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  護身法

[5039] 勇気
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[5044] 天台沙門

Name: 勇気
Date: 2013/10/07(月) 00:08   No:5039
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Title: 護身法    
天台宗の僧侶の方に護身法の伝授をお願いしたところ、その方が作成されたDVDに護身法が収録されているのでそちらを見て学んでくださいと言われました。
「直接の伝授でないと有効ではないのでしょうか?」、とお訊ねすると、「血脈に沿っておれば直伝でなくても有効と言う事になります」と返事をもらいました。

これで習得しても問題ないのでしょうか?



Name: 天台沙門
Date: 2013/10/09(水) 10:12   No:5042
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Title: Re:護身法    
某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。

私はお勧めしません。
私自身は街寺で顕教ベースの先祖回向を主たる法務としている者ですから、密教に関しては叡山での四度加行(密教の基礎)を終えたばかりの初行者です。それでも、法儀の必要上から伝法を受けていない修法を儀軌(テキスト)を見ながら行うこともあり、そのたびにうしろめたさを感じます。
であるからこそ、密教の法儀は面授すべきだし面受されるべきと考えます。



以下は、余談です。

以前、比叡山の行者さんに伝法をいただいたとき、事務方の仕事の一環として動画撮影をしたのですが、その際に「記録として撮っているのはわかるし、それを観て所作を確かめるのもよい。しかし眺めるだけで伝法されたと勘違いされては困る」と軽くお叱りを受けました。

千日回峰行者さんに、修法の心得をうかがったところ「儀軌を見ながらお勤めするようでは駄目です。だってマニュアルを読みながら誰かにお願い事はできないでしょう」とのことです。

四度加行で護身法を授かった際「本来、密教の修法の時だけに行えばよく、顕教の読経の時にまですることはない」との口伝をいただきました。でも、儀式の都合から行っています。


Name: 勇気
Date: 2013/10/09(水) 12:19   No:5043
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Title: Re:護身法    
ご返事ありがとうございます。
荘厳行者法は僧侶方にとっては儀式を修するにあたり仏様と向き合うための大切な修法だと思います。
在家にとっては霊的なものから身を守るための一種のおまじないような感覚でしょう。
現在、僧侶から伝授された在家の方がお金をとって同じ在家に護身法を教えている。
これについてはどう思っていますでしょうか。

私は東密の半俗半僧の方に護身法の印、真言、観想、そして心得を教えてもらいました。面授口訣ではありませんので後ろめたさは当然感じますが、まじないとして勤行や霊山を登る際に唱えています。


Name: 天台沙門
Date: 2013/10/11(金) 09:10   No:5044
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Title: Re:護身法    
「僧侶から伝授された在家の方がお金をとって同じ在家に護身法を教えている」件については、伝統信仰における御師先達が一般信仰者に対して行うことと同等ですから非難すべきことではないと感じます。
ただ、密教修法のあるべき姿についての見識がどうか、その方に伝法なさった僧侶さんがどうお考えなのか、その金額が妥当なのか、等の具体例については批判の余地があるでしょう。(註:ここでの批判とは“現実相において事理が一致しているか”の検証ということ)



キーワードは「半僧半俗」という在り方です。
厳密にいえば日本の伝統仏教の僧侶の大多数が「半僧半俗」です。肉食妻帯をしているという点では俗人ですが、宗教儀礼の専門家という点では僧侶です。これは現実がそうであるというだけで善悪や好悪といった問題ではありません。
なぜそうなったのか? という点は日本の宗教文化史をふまえた議論が必要になるので詳しくは述べませんが、伝統信仰のなかでは「僧侶」よりも「御師」や「先達」などと呼ばれた半僧半俗の方々が多くの役割を担い続けてきていることは事実です。大乗教典における『維摩経』の存在、また近現代において著名な仏教学者が必ずしも僧侶ではないということも半僧半俗ということの意味を暗示しているといえます。
現代では、そういった半僧半俗の存在のなかでも特に正統的/正当的な養成課程を経てきている者を「僧侶」と呼んでいるとしたほうがすっきりすると考えられます。スポーツをもって例えれば、僧侶=プロチームの選手・御師先達=会社学校チームの選手・一般信仰者=草チームの選手、といったところでしょうか。



いわゆる一神教では「神と個人とが一対一で向きあうべき」という立場をとると、半僧半俗というか非僧非俗というか、プロテスタントやイスラムのように専門的聖職者を必要としなくなります。日本の仏教も鎌倉仏教以降この傾向(一神教的傾向と非専門的聖職者の発生)があるとおもわれますが、一神教においては戒律の遵守が信仰上の要点となる点が日本の仏教と大きく異なります。
戒律という観点では、日本では信仰という場における戒律が不問に付されているに対し、芸能という場において「型」という概念で厳守されていることが指摘されます。ところで、芸能という場での「型破りと型無し」の区別は、いわゆる「守破離」の「守」が成っているかどうかによるのですが、これは「なぜそうなのか?」という型の本当の意味を会得(=身口意三業の一致)しているかどうかによると言い換えられます。
いうまでもなく、密教の修法そのものが身口意三業の一致のための修行法です。ならば、正規の伝法を受けて「テキトー」にするよりも、身口意が整うように意識した「ものまね」の方がよほどに成仏に近づくに違いないと、私は考えます。





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