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Name: NK
Date: 2013/11/26(火) 21:00
No:5045
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Title: 葬儀が終わってからの気持ちの持ちよう
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先日祖母が急逝致しました。 私は1人暮らしのため、死に目には会えませんでした。 祖母が入院してから半年、会えたのは3度ほどだったと思います。 大好きな祖母ですが、恥ずかしい、という馬鹿な気持ちがあったためになかなか病床の祖母に話しかけることもできませんでしたし、亡くなったという一報を聞いても何故か涙一粒さえ出ませんでした。 自宅に戻ってからもやはり恥ずかしさからか祖母の亡骸に伝えたいこともうまく言えれませんでした。 自分がどれだけ愚かかわかりました。 しかし、祖母も記憶が怪しくなってきたころ、DVDプレイヤーと祖母が好きだった演歌歌手のDVDを送りました。祖父が見せると目を見開いて涙を流した、と聞いたときは送ってよかった、と思いました。
孫代表で祖母の亡骸に数珠を掛けたのですが、その時に我慢していたものが全て流れて大声で泣いてしまいました。 出棺の際には祖母の好きだったピンクの花を顔の周りに置けたことは本当に良かったな、と思っています。 あまり話しかけてあげれなかったのは事実ですが、祖母がピンクの花が好きだったことは私しか知らなかったと思うのでこのことがせめてもの償いでした。
葬儀が終わってから従兄弟が『亡くなる時間直前に目が覚めたし、葬儀中にはおばあの気持ちが自分の中に入ってきた気がする』と言っていましたが私は何も感じることができませんでした。 親族には『お前を1番可愛がっていた』と言われましたが、こんな自分が恥ずかしくてしょうがありません。
1人暮らし先に帰る際、祖母の遺品の一つである、祖母が作ったちぎり絵をもらいました。 この遺品を目印に祖母はまた会いに来てくれるでしょうか。 『いってきます』や『ただいま』のあいさつ、時にはこの遺品に手を合わせてもいいものでしょうか。
日常に戻ってから、祖母がいない、ということを考えると涙が止まりません。 気持ちの整理ができず乱文になってしまいました。 ここへ書き込みしていいものか迷いましたが、よろしくお願い致します。
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Name: 天台沙門
Date: 2013/11/30(土) 12:27
No:5046
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Title: Re:葬儀が終わってからの気持ちの持ちよう
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。
結論らしきものを最初に申し上げます。 悲しいときは泣いてください。嬉しいことがあれば、故人と一緒に喜んでいただくつもりで喜んでください。世の中から預かっているご自身の役目はきっちりとお務めください。
>大好きな祖母ですが、恥ずかしい、という馬鹿な気持ちがあったためになかなか病床の祖母に話しかけることもできませんでしたし、亡くなったという一報を聞いても何故か涙一粒さえ出ませんでした。 自宅に戻ってからもやはり恥ずかしさからか祖母の亡骸に伝えたいこともうまく言えれませんでした。
ほとんどの場合、死の準備はできません。かつて人の死は生活の中にあったので少なくない他者の死に立ち会う経験が与えられていましたが、現在では死は医療の延長や報道の中にしか存在しません。現実感のない「死」に対し、その場で何もできないほうが自然です。
>従兄弟が『亡くなる時間直前に目が覚めたし、葬儀中にはおばあの気持ちが自分の中に入ってきた気がする』と言っていましたが私は何も感じることができませんでした。
それは、貴方と従兄弟さんとのはものの感じ方が違う、というだけのことです。違うことと悪いことは別の次元の問題です。何を恥じることなどありません。
※
葬儀というものは「通夜とセットの一日」だけのことではありません。一定の時間を使って死者を弔うための「儀式」の総体です。どういうわけか、人は時間を区切らねば生きていけません。特に、生死という重要なことについては、文化的に色々な儀礼がつくられてきています。 一口に「葬儀」といっても、実は色々なことをしています。 (1)ご遺体をどうしよう。 (2)死者の霊魂をどうしよう。 多くの場合、葬儀はこれでお終いという印象を持たれますが、本当はここから先が葬儀の始まりになります。 (3)人はタマシイをもって生きているわけですが、自分の知っているタマシイ・大切なタマシイがこの世からあの世に行ってしまうと生き残った者のタマシイは傷つきます。ですから、死をうけいれる・死をのりこえる・いやす・いやされる、ことが必要です。 (4)その人がいることが当たり前だった生活を、いないことが当たり前の生活に組み換えていかねばなりません。 そういったことをしながら、世間から預かった務めは果たさねばなりません。 ということは、お弔いは短期で終わるというのではなく、ある程度ゆっくりとしたものと考えておくほうが無理がありません。その一定の期間が「お弔い」であり、お弔いの節目節目も葬儀であり、お弔い全体も「葬儀」なのですね。 そういった理由から、私は「三回忌までのまる2年を使って(変な表現ですが)故人のいらっしゃらない娑婆のくらしに慣れていきましょう」と通夜葬儀の時にお話をしております。
