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Title: Re:墓参りの意味がわからない。    
まずは結論のみ。

家にある位牌は日常生活の中に存在していますが、墓は(多くの場合)日常の生活空間には所在していません。
つまり墓参をするということは非日常の体験をするということです。
宗教的な体験とは、つまるところ非日常を体験するということですから、ここに墓参の意義を求めることができます。
ひるがえって、自宅に仏壇を置いて位牌を合祀する習慣は、江戸時代の寺請制度によって普及したとされていますから、死者を追悼する道具立てとしては位牌よりも墓石が本来的なものであるといえます。



さて。
仏教における「墓参」の起源は、釈尊その人を偲ぶために釈尊の遺骨(=仏舎利)を祀った施設(=ストゥーパ:卒塔婆)を礼拝の対象としたことに始ります。インドの言葉で「ストゥーパ」、これが漢字表記されて「卒塔婆」、さらに簡略化されて「塔」となり現在に至ります。
したがって「塔」とは当初「釈尊を偲ぶための施設」であったはずなのですが、いわゆる大乗仏教の成立をもって「釈尊を象徴させる施設」へと転換します。すると仏教施設には塔が不可欠だ、ということになります。塔があれば釈尊がおわすということです。日本でいえば、飛鳥の法隆寺・大阪の四天王寺・奈良の薬師寺など、古典古代の寺院ほど立派な塔を所持しておられます。
(註1:いわゆる本尊としての仏像はインド=グリーク文化によって発生した。よって仏像によって表現される仏格は、ギリシア的神格と同様に人に対する救済や守護の機能を表現すると考えておいたほうが良い。)

ですが、立派な塔を立てることは経済的に難しいうえに、塔を建てることが功徳になるという思想に転化してきましたから、中世から近世にかけて低コストの一般市民にも建立できる五輪塔・板碑・板卒塔婆が普及するようになります。最終的には現在の和式墓石の形である直方体の石塔となります。つまり、墓参り=墓石を礼拝する、ということは広義の仏を拝むということなのです。基底にある気分は「塔」という形式をもって「死者を象徴する」ということといってよいでしょう。
(註2:日本の伝統的な宗教観である神仏習合の哲学のもとではカミとホトケは区別されない。ホトケと死者との関係については措くが、カミとホトケの本質は先祖霊であってホトケを礼拝することは先祖霊を礼拝することと同値なのだ。)


ところで。
日本人の宗教意識には「遺骨信仰」とでもいうべき感覚があります。それについて述べることは本旨でありませんが、散骨や分骨をすると死者が浮かばれないと感じる人が現在も少なくないことから日本人の遺骨信仰の根深さは証明できます。しかし、これに対して、遺骨を納める墓所と参拝対象となる墓所をきっちりとわける制度(両墓制)が存在していることも事実であり、両墓制度下では遺骨を納めない墓所を参拝対象とすることが知られています。つまり、日本人の信仰感覚では「遺骨が信仰対象である」場合と「遺骨は信仰対象にならない」場合とが存在しているのです。

貴方は後者の立場の信仰観をもっているわけです。

(註3:原始的な死霊への畏怖感が両墓制を司っていると想像できる。また、遺骨信仰は古代エジプトにおける転生信仰、またはキリスト教とイスラム教に共通する復活の概念の表象と想像できる。とすると、物質への執着を否定する仏教的思想と釈尊の御遺骨が分骨されたという実例からすれば仏教式葬儀では分骨・散骨は推奨されるべき行動といってよく、ここに仏教思想の特異性を観ねばならない。)



人類に普遍的な信仰観では、生者は「この世」に暮らし死者は「あの世」に赴くことになっています。「あの世」は神仏=Something th great の時空間であり、一般的には「天国」とか「極楽」とか「常世」と表現されています。実は、墓地は「あの世」であって「この世」ではないのです。宗教学的には、そこを聖地と呼びます。墓参は聖地に行くこと、「あの世」に行くことなのです。
仏教では「あの世」を「浄土」と称します。
「浄土」のうち、最も著名なものが「極楽」なのですが、極楽浄土は西にあるとされています。春分秋分には太陽が西に沈みます。極楽浄土の教主は阿弥陀如来であり、阿弥陀如来は「十方を照らす無量の光」と表現されていますから、真西に沈む太陽は阿弥陀如来と理解されてきました。そういった特定の日である春秋の彼岸に墓参をするのは西方極楽浄土に往生しているに違いない死者たちを追悼するに最適な日なのです。
「あの世」に往った人々に想いをいたすには、やはり自宅という日常空間では不充分でして、墓所という非日常空間に赴く必要があるのです。
(註4:その代わりに、冬の正月には歳神として、夏の盆には水神や穀霊として、先祖霊が帰ってきてくれる。春秋はこちらから先祖霊のそばに出向くのが礼儀というものだろう。)





余談ですが、仏教という信仰体系には「死者の追悼」という目的はありませんでした。日本の仏教の特徴といってよい「先祖供養」という行為が発生するのは、仏教が中国化する過程で儒教の影響を受けた中国化した仏教を、原始的な祖霊崇拝が「神道」として洗練化される途上の日本が仏教を導入したからです。
ちなみに、釈尊その人も「葬儀」を行っております(=キサーゴータミー説話)が、それは死者の追悼や鎮魂のためではなく、あくまでも生者の解脱(=受け容れ難い死の受容)を目的としてのことです。



