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Name: 美玲
Date: 2011/07/02(土) 18:42   No:4370
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Title: 人の不幸を願う    
人の不幸を願うことはよくないことですが自分に意地悪をしたり酷いことをした人の不幸を願いたくもなりますが、そうせずに気持を処理できるのでしょうか?


Name: 一般人
Date: 2011/07/02(土) 19:04   No:4371
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Title: Re:人の不幸を願う    
相手を哀れな人間だと、慈しむことができます。例えば……

誰かを害して傷つければ、その悪行為の結果は加害者がいつか受けることになります。
「かわいそうに、自分が悪い行為をして、その報いを受けるのは己だというのに……」と哀れむ。

害する行為をする方は心が成長していないのでしょう。
「かわいそうに、こんなことをしなくてはならないほど心が病気なのだ」と哀れむ。

また、哀れむ方法以外では、うらみを抱く自分の心を厭い、心を強くするぞ!と自身を励まして、工夫へと心を持っていく方向もあると思いますね。


Name: 美玲
Date: 2011/07/02(土) 22:19   No:4372
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Title: Re:人の不幸を願う    
一般人さま

回答有難うございます。

因果応報の法則に当てはめる

これは出来そうです。

相手より一段上をいき哀れむ

前々からこうが出来たらどんなに楽かと思っていました。
自分が未熟なため、相手と同じ土俵に立ってしまうんですよね。

うらみを抱く自分の心を厭い、心を強くするぞ!と自身を励まして、工夫へと心を持っていく

心を強くするぞと自分を励ますのはいい方法ですね。
それが出来れば恨むことにエネルギーを費やさなくて済む分楽だろうと思います。

こうして回答をいただいても、なお相手を恨んでしまう。
情けないですね。


Name: 花火
Date: 2011/07/03(日) 10:21   No:4373
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Title: Re:人の不幸を願う    
憎たらしい人物の不幸を願うことは大多数の人が体験していることです。ごく自然な反応ではないでしょうか。人から憎まれる人物は、さまざまな人から呪いの念を浴びて、結局は不幸になっていきます。たしかに人を呪えば…と言う格言はありますが、一般人は聖人を目指すわけではありません。憎むことが心の素直な反応なら、こらえないことが心の健康法だと思いますよ。

Name: 一般人
Date: 2011/07/03(日) 11:06   No:4374
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Title: Re:人の不幸を願う    
心には「習慣」があります。例えばずっと悲しんでいるならば、やめようと思っても心のクセが抜けず、しばらくは心が悲しむ方向へといきやすいものです。

「恨まない」とまずは貴方自身が心に決めたのですから、しばらくは心のクセが抜けないかもしれないですが、もう大丈夫だと思いますよ。クセに負けないことです。
心の主は自分。そのことを忘れないでいてくださいね。


さて、恨む気持ちはフツウあるから恨んだらいい、聖人じゃないんだから。そういう考え方もあるでしょう。

しかし、恨み続けることで自分の心が苦しむこと、さらには健康を害することすらあることを知っていれば、「恨むのをやめたい」というのは当たり前のことです。そうしないのは、(言葉が悪いですが)頭が悪い、自分で自分を害していることにすら気づけない人達だと思われます。まぁ、本人が理解できなければ難しい話でしょうが……。

ちなみに自分は恨みから抜け出せず、一週間ほどで病を発病し、さすがに恨みを抱くことには懲りました。恨む気持ちに気付いたら、早めに手放さないと危険だというのが実感です。雪だるま式に膨れあがり、手が付けられなくなるように思います(笑)

美玲さんが早く恨みの心から逃れ、いつもの明るい気持ちで「今ここ」の時間を過ごすことができるようになることをお祈り申し上げます。


Name: 美玲
Date: 2011/07/03(日) 11:43   No:4375
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Title: Re:人の不幸を願う    
花火さま

回答有難うございます。

憎たらしい人物の不幸を願うことは大多数の人が体験していることです。

そうかもしれませんね。自分だけが悔しい想いをしていると思っていたんですが、大多数の人が悔しい思いをしているんですね。

ごく自然な反応ではないでしょうか。

憎んだ相手の不幸を願い、自分を責めて苦しくなっていたのですが、そう言って頂くと心が軽くなります。

人から憎まれる人物は、さまざまな人から呪いの念を浴びて、結局は不幸になっていきます。

いけないことですが、そうなればいいな・・・と思ってしまいます。人に与えた痛みは自分が身をもって痛みを感じないとわからないことがありますよね。
私の出会った酷いことばかりしている人は、いつも断じて自分は悪くないと自分の思いを押し通し、不思議と相手が折れ(諦め)、結果的に自分の思いがまかり通っている・・・いつか天罰が下るんでしょうね。

たしかに人を呪えば…と言う格言はありますが、一般人は聖人を目指すわけではありません。憎むことが心の素直な反応なら、こらえないことが心の健康法だと思いますよ。

この世は修行の場で聖人に近づこうという気持も心の隅にありました。
でもその分、心がキツくなってしまうのですよね。心の健康も大切にして考えてみます。
ありがとうございました。