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Name: 勇気
Date: 2013/10/07(月) 00:08
No:5039
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Title: 護身法
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天台宗の僧侶の方に護身法の伝授をお願いしたところ、その方が作成されたDVDに護身法が収録されているのでそちらを見て学んでくださいと言われました。 「直接の伝授でないと有効ではないのでしょうか?」、とお訊ねすると、「血脈に沿っておれば直伝でなくても有効と言う事になります」と返事をもらいました。
これで習得しても問題ないのでしょうか?
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Name: 天台沙門
Date: 2013/10/09(水) 10:12
No:5042
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Title: Re:護身法
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。
私はお勧めしません。 私自身は街寺で顕教ベースの先祖回向を主たる法務としている者ですから、密教に関しては叡山での四度加行(密教の基礎)を終えたばかりの初行者です。それでも、法儀の必要上から伝法を受けていない修法を儀軌(テキスト)を見ながら行うこともあり、そのたびにうしろめたさを感じます。 であるからこそ、密教の法儀は面授すべきだし面受されるべきと考えます。
※
以下は、余談です。
以前、比叡山の行者さんに伝法をいただいたとき、事務方の仕事の一環として動画撮影をしたのですが、その際に「記録として撮っているのはわかるし、それを観て所作を確かめるのもよい。しかし眺めるだけで伝法されたと勘違いされては困る」と軽くお叱りを受けました。
千日回峰行者さんに、修法の心得をうかがったところ「儀軌を見ながらお勤めするようでは駄目です。だってマニュアルを読みながら誰かにお願い事はできないでしょう」とのことです。
四度加行で護身法を授かった際「本来、密教の修法の時だけに行えばよく、顕教の読経の時にまですることはない」との口伝をいただきました。でも、儀式の都合から行っています。
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Name: 勇気
Date: 2013/10/09(水) 12:19
No:5043
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Title: Re:護身法
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ご返事ありがとうございます。 荘厳行者法は僧侶方にとっては儀式を修するにあたり仏様と向き合うための大切な修法だと思います。 在家にとっては霊的なものから身を守るための一種のおまじないような感覚でしょう。 現在、僧侶から伝授された在家の方がお金をとって同じ在家に護身法を教えている。 これについてはどう思っていますでしょうか。
私は東密の半俗半僧の方に護身法の印、真言、観想、そして心得を教えてもらいました。面授口訣ではありませんので後ろめたさは当然感じますが、まじないとして勤行や霊山を登る際に唱えています。
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Name: 天台沙門
Date: 2013/10/11(金) 09:10
No:5044
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Title: Re:護身法
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「僧侶から伝授された在家の方がお金をとって同じ在家に護身法を教えている」件については、伝統信仰における御師先達が一般信仰者に対して行うことと同等ですから非難すべきことではないと感じます。 ただ、密教修法のあるべき姿についての見識がどうか、その方に伝法なさった僧侶さんがどうお考えなのか、その金額が妥当なのか、等の具体例については批判の余地があるでしょう。(註:ここでの批判とは“現実相において事理が一致しているか”の検証ということ)
※
キーワードは「半僧半俗」という在り方です。 厳密にいえば日本の伝統仏教の僧侶の大多数が「半僧半俗」です。肉食妻帯をしているという点では俗人ですが、宗教儀礼の専門家という点では僧侶です。これは現実がそうであるというだけで善悪や好悪といった問題ではありません。 なぜそうなったのか? という点は日本の宗教文化史をふまえた議論が必要になるので詳しくは述べませんが、伝統信仰のなかでは「僧侶」よりも「御師」や「先達」などと呼ばれた半僧半俗の方々が多くの役割を担い続けてきていることは事実です。大乗教典における『維摩経』の存在、また近現代において著名な仏教学者が必ずしも僧侶ではないということも半僧半俗ということの意味を暗示しているといえます。 現代では、そういった半僧半俗の存在のなかでも特に正統的/正当的な養成課程を経てきている者を「僧侶」と呼んでいるとしたほうがすっきりすると考えられます。スポーツをもって例えれば、僧侶=プロチームの選手・御師先達=会社学校チームの選手・一般信仰者=草チームの選手、といったところでしょうか。
