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Name: 迷走者
Date: 2018/12/16(日) 23:29
No:5628
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Title: お経を唱えるとどうなるのでしょうか?
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過去に同じような質問がありましたら申し訳ありません。 (その場合は、過去の質問タイトルを教えていただけるとありがたいです)
誰が(1)、何に(2) お経を唱える(あげる)のかによって、なぜ、どうなるのか知りたいです。
(1)お坊さん か 一般の人 かで次の2ア〜カの対象にお経をあげて違いはありますか? (2)ア.お寺で貰ったお札、イ.家で特に祀っている仏画や仏像、ウ.仏壇の仏画や仏像、エ.仏壇の位牌、オ.お墓、カ.お寺の本堂の仏画や仏像
「日蓮宗の南無妙法蓮華経は、誰があげても同じだよ」と聞いたことがありますが、それならお坊さんの意味が無いような?
そうかと思えば、真言宗のお寺で聞いたのは「お坊さんは仏様との橋渡しだよ」とも。では、一般の人が唱えても意味がないのでは?
「仏画や仏像にお唱えすると、誰がお唱えしても仏様は喜ぶので、それが功徳になる」とも、聞いたことがあります。
誰が 何に お経を唱えると、なぜ、どのような効果があり、どうなるのかを知りたいです。
出来れば、密教(真言宗か天台宗)の方のお話と、日蓮宗の方のお話が聞けると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
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Name: 一求道者五十四歳
Date: 2018/12/18(火) 01:37
No:5629
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Title: Re:お経を唱えるとどうなるのでしょうか?
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まず、お経とは何か? といいますと、 これはブッダの教え(言葉)やその生涯についての物語などからくる教訓などが綴られたものを意味します。 本来的には、我々のような普通の人間がブッダのように成るための教えとその修行の在り方を説いたものであり、 日々、これを読誦することで内容を記憶して理解しようとします。そして、また文字化する以前から相手に聞かせることによって伝承してきたのが、 今日まで続けられている読経の習慣となっているのです。ということで、読経の習慣は修行の一環としても扱われてきたものであり、 真摯な姿勢による読経というのは佛様(ブッダ)も大変、喜ばれる行為なのです。
読経の行為そのものは何処でやっても同じなのですが、 これを開眼仏の御前で行うことでその開眼仏と直接的に繋がることになり、より一層その御加護にあずかることができるということ。 ですから、その祀られている対象が実際に開眼されているかどうかということ? あとはその開眼力の強弱と尊格の種類(神仏の種類)の違いです。
ポイントとしては、 1. 確実な“開眼”は密教に勝るものはない 2. 基本的な開眼仏の力の強弱は、「寺院本尊」→「家庭の開眼仏」→「祈祷済の御札」の順です。 3. 一概には言えませんが、まったく同じ尊格で同等の開眼仏の場合には、「仏像」→「仏画」が基本的な格順です。 4. 「位牌」は故人との通信機のようなものであり、故人にとっての窓口です。 これは開眼仏の傍で一緒に祀ることで故人にとっての安らぎの場となります。 また読経というのは、本来的には死者のためのものではありませんが、 故人やご先祖さまに対しては「私たちと共に仏道を歩んでいきましょう!」との想いで、 故人の修行が更に進まれるよう仏様にそのご指導と御加護をお祈りします。 5. 通常のお墓には、開眼仏が一緒にお祀りされていないことが殆どです。 残念ながら、開眼仏の無い空間での死者供養のための読経は素人にはあまりお薦めはできません。 6. 密教僧による読経と我々、素人の読経とでは加持力において明確な違いがありますが、 私たち素人による真摯な読経も仏様はとても喜ばれています。
私は、真言宗信者でありますが、すべては個人的な見解です。 あくまでもご参考までに
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Name: 天台沙門
Date: 2018/12/19(水) 12:28
No:5630
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Title: Re:お経を唱えるとどうなるのでしょうか?