Name: 美玲
Date: 2011/07/03(日) 12:05   No:4376
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Title: Re:人の不幸を願う    
一般人さま

再び回答ありがとうございます。

> 心には「習慣」があります。例えばずっと悲しんでいるならば、やめようと思っても心のクセが抜けず、しばらくは心が悲しむ方向へといきやすいものです。

心には習慣があるんですね。私もやめようと思っても気がついたらまた悲しむ方向へ向いています。
確かに前向きなクセを持つ人はいつ、どんな時でも前向きですね・・・

> 「恨まない」とまずは貴方自身が心に決めたのですから、しばらくは心のクセが抜けないかもしれないですが、もう大丈夫だと思いますよ。クセに負けないことです。

恨むことがいけないことと理解していても、気がつくと恨んでしまうんです・・・
クセに負けないようにするには、同じことを繰り返さないように努力をすることが大切なのでしょうね。

> 心の主は自分。そのことを忘れないでいてくださいね。
本当にそうですね。心の持ち方次第で幸せにも不幸にもなりますね。貴重なお言葉有難うございます。

> しかし、恨み続けることで自分の心が苦しむこと、さらには健康を害することすらあることを知っていれば、「恨むのをやめたい」というのは当たり前のことです。そうしないのは、(言葉が悪いですが)頭が悪い、自分で自分を害していることにすら気づけない人達だと思われます。まぁ、本人が理解できなければ難しい話でしょうが……。

恨み続けることはエネルギーを必要としますね。そのことで目の前のことが疎かになったり、心も体も参っています。恨まなくて済むなら、誰も恨みたくないのですが、恨まずにいられないというところが、なんとも複雑で難しいのですが・・・

> ちなみに自分は恨みから抜け出せず、一週間ほどで病を発病し、さすがに恨みを抱くことには懲りました。恨む気持ちに気付いたら、早めに手放さないと危険だというのが実感です。雪だるま式に膨れあがり、手が付けられなくなるように思います(笑)

そうなんですよね。恨みが雪だるま式に膨れ上がり手が付けられなくなるってすごく解ります。いつも恨んでいる精神で、イライラしたり、あまり良いこともないですね。
一般人さまは病を発病されたとのことですが、私も胃痛、腹痛、不眠、うつ病になりました。

> 美鈴さんが早く恨みの心から逃れ、いつもの明るい気持ちで「今ここ」の時間を過ごすことができるようになることをお祈り申し上げます。

優しいお言葉ありがとうございます。今、ここ・・・にだけ気持を向けられるよう努力します。

ありがとうございました。


Name: 花火
Date: 2011/07/03(日) 12:28   No:4377
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Title: Re:人の不幸を願う    
人間というのは、一つの感情をいつまでも継続するなんてことはあり得ません。憎しみについて言えば、憎んで憎んで憎み尽くして憎むのに飽きたとき、ようやく忘れることができると思います。また、一人の相手を激しく憎んだところで、それが習慣となり誰彼構わずの相手に憎むのが当たり前の心の有り様になるなんてこともナンセンスだと思います。昨今、心の病が増えていますが、感情やストレスの抑制こそが心の病になる最大の原因だと思っています。憎む人物の不幸を願うことで感情が解放されるなら、飽きるまで憎んでストレスを貯めないことが現代の心の健康法だと思います。

Name: 美玲
Date: 2011/07/03(日) 13:34   No:4378
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Title: Re:人の不幸を願う    
花火さま

再び回答をありがとうございます。

色々な考え方があり、とても勉強になります。

> 人間というのは、一つの感情をいつまでも継続するなんてことはあり得ません。憎しみについて言えば、憎んで憎んで憎み尽くして憎むのに飽きたとき、ようやく忘れることができると思います。

憎むのに飽きたり忘れたりすには、時の流れに任せていれば無理して忘れようとしなくても、自分で気付かないうちに自然と忘れられるのかもしれませんね。

昨今、心の病が増えていますが、感情やストレスの抑制こそが心の病になる最大の原因だと思っています。憎む人物の不幸を願うことで感情が解放されるなら、飽きるまで憎んでストレスを貯めないことが現代の心の健康法だと思います。

花火さまが仰るのはただただ、自分の気持に従うということですよね。憎い相手を想っている時は心が荒んでいるせいか、別の思考を持つことが難しかったりすることもあります。その時の自分の気持に従っていれば無理が生じない分だけ楽になるのかもしれませんね。自分の精神状態にもよるのですが、相手の不幸を願うことで自分の気持が楽になることもありますよね。そのあと苦しくなったり、スッキリしたり色々ですが・・・


Name: 一般人
Date: 2011/07/03(日) 14:03   No:4379
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Title: Re:人の不幸を願う    
度々失礼します。美玲さんは仏教に親しまれていらっしゃいますでしょうか?