※
いわゆる一神教では「神と個人とが一対一で向きあうべき」という立場をとると、半僧半俗というか非僧非俗というか、プロテスタントやイスラムのように専門的聖職者を必要としなくなります。日本の仏教も鎌倉仏教以降この傾向(一神教的傾向と非専門的聖職者の発生)があるとおもわれますが、一神教においては戒律の遵守が信仰上の要点となる点が日本の仏教と大きく異なります。 戒律という観点では、日本では信仰という場における戒律が不問に付されているに対し、芸能という場において「型」という概念で厳守されていることが指摘されます。ところで、芸能という場での「型破りと型無し」の区別は、いわゆる「守破離」の「守」が成っているかどうかによるのですが、これは「なぜそうなのか?」という型の本当の意味を会得(=身口意三業の一致)しているかどうかによると言い換えられます。 いうまでもなく、密教の修法そのものが身口意三業の一致のための修行法です。ならば、正規の伝法を受けて「テキトー」にするよりも、身口意が整うように意識した「ものまね」の方がよほどに成仏に近づくに違いないと、私は考えます。
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Name: いわおとなりて
Date: 2013/09/25(水) 20:47
No:5035
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Title: 本門佛立宗とのつきあい(先祖遺骨は納骨堂)
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はじめまして。本門佛立宗との関りを絶ちたいのですが、少々事情が込み合っており苦慮いたしております。長文ですが、おつきあい願います。祖父が建てたお墓(禅宗)がある寺院には納骨堂がなく、父の他界をきっかけに、母は永代供養(納骨堂)が出来る寺院を探し、知人から本門佛立宗の納骨堂の件を聞き、改宗し、先祖の遺骨を移しました。この決断は、私が一人娘で当時遠方に住んでいた等、母が悩んだ末に、一人で決断、実行しました。実はこのお寺の事はほとんど知らずに、永代供養(納骨堂)してもらえる、比較的費用が安い等、便宜上の選択でした。こういう風に選ぶのは、信徒の方々からすれば、不愉快であったかもしれません。しかし、老いた母には一刻も早く動かねばという思いでの決断。その母が他界し、私が喪主となり、葬儀準備をしましたが、その際に本門佛立宗お抱えの葬儀屋さんから「喪主も入信」することが前提という流れで話が進み、葬儀準備の慌ただしさの中、入信させられました。母もお墓を移してから、この寺院が前のお寺と様子が違うと気がついたようです(後の祭り)。信徒さんが非常に積極的に寺の運営に関る(ボランティア等)宗派で、現世利益主義(?)であるようです。母が他界してからは、我が家の担当(同じ地区:檀家の連絡係り)の方から、お寺行事に定期的に誘われたり(ほとんど全て参加していません)、憂鬱になります。この状況は母が思い描いていた「永代供養」の形とはかけ離れたもの。毎年、お布施、維持費等で5万程納めています。それも母が存命の時は2万円程であったのに、私の代になってから5万になりました。一か月にすれば五千円程ですが、なぜこうも金額が変わったのか等、聞けずにいます。その母の知人(担当者)も高齢で、今の私の気持ちを受け止められるか疑問。私と夫はこの寺院で骨を埋めるつもりはなく、私自身は辞める手続きを今すぐ進めたいくらいですが、家族の遺骨がその寺院にある以上、辞めたあとどのように関って(永代供養の維持費など)いけばよいのか、または、私は辞めずに(事を荒げずに)今後もひっそりと事務的に費用の支払いをすればよいのか、困っています。私達が近くにいなくても大丈夫なように、母が決めた永代供養。出来れば、今から宗派に関係ない納骨堂に移したいくらいです。家の仏壇で、毎日の手元供養それだけで十分だとも思います。仏壇の中央にある御本尊(掛け軸みたい)を見ると、複雑な気分です。助言よろしくお願いいたします。
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Name: 天台沙門
Date: 2013/10/07(月) 08:50
No:5041
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Title: Re:本門佛立宗とのつきあい(先祖遺骨は納骨堂)
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。