Name: 風来坊
Date: 2012/09/25(火) 08:36   No:4831
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Title: Re:墓参りの意味がわからない。    
人間は生きている間は身体を自分だと思っています。
死んだ後身体はなくなりますが、中には自分のよりどころを必要とする死者がいて、その辺が墓標の起源だと思うのですね。

一方位牌を死者とする習慣もあって、どれにするか遺族が決めることはなかなかできないと思います。
周りのお墓がきれいに整っていて、自家のお墓が荒れているのでは、亡くなったご先祖様が寂しい思いをしているかも知れませんのでね。


Name: 秋風
Date: 2012/09/26(水) 21:23   No:4832
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Title: Re:墓参りの意味がわからない。    
天台様、風来坊様ありがとうございます。近々、墓参りに行こうと思います。この質問を投稿してから、不思議と亡き祖父母の夢を見ます。そう言えば昔私が不登校だった自分、自転車で一時間かけ、自転車のかごにお土産を積んで、毎週のように私のところへ来た祖父を思いだしました。「学校へ行け」というのでもなく、一時間ばかり話して、帰るだけ。祖母がお土産を持たせてくれることもありました。なんとなく来てくれるのが心強かったです。お墓にはその祖父母が眠ります。行く意味がわからないなどと思って足を遠退いていたことを後悔します。



Name: りょう
Date: 2012/09/22(土) 01:32   No:4825
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Title: 仏教で言う謙虚になるとはどういう意味でしょう?    
私は両親とほとんど暮らしていなかったので、絆の結び方を知りません。
親戚や祖母の家を転々としていたので、ほしい物はほとんど買い与えてもらっていました。
我慢すると言うことが出来ず、大人になってから浪費癖がついてしまいました。
今それを直すこと、主人との関係を修復することに自分と見詰め合って、自分が常に優越感を感じていたい
人より上だと見られたいと自分のことしか考えていなかったことに気づきました。
謙虚な気持ちを忘れなければいいと言われましたが、
謙虚になるとはどういうことでしょうか?



Name: 風来坊
Date: 2012/09/22(土) 07:55   No:4826
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Title: Re:仏教で言う謙虚になるとはどういう意味でしょう?    
謙虚になるというのはおごりがなくなることです。
おごりはエゴの二元性によるもので、優劣を比較する心から生じます。
ですから「謙虚」は優越も劣等もない心の状態(be)で、どうするこうするという行為(do)ではありません。

どうなれば謙虚になるかといえば、人を優劣で比較しない習慣を身につけることで、その究極がエゴを脱すること、すなわちさとりを得ることです。


Name: 天台沙門
Date: 2012/09/24(月) 12:08   No:4828
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Title: Re:仏教で言う謙虚になるとはどういう意味でしょう?    
『インディアナ=ジョーンズ/最後の聖戦』に「悔い改めた者は謙虚だ……悔い改めた者は謙虚にひざまずく……」と言う台詞(1:45”過ぎ)があります。非常にキリスト教的ではありますが、人の上の「何か偉大な存在=Something the great」を意識せよということです。その偉大な存在を「神」と呼ぶか「仏」と呼ぶか「真実」と呼ぶか、それはそれぞれの人の勝手な判断の結果でして、まあ宗教的には「謙虚」とはそういうことでしょう。

国語辞典的に「謙虚」とは「控え目で、自己を強く主張しないこと。自分の能力や地位におごらない素直な態度。ありのままに受け入れること。」だそうです。

私見ながら「仏教的謙虚」とは「価値観や先入観による判断をしないこと」と理解します。
その根拠は『般若心経』にある「行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」との文言です。これは「智慧を深く行じた時、認知の過程には固定した様態はないと理解したので、一切の苦厄から自由になった」ということでして、仏教の本質を「般若=智慧の実践」とした場合、「仏教的智慧とは、何事/何物かにとらわれない自由な境地を保つこと」と言い換えることができるからです。

「謙虚」と「般若」とを同値に扱う妥当性についてですが、辞書における「ありのまま」とは、対象となる事/物をあくまでも客観的に認識することですから、これは仏教における「とらわれない」という感覚すなわち自分の私慮や世間の常識という価値観による認識を排除することと響きあいます。ですから、仏教的には「謙虚」とは「般若」の一部または六波羅蜜の「忍辱」そのものといって間違いはないでしょう。

さらにいえば、仏教における「覚り/悟り」は、一定の状態を示すものではなく「覚り/悟り」を得ようとする営みそのものです。この観点からは「謙虚」とは、謙虚であることではなく、謙虚とは何かを考え続け、謙虚であろうとする営みそのものであるといえます。


Name: りょう
Date: 2012/09/24(月) 22:47   No:4829
解決    削除 
Title: ありがとうございます。    
風来坊様、天台沙門様、
非常にわかりやすい解説をありがとうございます。

確かに優劣で何事も判断していたように思います。
気をつけたいと思います
すべてをただ受け入れるということですね。

般若心経はよくあげているにもかかわらずその意味をよく知りませんでした。
偉大な存在を意識せよ
心にストンときました。
頑張れそうです。
ありがとうございます!





 
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