もしそうであれば、一般的に日本のお寺で話されるような内容として「多生の縁」という考え方もあると思います。なお、あくまで私が言うのは、心を「抑えこむ」ではなく、考え方をかえることで自動的に心がかわるように仕向けるという方向です。

多生の縁。美玲さんの心にいま強くひっかかっている人が、実は過去の生まれ(過去世)において母親だったかもしれない。あるいは、自分が過去世で酷いことをした相手なのかもしれない…様々な縁により「今」が成り立ってますが、袖が触れ合うだけでも過去世では深い縁があったと言われるくらいですから、心に強くひっかかるような関係であれば尚更、過去世では深い関係があったのだろうと推測されるわけです。だから優しい気持ちで付き合っていきましょうと、そのように考えるわけです。

加えて「業(カルマ)」という見方ができますので、いま相手に迷惑をかけられたことで、自分の悪いカルマを解消できたという風にみることができます。
善因善果、悪因悪果。相手の行為によりカルマを解消できても、自分が仕返しして悪行為をすれば、また自分が悪いカルマを積みますので、いつかまた返ってきてしまいます。

オンニコニコハラタツマイゾソワカ。腹をたてない呪文です。怒りがわいたらオンニコニコハラタツマイゾソワカ。思い出してクソッと思ったらオンニコニコハラタツマイゾソワカ。宜しければお試しください。


Name: 花火
Date: 2011/07/03(日) 14:23   No:4380
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Title: Re:人の不幸を願う    
憎しみを捨てる、心の在り方を変える、考え方を変える、道徳的な視点から言えば、それが王道の答えなのでしょう。しかし、いざ自分の身に置き換え、現実の憤怒に臨めば、道徳など絵に描いた理想論に過ぎないことがわかります。頭では分かっていても道徳の実践は困難である、それが人生というものです。見知りの住職は住職になる前、会社を経営していました。しかし信頼する人物に裏切られ、会社を潰しました。血の憎しみが消えず、生きる希望もなくし、世を捨てる思いで出家したそうです。憎しが消えたのはだいぶ後のことだと言います。出家した住職だってこの通りです。解毒剤でたちまち毒が消えるようには消えていかないのが人の感情です。自然治癒(心の解放)に任せるしかないと思います。

Name: 美玲
Date: 2011/07/03(日) 14:32   No:4381
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Title: Re:人の不幸を願う    
一般人さま

回答ありがとうございます。

詳しくはありませんが、仏教系の本は好きです。

「多生の縁」という考え方があると聞いたことがあります。
誰かから酷い仕打ちを受けるたび、自分は前世で余程ひどいことをしてしまったのだろうと考えることもあります。身に覚えがないことですが、過去世で傷つけてしまったなら反省し、心を入れ替えて良い人間になれるよう生きているつもりなんですが、酷い人がのうのうと生きているのを見ると何だか理不尽だな・・・というのが本音です。

自動的に心がかわるように仕向けるのは、ストレスや無理がかからなくていいですね。

呪文ありがとうございました。さっそく、メモをしていつでもどこでも唱えたいと思います。


Name: 美玲
Date: 2011/07/03(日) 14:36   No:4382
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Title: Re:人の不幸を願う    
花火さま

回答ありがとうございます。
私も憎しみをすてるためにたくさんの書物を読みあさりましたが、理想通りに生きたいと思っていても心がついていかないのですよね・・・

自然治癒力は心にもあるんですね。


Name: 一般人
Date: 2011/07/03(日) 15:15   No:4383
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Title: Re:人の不幸を願う    
「一転語」といいまして、一言で心機を一転させる語が語れればよいのですが、そこまでの能力を持ち合わせておらず、駄文を繰り返すことお詫び致します。

仏教的に深いところを申し上げます。「自我」というものがありますね。「一切皆苦」「諸法無我」という言葉、見聞きしたことはありますか。


なぜ「理想どおり」にいかないのか。「一切皆苦」とは、自分の思いどおりになるものはない、ということです。

では、その「自分」とは何か。コップ一つ、自分でつくることはできません。身体だって生まれたときあったもの。鏡に映った姿、いま感じている感覚、そういったものをまとめて「自分」だと認識しているに過ぎません。

とは言え、「自分」の身体は勝手に歳老いていきますし、レジに割り込まれればイライラ、赤ちゃんが笑うと楽しい気持ちになるなど、環境の状態によっていくらでも「自分」はかわってしまいます。

従って、「自分」という、魂のように変わらない自分はない。諸々の因縁によって仮に成り立っているのが「自分」である、というのが「諸法無我」なのです。

だから、本当は「自分」の心は常に消滅生成されてますので、いま憎しみを手放せば、少なくとも次の瞬間、憎しみはないはずなのです。
それを「自分」を害した悪い人間だ!酷い奴だ!などと、ありもしない固定した「自分」や「相手」を想定し、念を抱きつづけることで恨みが膨れあがり、しいては事件などに発展するわけです。本能が命じるままに動いてしまっては動物と一緒ですね。