拝読したところ「私が一人娘で当時遠方に住んでいた等」とのことですから、現在も貴女がお住まいの場所と納骨堂のある寺院の場所とが離れていると推定できます。よって現実的対応としては「母の遺骨を住まいの近所の墓地に移したい」との理由をもって、その納骨堂から御遺骨を引き取ることがよろしいと思われます。 ただし、改葬手続においては (1)受入先の墓地・納骨堂が決まっていること (2)納骨堂の管理者から遺骨の所在の証明を得ること (3)現在の納骨堂のある自治体に改葬許可申請をすること (4)自治体の改葬許可を得ること (5)実際に遺骨を引き取り新しい墓所に納めること と、いう段階を踏む必要があります。手続そのものは受入先に関わる石材店が代行してくれますが、改葬にあたり離檀料を請求されるという問題をよく聞きます。これは御母堂が納骨堂の契約をなさった際の書面になにかの記述があるかもしれませんからお確かめください。
以上、御参考までに。
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Name: わぐ
Date: 2013/09/23(月) 22:16
No:5032
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Title: 仏壇
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先日、母が亡くなり仏壇の購入を考えています。母は一人娘だった為に、両親が亡くなってからは誰も住んでいない実家に毎週行っては、新しいお花を持って行って仏壇にお供えしたり、実家の管理をしていました。 母が亡くなり葬儀の際、父方の実家の檀家に入りお葬儀をお願いしたい旨のことを住職に伝えたところ、今は檀家を増やしていないと言われまして母方の菩提寺に入檀しました。お金がもったいなくて考えたわけではないのですが、同じ菩提寺ですし、母方のご先祖様のお位牌を全て繰り出し位牌にして、母が毎週お参りしていた仏壇を私の家で使うのはまずいのでしょうか?このほうが母も喜ぶと思うのですが。。。
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Name: 天台沙門
Date: 2013/10/07(月) 08:11
No:5040
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Title: Re:仏壇
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。
大切なことは、生者が死者を記憶する、ということです。その方法がどの宗旨の儀式や思想に基づくかということは二の次でかまわないと考えます。 ですから、お考えの通り(亡き御母堂がなさっておられた通り)に、母方の御先祖のお祀りをしていただくことが善いとお勧めします。
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Name: ららべる
Date: 2013/10/05(土) 01:17
No:5037
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Title: お寺での座り方について
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よくお寺の護摩に参加します。 正座が本当に苦手で、護摩の最中は痛くてお祈りどころではありません。 お祈りに集中したいので、あぐらや半跡朕座でお祈りをしても仏様には失礼に当たらないでしょうか? (周りの参拝者からは白い目で見られるのは当然ですが。。。)
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Name: 水波坊 [URL]
Date: 2013/10/05(土) 11:47
No:5038
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Title: Re:お寺での座り方について
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どうぞ胡坐で。 我慢大会じゃないんですし、集中できる座り方で座られたら結構だと思います。ただ、背筋は伸ばせる格好でのほうが良いとは思うのですが、まぁそれは、尻の下に座布団で敷けば大丈夫かと。
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Name: USA
Date: 2013/09/25(水) 03:31
No:5034
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Title: 在家得度の戒名について
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始めまして。 どなたかご存知の方がいらっしゃったら教えてください。 半年前に父親が突然他界しました。生前に小豆島八十八箇所霊場の中のお寺にて、昔在家得度を受けたので戒名をもう持っているので 死んでから戒名をつけてもらうことは必要ないと言っていたのですが そのお寺に尋ねる以外に、父親の戒名を調べる手立てはないものでしょうか。わけあって、そのお寺にあまり連絡をいれたくありません。
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Name: 天台沙門
Date: 2013/09/29(日) 17:26
No:5036
