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  葬儀が終わってからの気持ちの持ちよう

[5045] NK
[5046] 天台沙門

Name: NK
Date: 2013/11/26(火) 21:00   No:5045
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Title: 葬儀が終わってからの気持ちの持ちよう    
先日祖母が急逝致しました。
私は1人暮らしのため、死に目には会えませんでした。
祖母が入院してから半年、会えたのは3度ほどだったと思います。
大好きな祖母ですが、恥ずかしい、という馬鹿な気持ちがあったためになかなか病床の祖母に話しかけることもできませんでしたし、亡くなったという一報を聞いても何故か涙一粒さえ出ませんでした。
自宅に戻ってからもやはり恥ずかしさからか祖母の亡骸に伝えたいこともうまく言えれませんでした。
自分がどれだけ愚かかわかりました。
しかし、祖母も記憶が怪しくなってきたころ、DVDプレイヤーと祖母が好きだった演歌歌手のDVDを送りました。祖父が見せると目を見開いて涙を流した、と聞いたときは送ってよかった、と思いました。

孫代表で祖母の亡骸に数珠を掛けたのですが、その時に我慢していたものが全て流れて大声で泣いてしまいました。
出棺の際には祖母の好きだったピンクの花を顔の周りに置けたことは本当に良かったな、と思っています。
あまり話しかけてあげれなかったのは事実ですが、祖母がピンクの花が好きだったことは私しか知らなかったと思うのでこのことがせめてもの償いでした。

葬儀が終わってから従兄弟が『亡くなる時間直前に目が覚めたし、葬儀中にはおばあの気持ちが自分の中に入ってきた気がする』と言っていましたが私は何も感じることができませんでした。
親族には『お前を1番可愛がっていた』と言われましたが、こんな自分が恥ずかしくてしょうがありません。

1人暮らし先に帰る際、祖母の遺品の一つである、祖母が作ったちぎり絵をもらいました。
この遺品を目印に祖母はまた会いに来てくれるでしょうか。
『いってきます』や『ただいま』のあいさつ、時にはこの遺品に手を合わせてもいいものでしょうか。

日常に戻ってから、祖母がいない、ということを考えると涙が止まりません。
気持ちの整理ができず乱文になってしまいました。
ここへ書き込みしていいものか迷いましたが、よろしくお願い致します。



Name: 天台沙門
Date: 2013/11/30(土) 12:27   No:5046
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Title: Re:葬儀が終わってからの気持ちの持ちよう    
某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。

結論らしきものを最初に申し上げます。
悲しいときは泣いてください。嬉しいことがあれば、故人と一緒に喜んでいただくつもりで喜んでください。世の中から預かっているご自身の役目はきっちりとお務めください。

>大好きな祖母ですが、恥ずかしい、という馬鹿な気持ちがあったためになかなか病床の祖母に話しかけることもできませんでしたし、亡くなったという一報を聞いても何故か涙一粒さえ出ませんでした。
自宅に戻ってからもやはり恥ずかしさからか祖母の亡骸に伝えたいこともうまく言えれませんでした。

ほとんどの場合、死の準備はできません。かつて人の死は生活の中にあったので少なくない他者の死に立ち会う経験が与えられていましたが、現在では死は医療の延長や報道の中にしか存在しません。現実感のない「死」に対し、その場で何もできないほうが自然です。

>従兄弟が『亡くなる時間直前に目が覚めたし、葬儀中にはおばあの気持ちが自分の中に入ってきた気がする』と言っていましたが私は何も感じることができませんでした。

それは、貴方と従兄弟さんとのはものの感じ方が違う、というだけのことです。違うことと悪いことは別の次元の問題です。何を恥じることなどありません。



葬儀というものは「通夜とセットの一日」だけのことではありません。一定の時間を使って死者を弔うための「儀式」の総体です。どういうわけか、人は時間を区切らねば生きていけません。特に、生死という重要なことについては、文化的に色々な儀礼がつくられてきています。
一口に「葬儀」といっても、実は色々なことをしています。
(1)ご遺体をどうしよう。
(2)死者の霊魂をどうしよう。
多くの場合、葬儀はこれでお終いという印象を持たれますが、本当はここから先が葬儀の始まりになります。
(3)人はタマシイをもって生きているわけですが、自分の知っているタマシイ・大切なタマシイがこの世からあの世に行ってしまうと生き残った者のタマシイは傷つきます。ですから、死をうけいれる・死をのりこえる・いやす・いやされる、ことが必要です。
(4)その人がいることが当たり前だった生活を、いないことが当たり前の生活に組み換えていかねばなりません。
そういったことをしながら、世間から預かった務めは果たさねばなりません。
ということは、お弔いは短期で終わるというのではなく、ある程度ゆっくりとしたものと考えておくほうが無理がありません。その一定の期間が「お弔い」であり、お弔いの節目節目も葬儀であり、お弔い全体も「葬儀」なのですね。
そういった理由から、私は「三回忌までのまる2年を使って(変な表現ですが)故人のいらっしゃらない娑婆のくらしに慣れていきましょう」と通夜葬儀の時にお話をしております。





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