相手も自分も、ちょうど「そのとき」の状態があって「あの時」が成り立った。今はまた違う。こうみるのが諸法無我です。

そして縁起。因縁によって結果が現れます。よい因をつくれば、よい果が得られます。
もし私が僧侶ならば、美玲さんに対し、相手に慈悲を抱くことをオススメするでしょう。人に嫌われて幸せですか、寂しくはないですか、よかったらお茶でもどうぞと、逆に相手に「愛」を向けることをすすめます。相手を慈しむと同時に憎むことはできませんから、憎しみから解放されます。

難しい話になっていましたら申し訳ありません。仏教、私も好きです。心が安らぎますね。


Name: 天台沙門
Date: 2011/07/04(月) 09:18   No:4384
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Title: Re:人の不幸を願う    
ふとしたことで「人の不幸を願う」ことは一過性の気分です。それが執着である「その不幸を願い続ける」気分となるのはよろしくないのですが、本質的には別物と考えておいたほうが良いでしょう。

そもそも感情というものを否定することはできません。その感情をもった自分自身を肯定することから始め、次いでその感情そのものの善悪・良否・真偽を省察すれば善いのです。「人の不幸を願うこと」が悪いことと知っているなら「人の不幸を願う」自身の行為そのものへの反省が生まれるわけで、全体としての均衡はとれるのではありませんか?

私が宗とする天台は「性悪説」にたちます。たとえば、「六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)」は客観的に存在する場所であるよりも主観的に実在する心理的状態であるとします。そして、六道を超越した「仏」の内側にも「地獄」があって、そうであるからこそ仏は六道にある事/者を救済する方法を知ることができると考えます。
これと同様で、「人」は自分自身の中にある悪(修羅・畜生・餓鬼・地獄)を自覚することによって、自分自身を善(仏)に近づけるエネルギーやモチベーションを得ることができるのです。

私個人は「自分自身は善の側にある」と盲信するより「自分自身は悪の側にいるかもしれない」と悩むほうが安全であると考えます。


Name: 小市民
Date: 2011/07/05(火) 16:28   No:4386
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Title: Re:人の不幸を願う    
横レス失礼します。

憎しみを抱く心に気づいて、その感情を認めることももちろん大切だと思います。
ただ、それ以前に、そのような感情を抱いてしまうことがいけないことだと知りながら、それをなんとかしたいと問題意識を持った時点で向上への一歩が出ていると思いました。
それがまさに気づきなのではないかと思いました。
何故なら、憎しみを抱けば、その憎しみが増長するようなご時世です。
だから、残忍な事件が後を絶ちません。
でも、美玲さんは、そうした感情に対して、それじゃいけないと自ら気づいてどうしたらいいかと考えだした。

その時点で素晴らしいことだと思いました。


Name: 小市民
Date: 2011/07/05(火) 16:35   No:4387
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Title: Re:人の不幸を願う    
私は、仏門に身を置く者ではなく、その教えに精通しているわけでもないので、救いという点では何の力にもなれません。
ただ、経験則からみえてくるものがあります。

花火さんが、前レスで「憎しみきって飽きた時に忘れられる」と語られています。
たしかにその通りです。
恥をさらしますと、私の場合、自分自身の人生において、許し難い裏切りに二度あいました。
一度目の裏切りを過去のものにするのに五年、二度目は十年かかりました。
つまり、都合、忘れるのに十五年かかりました。
それだけ引きずったということです。
飽きるのに十五年もです。
今思えばつくづく馬鹿な自分だったと思います。

体に変調をきたすということも、その通りです。
その変調というのは、内臓疾患や精神疾患ということもさることながら、自分自身の性格というか、顔つきや、表情といったところにまででてきます。
私の場合は、相手への恨み辛みから、やがて自分までも責めるようになりました。
普段は普通に仕事をする顔をもちながら、仕事を離れたら、恨み辛みに縛られる。
そんなことで十五年です。
刺々しくなるし、粗暴な面が出て、それを抑える理性との葛藤で疲れてくる。
性格が捻くれるのも無理はありません。

時間が解決してくれるという見方もありますが、今、私が言えることは、相手を恨んだり、憎んだり、不幸を願ったりする時間は、後悔にしかならない。

つまり、そこで費やす時間が長ければ長いほど自分を苦しめるだけです。
あとから、あの時はなんて馬鹿な発想をして苦しんでいたんだと、なることが多いです。
でも時間は元には戻せません。

今ここで恨んだり、憎んだりしている時間には、自分自身を成長させる要素はないに等しい。
そういうことで心に波風たてて、どこでどう向上できますか?
そんな心では、何かを得て向上するのはニセモノの向上になります。
人間だから、そうした感情をもつのは自然です。
持つなとはいいません。
恨むような感情がでたら、一息ついて、そんな発想はダメ、相手を哀れと思い、一つ教えられたと思えばいい。
そういうご自身であると受け止められれば一番いいのでしょうが、なかなか簡単なことではありません。
要は、受け止め方を間違えずに、心の中での葛藤を極力小さくできれば、後悔と無駄な時間を費やすことなく、苦しまずに済むと思います。