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Title: Re:在家得度の戒名について
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。
戒名(法名)をお授け場合、その事を証する文書(切紙とか血脈などといいます)をご本人にお渡しします。ですから、ご父君の遺品を丁寧にお探しいただくことが第一でしょう。 もしかすると、そのお寺の本山または包括宗教法人に在家得度(授戒式)の記録が存在する可能性があります。あくまでも、その授戒式に大本山○○寺とか○○宗が関わっていての場合で、その寺独自による授戒ですと上部機関に記録は残っていないとおもわれます。
以上、ご参考までに。
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Name: JIN野
Date: 2013/09/19(木) 11:01
No:5027
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Title: 改宗と改葬について
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名古屋に13年前に家を建て故郷から母を呼び寄せ女房、娘と暮らしています。お墓は故郷の三重県にあり、お寺様は浄土宗です。 父の時代に建墓して父、祖父、祖母、叔母、息子が入ってます。子供は娘2人のため、私達夫婦亡き後に無縁仏になってしまうのはご先祖様に申し訳なく、将来を考えると名古屋にお墓を移そうと考えてます。幸い、近くの天台宗のお寺様の敷地内で檀家になることの条件でお墓の分譲をしています。 私としては、縁もゆかりもない見知らぬ郊外の土地にお墓を移すより、近所の方が良いような気がします。宗派を変えることはご先祖様とって如何なものでしょうか? 御教示をお願いします。
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Name: 天台沙門
Date: 2013/09/23(月) 17:17
No:5031
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Title: Re:改宗と改葬について
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。
Q1:郊外の土地にお墓を移すより、近所の方が良いような気がします。 A1:私も墓は近いところをお勧めします。ただ、名古屋から三重県内までの移動時間と手段が不明ですが、「墓参」という義務感ではなく「故郷」という感じで行くことのできる場所なら、かえって移すまでもないのかなとも思います。
Q2:宗派を変えることはご先祖様とって如何なものでしょうか? A2:難しい問題です。宗旨を変えると亡くなった方がどうなったかという考え方も変えねばならず、それにともない生きている側の考えも変えねばならぬ可能性がありますから。 例えば「亡くなった方は今どうなっているか?」と考えたとき、浄土教的には「阿弥陀如来の導きによって極楽往生している」のですが、密教的には「大日如来という宇宙の真理と一体化して成仏している」わけですから、今まで「極楽」という「ここではない場所」にいたご先祖さんが、どこでもない宇宙全体という「ここ」に存在することになってしまうのですね。 しかし「ご先祖さま=死者」の立場からしてみると、自分という存在を覚えていてくれればそれでよい、というところではないでしょうか。「死者の居場所」に関していえば「あの世」にいることは確かでしょうが、そこを「極楽」と呼ぼうが「宇宙」と呼ぼうが「天国」と呼ぼうが、それは生者の宗教上・信仰上の都合にすぎないはずですから(と、私は信じています)。
以上、ご参考までに。
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Name: JIN野
Date: 2013/09/25(水) 00:01
No:5033
| 解決
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Title: Re:改宗と改葬について
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天台沙門様へ ご教示ありがとうございました。
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Name: MT
Date: 2013/09/17(火) 20:56
No:5023
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Title: 不動明王様の御真言について
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はじめまして、MTと申します。 私は生まれたときより日蓮系の新興宗教の会員です。
最近、天台宗の行者であられる酒井雄哉と光永覚道の両大阿闍梨に魅入られ、お不動様の御真言(慈救呪)と光明真言を毎日唱えさせていただいております。
実家が熱心な新興宗教の信者のため、両親に罪悪感を感じつつ、出勤と帰宅の岐路のときに唱えていますが、やはりこういった軽い感じの唱え方は間違いで、お寺で作法に則った唱え方をしないと罰を受けますでしょうか?