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某政令指定都市に所在する寺を預かる天台を宗とする者の立場から。
Qzero:お経を唱えるとどうなるのでしょうか? Azero:読経をするということ以外のものごとにわずらわされずにすみます。
叡山で修業を始めたときに、 (1)経本を見ろ (2)音読しろ (3)自分の声を仏さんの声だとおもって聴け と、習いました。これは心理学的には (1)視覚の制限 (2)聴覚の制限 (3)意識対象の固定化 によって感覚遮断を導く手段と理解できます。この感覚遮断によって緊張をともなわない精神集中をもたらすことが読経の目的と考えてよいでしょう。
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以下、個別に。
Q1:読経の主体と対象による相違 A1: 読経という行為に一定の修業価値をみいだす以上、僧侶であるか在俗であるかの差別はありません。それが大乗仏教という考え方ですから。 また、祈りの対象が「神仏」と呼び習わされる救済の主体である以上、実践面の祈りの対象が御札であろうが仏像仏画であろうが物体としての存在がなかろうが価値は変わりません。神仏そのものは不可知でありますから。
Q2:僧侶の存在意義(お坊さんの意味がないような?) A2: 唱題行(=お題目)は自分自身のための修業である、という観点から僧侶でも俗人でも「誰があげても同じだよ」という意味です。これは称名念仏(=お念仏)や座禅止観と密教修法であっても同様です。 ただし、正しい修業を実践するためには、経験的に確立された修行方法の専門知識をもった僧侶の指導をえるべきです。
Q3:俗人の修行意義(一般の人が唱えても意味がないのでは?) A3: 前項は「自利行」という観点で理解すべき問題でしたが、こちらは「利他行」という観点で理解すべき問題です。 つまりは「他者の修行を応援することで自分の修行に代えよう」という(施主さん側の)考え方と「これは自分だけの修行ではなく自分以外の誰かのための修行である」という(僧侶側の)考え方を表裏一体にしての「お坊さんは仏様との橋渡しだよ」という意味です。
Q4:誰が何にお経を唱えると、なぜ、どのような効果があり、どうなるのか A4: 本来ならば「自分が自分に対してお経を唱えることは、お経に書いてある思考・思想を知ることであり、日々の修行の実践との相互作用で仏教というものを体感的に理解できるという効果があり、自分の仏道修行の役にたつ」ということになります。 現実的には、冒頭に述べたとおり(意識されることは少ないですが)感覚遮断の簡単かつ安全な修行方法という側面は重要視されています。しかし、白文の素読では文章の意味が理解できずとも日本語訳の知識と漢字の自面から(日々日々の読経によって)経典の内容の再確認を継続することは可能でしょう。
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以下、余談です。
法然さんは「念仏の功徳はなにか?」と問われたとき「念仏している間は悪事をせずにすむことだ」と答えたそうです。また河合隼夫が「華厳経を読んでいると眠くなる」と催眠効果が意図的なものではないかとの感想を述べています。
以上、ご参考までに。
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Name: 迷走者
Date: 2018/12/20(木) 23:48
No:5631
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Title: Re:お経を唱えるとどうなるのでしょうか?
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一求道者五十四歳様、早々にコメントありがとうございます。 私と同じく一般の信者さんなのに色々ご存知で凄いです! 前世はお坊さんでは?
天台沙門様、お坊さんからのコメントありがとうございます。 質問に丁寧にお答えいただき本当に嬉しく思います。 とても勉強になりました。
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Name: 迷走者
Date: 2018/12/20(木) 23:50
No:5632
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Title: Re:お経を唱えるとどうなるのでしょうか?
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真言宗のお坊さんで、この掲示板をご覧になっておられる方はいらっしゃいますか?
もしよろしければ、真言宗のお坊さんのご意見もお伺いしたいので、差し支えない範囲で結構ですので、ご回答の方よろしくお願いいたします。
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Name: 在家
Date: 2019/01/02(水) 07:24
No:5633
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Title: Re:お経を唱えるとどうなるのでしょうか?
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残念ながら真言宗のお坊さんではありません。 宗派は関係ないでしょう。人によって感じ方が違うだけです。 あなたの迷いは仏様は自分の外側にいるのか?仏画や仏像に仏様がいるのか?功徳は外側からやってくるのか?という疑問に尽きるように思います。
すべては自分の内側(心の奥)にあり、内側からやってきます。 だから読経は自分自身にしか意味がありません。 お坊さんと一般人の区別で違うはずはないし、仏前や寺院で読経するのは自分の真剣さが違うだけです。 私が読経に感じる意味は「瞑想である」ということです。 これ以上人の意見を収集するより、自分がどう感じるかを大切にされたらよいと思います。
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Name: 迷走者
Date: 2019/01/06(日) 23:29
No:5634
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Title: Re:お経を唱えるとどうなるのでしょうか?
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在家様、コメントありがとうございます。 また、返事が遅くなりまして申し訳ございません。
「すべては自分の内側(心の奥)にあり、内側からやってきます。」 という在家様のコメントのように考えたことがありませんでした。新たな視点に気付かせていただきありがとうございました。
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