Name: 美玲
Date: 2011/07/06(水) 05:29   No:4390
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Title: Re:人の不幸を願う    
一般人さん 天台沙門さん 小市民さん

回答を頂きありがとうございます。

また改めて回答をさせて頂きます。




Name: JUN
Date: 2011/05/20(金) 14:40   No:4270
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Title: 真言について    
はじめまして。
私の家の先祖の宗派は浄土真宗(西)でゆくゆくは自分が仏壇をまもっていくつもりです。
でも数年前から毘沙門天さまの仏像を購入し毎朝晩、真言を唱えて
祈願しています。自分のご先祖様ももちろん大切ですが、自分は密教に興味があり、空海に興味があります。
だからと言って宗派を真言宗に変える気にはなりませんが、このまま個人的に毘沙門天さまを信仰・祈願してもよいのでしょうか?
ある霊能者の方には、「毘沙門天を信仰してる人はめずらしいね」と言われましたが、問題ないですよとも言われたのですが・・・
ちなみにいつも唱えている真言は「ナウマク・サマンダ・ボダナン・ベイシラマンダヤ・ソワカ」です。
「オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ」でもよいのですか?
こちらの真言の方が有名ですが・・・
自分の持ってい密教の本には「ナウマク〜」の方が書いてあったので。
長くなりましたが、ご助言よろしくお願いします。



Name: 僧侶K
Date: 2011/05/22(日) 00:38   No:4273
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Title: Re:真言について    
真言宗B派の僧侶です。
私の実家は浄土真宗の檀家です。
ですが、私も同じようにお大師さまやお不動さんに魅かれ、密教を勉強して、当時サラリーマンをやってましたが、ついに、坊さんになっちゃいました。いまではお寺の住職です^^;
宗派を変える事は自由です。今の檀家制度というものは、江戸時代、「宗門改め」とい事があって、半強制的に近くの寺の檀家にさせられたのが始まりでと言われてます。簡単に言うと、キリシタン禁止政策の一つ。あと、今は政教分離ですが、現代のように役所が整備されてないため、当時は地域の寺が村人を管理(把握)していたとされています。また、戒名が今でいう住民台帳の役割をしていました。
自分の考えが一致する。または何か感じるものが有れば、考えてみてはいかがですか?私は西方浄土の阿弥陀信仰(来世利益)より現世利益の方が・・・ん〜ま〜何となく^^;

のうまくさまんだ〜〜〜〜はフルコースですね。あらゆる仏(天)に帰依します。という事です。オン〜はおなじ帰依するという意味ですが、略式です。毘沙門天さんだけならノウマクサマンダ〜〜で、いいと思います。
私どもは十二天のほか、色々読むので・・・・^^; 北方毘沙門天⇒オンベイシラマンダヤソワカ〜ですね。。

毘沙門天さんだけだと、ほかの諸天さんがやきもち焼きそうなので、私だったら、諸天惣呪⇒オンローキャローキャキャラヤソワカも唱えるかな???


Name: TAKESHI
Date: 2011/05/22(日) 02:31   No:4275
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Title: Re:真言について    
もし私なら…家の宗派が真言宗であっても毘沙門天(天部)を、位牌の祀られている仏壇の中で一緒にはしません。お厨子に入れて仏壇の横(すこし高めに)とか、自分の部屋にお祀りします。

Name: 天台沙門
Date: 2011/05/22(日) 06:55   No:4276
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Title: Re:真言について    
「このまま個人的に毘沙門天さまを信仰・祈願してもよいのでしょうか?」とのことですが、私は、なんの問題もない、と考えます。
その理由としては、阿弥陀如来は「死」という不可知の領域について「極楽浄土=理想世界への往生」という安心を与えてくださることを本願(存在意義)としている存在だからです。また、人が信仰するかどうかと関わりなく阿弥陀如来はその本願によって人を往生させてくれます。
つまり、阿弥陀如来以外の神仏を信じていても(阿弥陀如来の存在を知らないとしても)命の終わりに臨めば、阿弥陀如来が来迎して往生させてくれるので、毘沙門天を信仰しても往生は可能です。
もちろん、その延長として「死」に対する「生」の領域においては「死にまつわる不安から自由になれる」という現世利益をおもちになりますが、阿弥陀如来という仏格の本質はあくまでも不可知である来世に関わることです。
浄土信仰に代表される仏教の体系は「唯一神との契約」を必要とする信仰体系ではなく、多神教の系統に属しますから(特殊な例外はあるにせよ)本尊以外の神仏を信仰することが修行の妨げになるとは説きません。