密教の知識がほとんどないので、金剛合掌で唱えていますが間違ってますでしょうか?
また、お不動様の御真言で火界呪がありますが、この御真言は天台宗ではどのような発音で読み、どういったときに唱えるものなのでしょうか?
ご教示頂けたら幸いです。 宜しくお願いいたします。
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Name: 天台沙門
Date: 2013/09/18(水) 11:38
No:5024
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Title: Re:不動明王様の御真言について
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を主とする者の立場から。
大前提として、密教法儀は師匠から伝法を受けて始めて修法すべきもの、ということをご理解ください。すなわち、師匠や流派によって真言と契印を始めとする修法の内容は変わりうるということ、また行者の階位により行うべき修法が異なってしかるべきということです。 私自身は街寺で檀家さんの先祖供養を主たる法務としておりますので、密教修法については節分護摩供と施餓鬼光明供を行うだけの初行者です。あくまでも、その範囲でのご回答ですのでご了解ください。
さて。 ご真言を「出勤と帰宅の岐路のときに唱えています」とのことですが、罰を受けるどころかきちんと功徳の得られる修行法です。ご安心ください。(余談ですが、罰をあてることの有無が神仏の絶対的な相違です。) そもそも、天台における修行の作法は四種三昧といいまして、常座三昧・常行三昧・半行半座三昧・非行非座三昧に分類されていますが、日常の行動のなかで行法をすることが非行非座三昧にあたります。酒井雄哉師や光永覚道師が行われている回峰行が非行非座三昧ですね。ちなみに、常座三昧=座禅止観・常行三昧=歩行しながらの読経と念仏・半行半座三昧=行道と着座を織り交ぜた読経、というものがそれぞれのおおざっぱな内容です。一般的な寺院法要は半行半座三昧に類するといってよいでしょう。 なお、密教法儀に関してですが、伝法されていない印を結ぶよりは普通の合掌をお勧めします。私自身は慈救咒=索印・光明真言=金剛合掌を用いておりますが、そういう僧侶もいるというだけのことです。また、火界咒については伝法を受けておりませんのでお答えができません。あしからずご了承ください。
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Name: MT
Date: 2013/09/18(水) 19:46
No:5025
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Title: Re:不動明王様の御真言について
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天台沙門様
大変わかりやすく、詳細に教えてくださり誠にありがとうございます。
「罰を受けるどころかきちんと功徳の得られる修行法です」 御真言と印は、師僧より伝えられない限りみだりに結んだり唱えてはいけないと聞いていたので、天台沙門のご教示いただき安心しました。
日蓮上人の教学を勉強するなかで、摩訶止観に説かれる四種三昧も知識だけありますが、まだまだ天台宗の教義に疎いのでこれからどんどん勉強させていただきます。
誠に無礼とは存じますが、もう2、3の質問をさせてください。
来月の28日にお不動様の縁日ということもあり、目黒不動尊へ参詣させていただき、護摩祈願をしていただこうと思っています。 なにぶん、私の33年間は神社仏閣への参詣厳禁という環境に身をおいていましたので、初めてのことで護摩祈願をしていただく上での作法などはございますでしょうか?
目黒不動尊にはお不動様以外にも諸尊様がおられます。私が暗誦できるのは、慈救呪、光明真言、法華経方便品の十如是までと自我偈だけで、大日如来様や阿弥陀様に礼拝するときは、光明真言を唱えればよろしいでしょうか?