生きている間は毘沙門天の加護を頼み、死後の往生は阿弥陀如来の本願を頼む。
そういうことです。


なお、真言の区別についてですが、真言とはサンスクリット語やパーリ語のフレーズを似た音をもった漢字で表記したものです。そのうえ漢字表記が日本語的に訛ったものですから、現実の発音にはブレが生じます。さらには慣習的に東密(ナウマク)と台密(ナマク)など宗旨ごとに互いに発音を変えているのが現実です。そもそも、真言の出典元の経典がいくつか存在すれば経典ごとに真言が異なっている可能性もあります。
厳密な意味でどの真言を使うべきか、とは密教の修行をするうえでの口伝の問題になりますから、逆にいえば日常勤行で使う真言は厳密性を重んじる必要もないとかんがえます。
ちなみに国書刊行会『ダラニ大辞典』より逐語訳を。
・ナマク(namah: 帰命)サマンダボダナン(samanta-buddhanam: 普遍諸仏)ベイシラバダヤ(Vaisravanaya: 毘沙門天)ソワカ(svaha: 成就)
・オン(om: 帰命)ダンダダラヤ(danda-dharaya: 執棒者)ソワカ(svaha: 成就):執棒者は毘沙門天の持物(宝棒)からくる別称


Name: JUN
Date: 2011/05/22(日) 15:37   No:4280
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Title: Re:真言について    
僧侶K様、TAKESHI様、天台沙門様ありがとうございます。
先祖の仏壇はまだ親が健在なので実家(隣)にあります。
小さいときから先祖の命日などにはお坊さんが実家に来て、必ず家族でお参りしてました。先祖のためにもこのまま宗派は変える気はしませんが、自分の毘沙門天さまへの信仰、密教への興味は変える気もありませんが、みなさまの意見で気持ちが楽になりました。
あと、毘沙門天様は自宅の北側に寝室があるのでその北に置いて、
真言と般若心経を唱えています。
般若心経を唱えると心なしか気持ちが落ち着く気がするのです。
般若心経も唱えてもいいですか?


Name: TAKESHI
Date: 2011/05/23(月) 03:06   No:4283
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Title: Re:真言について    
『毘沙門信仰の手引き』という、JUNさんのような毘沙門信仰を持つ人にぴったりだと思われる入門書がありますので、読んでみてください。JUNさんがお知りになりたいことはカバーされているんじゃないかと思います。そのほうが話しが早そうです多分(^^)。

Name: JUN
Date: 2011/05/27(金) 07:36   No:4293
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Title: Re:真言について    
浄徳寺隆胤様のお寺では毘沙門天さまをお祀りなさってるようなので、できればよいアドバイス頂けませんか?
よろしくお願いします。


Name: jun
Date: 2011/06/23(木) 12:55   No:4353
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Title: Re:同志発見♪    
田舎者さま、毘沙門天さまのご加護を頂けてお幸せですね。
私は目に見えてのご加護はありませんが、信じて信仰していきたいと思います。
奈良は遠くて行けませんが、信貴山は有名ですよね。
行ってみたいです。
般若心経は唱えると心が休まるので真言と一緒にこれからも毘沙門天さまに祈願して行きたいと思います。実家の浄土真宗もそのまま大切にしていきます。
ご意見ありがとうございました。


Name: 浄徳寺隆胤 [URL]
Date: 2011/06/29(水) 17:23   No:4364
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Title: Re:真言について    
横からごめんくださいませ。
当方では、檀信徒の皆様には、『おんべいしらまんだやそわか』とおとなえするように指導致しております。
いろいろな御真言がございますが、僧分がとなえるものと、在家がとなえるものとでは、はっきりと区別いたしております。
印もございますが、在家の方は印をくんではなりません。それが心配でしたので、老婆心から一言申し添えました。御無礼はご容赦くださいませ。
合掌


Name: JUN
Date: 2011/07/02(土) 16:51   No:4368
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Title: Re:真言について    
浄徳寺隆胤さま。ありがとうございます。
印はくんでません。
オンベイシラマンダヤソワカで私もお唱えさせていただきます。
ご指導感謝いたします。<(_ _)>




Name: 浄土真宗
Date: 2011/06/26(日) 17:27   No:4361
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Title: お位牌について    
初めて相談させていただきます。

私の実家は母が老人施設に入所しており、父は15年前に他界しております。
実家のお仏壇には父方2、母方1のお位牌が計3あります。
それぞれご供養する本家はあります。
今後私の母が他界した場合、私の家にお仏壇とお位牌を持ってきてご供養する予定ですが、お位牌を最小限にするため返納したいのですが、どこのお寺さんにどのようにお願いすればよろしいでしょうか。
また、その場合の相場と言うものはおいくらぐらいでしょうか。
ご教示ください。



Name: 天台沙門
Date: 2011/06/27(月) 10:40   No:4362
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Title: Re:お位牌について    
将来的に、御母堂と御父君の位牌に併せ、ご実家の仏壇とお位牌3基を引き取るについて、とのご相談と理解します。