最後に、千日回峰行を満行された行者様は、東京にいらっしゃいますでしょうか?天台宗の信者でもないのに無礼とは存じているのですが、どうしてもお加持を受けたく思っています。お加持を受けられないまでも、大行満という尊いお姿を拝したい気持ちです。
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Name: 天台沙門
Date: 2013/09/20(金) 06:45
No:5029
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Title: Re:不動明王様の御真言について
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「御真言と印は、師僧より伝えられない限り」 この場合に問題となるのは印の結び方でしょう。真言については、色々なご寺院(例えば三十三箇所)の本堂にご本尊のご真言を記した札があったりするので、伝法を受けていなくとも唱えてよいと考えられます。
Q1:護摩祈願をしていただく上での作法 A1:姿勢を正し自分が修法をしているつもりで祈願の内容を念じる、ということでしょう。ところで、行者さんによっては一緒に経文や真言をお唱えすることを断る方がいらっしゃいますので、作法については現地であらためてお訊ねください。
Q2:大日如来様や阿弥陀様に礼拝するときは、光明真言を唱えれば A2:天台宗の勤行という観点からですが「開経偈・自我偈・宝号(南無大日如来・南無阿弥陀如来)・法華成仏偈」をお唱えいただければよろしいかと。もちろん、ご自身が慣れていらっしゃる日蓮宗系の勤行作法に則られても問題ありません。
Q3:千日回峰行を満行された行者様は、東京に A3:残念ながら、私は存じ上げません。大先達として後進の指導にあたられながら御自行をなさっておられますので、基本は比叡山麓の坂本か飯室の里坊にお住まいになられておられるはずですから、東京在住の行者さんはいらっしゃらないとおもいます。百日回峰を経験なさった住職さんなら東京にもいらっしゃるでしょう。なお、回峰行者さんの祈祷・講演については、延暦寺のHP等をご参照ください。
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Name: MT
Date: 2013/09/21(土) 23:57
No:5030
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Title: Re:不動明王様の御真言について
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天台沙門様
ご教示くださり本当にありがとうございます。
不動明王様に出会えたのは仏縁だと信じ、一生懸命お祈りさせていただきます。
本当にありがとうございました。
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Name: 銀蔵
Date: 2013/09/17(火) 18:37
No:5022
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Title: 無題
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よろしくお願いいたします。
信心させていただいているお寺から、「普賢三宝大荒神」というお札を戴いているのですが、置き場がないので神棚に置かせてもらってます。 でも調べてみると、荒神様は台所に別棚を作っておまつりしないといけないみたいですね。 ただ、台所でお札をまつれそうな場所のすぐ裏がトイレなので、そこにおまつりしてよいものか迷ってます。
裏がトイレでも、やはり台所に単独でおまつりした方がよいでしょうか?
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Name: 天台沙門
Date: 2013/09/19(木) 09:15
No:5026
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Title: Re:無題
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を主とする者の立場から。
お札の扱いについては、そのお札を授けていただいた社寺にお問い合わせいただくことが間違いありません。
※
ご質問の内容は「キッチンとトイレが壁一枚を隔てている構造の場合、荒神さんをその壁面に祀ってもさしつかえないか」ということですが、特段の不都合があるとは考えません。 理由は3点あります。 第一に、現実問題として物理的空間を問題視するよりも信心が優先されてしかるべきです。第二に、便所は「不浄の場所」という意識がありますが、しかし「便所の神は屋敷内の神々のうちの最上位の神格だ」という信仰も根強くあります。第三に、壁面そのものが結界であることは間違いないので、トイレ側の壁面にお祀りしても失礼にはあたらないでしょう。 以下は余談です。 便所は、井戸とともに日常生活に不可欠なものである施設であることと同時に、異界との出入口であると信じられてきているために神聖視されているわけです。かまどは火の力による物の変容(破壊と生産)を司る場所として神聖視されているわけで、まあ、いずれにしても神仏を祀るべき場所という点では変わりありません。近代人の衛生観を信仰スタイルにもちこむこともないと考えます。
以上、ご参考までに。
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Name: 銀蔵
Date: 2013/09/19(木) 23:43
No:5028
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Title: Re:無題
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天台沙門さま、
明快かつ詳細なご回答をいただき、誠に有り難うございます。 なにより荒神様をおまつりする信心が大切なのですね。 おかげさまで、安心して荒神様を台所におまつりすることができます。
>近代人の衛生観を信仰スタイルにもちこむこともないと考えます。
便所についても、新たなご教示を戴き有り難うございます。 便所=不浄な場所、とどうしても思ってしまいがちですが、便所が神聖視されてきた古い歴史があるのですね。トイレは汚いから掃除をするというより、異界との出入り口であるから烏枢沙摩明王のお札を貼って、こまめに掃除をするという感覚でいかなければなりませんね。
本当に勉強になりました。有り難うございました。
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Name: kk
Date: 2013/09/12(木) 23:16
No:5019
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Title: 本位牌
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先日、母が急性の心筋梗塞にて突然亡くなりました。菩提寺がなかった為、葬儀社さんと相談した結果、父の兄のほうから連絡してもらって父方の実家の菩提寺(浄土宗)の檀家に入檀して通夜・葬儀と行いました。これからお墓を建立して仏壇、位牌と用意しなければならないわけですが、葬儀社さんの方からは突然のことだったので、急いで用意せずに落ち着いてから一周忌を目安に用意すればよいのでは?と言われたのですがネットや本で見ると49日までに仏壇と位牌。特に本位牌は用意すべきと書いてあるところが多いのですが49日までに用意しないとならない理由があるのでしょうか?金銭面は特に問題はないのですが、仏壇はたびたび買い替えるものでもないし、位牌と合わせて落ち着いてから買いたいと考えています。そうなると開眼供養もしてもらわないとならないし、たしかに忙しいなと思い、一周忌までにと考えているのですが、不安になり葬儀の担当して下さった方に聞いたところ「1周忌に作る方もたくさんいますよ。」とは言われたのですが本位牌は一周忌に作っても問題はないのでしょうか?
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Name: 天台沙門
Date: 2013/09/14(土) 17:17
No:5020
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Title: Re:本位牌
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。
まずは菩提寺さん(葬儀の導師をしていただいた住職さん)にご相談ください。
御母堂の葬儀が終わり、位牌・仏壇・墓所を設けねばならず、七七日や百ヶ日の法要の支度をせねばならない、という状況であられると推定したうえですが、私でしたら「まず七七日の法要までに位牌を作りましょう。お墓の建立は一周忌をめどにゆっくりと考えましょう」とお答えします。理由は、費用と工期という面からですね。
※
さて、位牌を「49日までに用意しないとならない理由」ですが、その方が色々な意味において亡くなられたという事実を生き残った側が確認する行為であるといってよいでしょう。 仏教ではこの49日間を「中陰」といいますが、いわゆる「死出の旅路」の時間であり、死者にとって生でも死でもない時間と考えられます。もとはインドにおける転生までの期間が7週間であることによりますが、死者は生前に行い残した修業を努め、中陰を過ぎると仏位を得るとされています。道教では冥府での裁きを受けている時間であるとされます。 旧来は、初七日から一週間ごとに七週にわたり仏事を行い、それが終わると仏位を得た証明として位牌を作っていました。一週間ごとの法要は、上記の死者の修業や冥府の審判の手助けのために行うとされていますが、これは生者が死を受け容れる・乗り超えるための儀礼と考えておいたほうがよいと、私は考えています。ですから「本位牌を作る」という行為が「死を認める」という行為と一緒になりうるわけです。
正直なところ「一周忌に作る方もたくさんいますよ」については、私は「本当か?」と考えます。これについては、埋葬・納骨時に墓地に墓石の代わりとする白木の位牌(野位牌)をおいておく風習との勘違いなのではないでしょうか。
以上、ご参考までに。
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Name: kk
Date: 2013/09/15(日) 20:26
No:5021
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Title: Re:本位牌
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アドバイスありがとうございます。明日早速、住職に訊いてみます。
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