Q1.どこのお寺さんに?
A1.第一候補は御父君のご葬儀をしていただいたお寺です。第二候補は父方の菩提寺さんですが、こちらが御父君の葬儀をなさったならば最善の選択でしょう。第三候補は母方の菩提寺さんです。
御母堂が他界なされ葬儀をする段に、御父君(配偶者)の年回法要をご依頼なさっているお寺に葬儀を依頼なさることをお考えでしたら、そのお寺さんにご相談なさるのがよいでしょう。

Q2.どのように?
A2.率直に、位牌をまとめたいので新しい位牌の開眼(魂入れ)と古い位牌の撥遣(魂抜き)をお願いします、とお申し出なさればよろしいでしょう。その際、お寺さんから、古い位牌に記された方の扱いについてお話があると想像できます。

Q3.相場と言うもの
A3.申し訳ありませんが、「相場」には地域姓があるので具体的金額についてはお答えしかねます。ですが、年回法要と同額と考えてよいのではないでしょうか? 私が預かる寺の場合、故人の四十九日法要で位牌の開眼をしており、その際に古い位牌を新しい位牌にまとめるなどの作法もしております。

以上、ご参考までに。




Name: 朝日
Date: 2011/06/25(土) 21:36   No:4357
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Title: 単立寺院について    
私がよく行くお寺は、○○宗の単立寺院です。この度、そのお寺にお墓を購入しようと思い立ち、具体的な資料を貰いました。読み進めていくうち、檀家寺ではないこと、従って墓の管理維持費も遺族は不要であること、寺院の運営は全て一般参拝者からの寄付により成り立っていることなど、いろいろなことを具体的に知ると同時に、いくつかの疑問点が湧いてきました。そもそも、単立寺院とは何かという疑問です。お寺のイメージというと、○○宗という大きな傘の中に本山から末寺に通じる縦の組織が構成されていると考えていたのですが、単立寺院となると○○宗に在りながらどういう性格を帯びているのでしょうか?また、単立寺院であるがゆえ、将来住職が絶えたり、または一般参拝者が激減して経済が困窮した場合、上級寺院からの住職の異動や様々な面の救済等は行われず廃寺となる危惧もあるのでしょうか?一般参拝者の身分で、お寺運営に言及する内容が含まれるため、直接は聞けず、ここで質問しました。お墓を購入する予定があるため、埋葬後のお寺の行方が気になります。宗により単立寺院の有り様も異なるでしょうが、一般的なお話が聞ければと思います。お願いします。


Name: 水波坊 [URL]
Date: 2011/06/25(土) 22:47   No:4358
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Title: Re:単立寺院について    
単立にも色々あります。
たとえば秋篠寺や法然院などの有名寺院も単立ですし、須磨寺などもほとんど単立寺院といってもいいかと思います。他にも、ちゃんとした寺で単立寺院、というところもたくさんあります。
一方、霊感商法的なことをする寺院に単立が多いのも事実です(が、これは宗門寺院でもそういうところはあります)。

廃寺云々ですが、たとえば宗門寺院でも、実は寺院は個々に独立した宗教法人ですから、いわばフランチャイズ契約をしているコンビニのようなものです。ですから、「倒産」はあり得ますし、本山がそういう寺院を救済するかと言えば、ほとんどしないと思います(歴史のある大寺ならいざ知らず、普通の寺院に対しては…)。
もちろん傘下寺院ですから、本山から多少のアドバイスや便宜はあるかもしれませんが、一般的には、単立と事情はそう変わらないかと思います。

その上で…宗門寺院であることのメリットは、3つです。
ひとつは、「伝統宗派という看板」の信用。もうひとつは徒弟教育の便宜(道場に入るための資格等の問題)。あとは地域の結衆・組寺があれば、葬儀や行事の時に助法を仰げる事。要はこれだけと言ってもいいでしょう。
逆に言えば、ここさえクリアしていれば、単立でも問題ないわけです。

結局、具体的な運営や後継問題に関しては、宗門寺院か否かというよりも、個々の寺院の事情が大きく作用する部分だということです。


Name: 朝日
Date: 2011/06/26(日) 13:12   No:4360
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Title: Re:単立寺院について    
水波房さま回答ありがとうございます。コンビニの喩えでよく理解できました。宗門に在っても単立であっても、お寺の維持管理というのは相当の努力が必要なのですね。お寺の伝統はもとより、いかに信者の方々を惹きつける魅力を付加するか、その必要性がよく理解できました。魅力という点では、私の通う単立寺院も人との交流を盛んにし、大勢の人に慕われているようです。お墓選びの参考にしたいと思います。



Name: hotoke
Date: 2011/06/24(金) 14:30   No:4356
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Title: 仏像の取り扱いについて    
タイトルが変わりましたが、天台沙門様、仏壇の御魂抜き入れについてご丁寧なご回答ありがとうございました。
ぜひ、御魂抜き、開眼供養をさせていただきます。
さて「仏像の取り扱いについて」ですが、実家の仏壇の中にご本尊の阿弥陀様以外に主人のおばあちゃんが大事にしていたお地蔵様をお祀りしています。
故人が大切にしていたもの・・・ということで、仏壇の中に入れているようですが、本当はこのようなことをしてもよいのでしょうか?
よく仏壇の中にはご本尊様以外の仏像は入れてはいけないと聞きます。仏壇はご先祖様が住むところだから、他の仏像があると、ご先祖様が恐れおおくては入れないというのが理由だとか???
それを聞いて私自身は、自宅の寝室(将来、仏壇を置く予定になっている部屋)に置いてあった普賢菩薩と勢至菩薩の仏像を箱に収納してしまいました。
地蔵、普賢、勢至菩薩、どの仏像も御魂入れなど何もしていないお土産屋さんで買って来た飾り物です。
御魂入れなど何もしていない仏像でも、取り扱いに少し神経質になっています。
どなたかよいご教示をお願いします。



Name: 天台沙門
Date: 2011/06/26(日) 10:00   No:4359
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Title: Re:仏像の取り扱いについて    
仏壇の起源は天武天皇が「各家で仏像を祀って供養せよ」との詔を出したことにあるとされています。つまり、仏壇は仏像を安置する場であって、仏教が一般化するにつれて位牌(先祖霊の依代)を安置するところに変わっていたと想像できます。

大きな枠組として、仏壇および神棚(さらには床の間)というものは、家庭のなかでの神聖所だという点があります。ですから、神聖な所に置くべきものであれば置いてかまわないのです。例外は神棚には「死」に関わるものを置かないということくらいでしょうか。
神聖なものというのは、仏像・仏画・位牌・神像・祈祷札などですし、もちろんご自身が大切におもっている物(写真・遺品・記念品)も同様なので、「故人が大事にしていた」という理由から本尊の阿弥陀如来の脇に地蔵菩薩を安置することにも問題はありません。

さらにいえば、日本の伝統的な信仰形態は神仏習合ですから、カミをホトケとみなして祀ることもホトケをカミとみなして祀ることも自然なことです。この習合した形態が胡散臭く悪いことのようにとらえられるようになったのは、明治維新期の神仏分離令(廃仏毀釈)やら近代的宗教学の影響で、(一神教的な)純粋な形式をもつ宗教ほど優れているという一種の誤解が常識となったためです。


さて。開眼をしていない仏像の件です。
私は、儀礼の効果を認めたうえで、撥遣と開眼をお勧めしました。これと矛盾するようですが、「開眼をしていない飾り物」であったとしても、それに対してなにごとかを感じていらっしゃるのであればれっきとした「仏さま」であるとも考えます。私の「日本人は文化的に位牌を死者の象徴と知っている」との発言と同様です。
神社のご神木や、自然崇拝の対象となっている巨石などは、仏教的な開眼供養だったり神道的な勧請祭祀を行わなくても、カミが依ってくださる存在です。儀式があって神聖なモノになるのではなく、それを神聖な物と感じる人の気分が先にあるのです。

私は、いろいろな仏像も一緒にご安置なさって、日常生活の中のそれぞれの場面においてそれぞれの加護を祈られれば善いと考えます。




Name: hotoke
Date: 2011/06/24(金) 08:12   No:4354
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Title: 仏壇のお引越し    
現在、大阪の実家に仏壇があり、義父の死後は京都の我が家に仏壇を引越しさせるつもりでいます。
仏壇の引越し(移動)に関して、義父やお仏壇屋さんなどは御魂抜き、御魂入れをするように勧めていますが、みなさんは本当にそうしてらっしゃるのでしょうか?
引越しによる御魂抜き、御魂入れにはどのような意味があるのでしょうか?
御魂抜きをしないとずっと御魂はその家に宿ったままなのでしょうか?
しかし抜き入れなどは本当に霊などを扱えるお坊さんでないとできないような気がするのですが・・・?



Name: 天台沙門
Date: 2011/06/24(金) 13:30   No:4355
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Title: Re:仏壇のお引越し    
「御魂抜き=撥遣供養」と「御魂入れ=開眼供養」は、なさることをお勧めします。


例えば、社寺が所蔵している国宝・重文級の仏像・仏画を展覧会(修復や調査)のために移動させるときには撥遣の作法をします。年末の煤払いのときも同様です。
なぜかというと、これをしないと畏れおおくて「物」として扱えないのです。
この「物として扱えない」感覚は、僧侶や神職に限らず輸送に携わる人ももつようです。その理由を俗っぽくいえば、仏壇や仏像・位牌に「魂が入ったまま」で取り扱ったとき、万が一、破損させてしまったときに精神的なショックが過重なものとなることが想像できるからです。
いうまでもなく、魂が入っていようがなかろうが、大切な物を大事に扱うことは当然なのですが、ご自身で何かをするとして、もし破損させてしまったときに「これは物にすぎないから、祟りやお叱りがあるわけはない」とか「悪いことが続くが、あのときに傷をつけたこととはまったく関係ない」と将来にわたって確信を持ち続けることが可能でしょうか? (註:ここでの私の言説は、撥遣をせず破損させると祟りがある、という主張ではないので念のため。)
「御霊抜き」をする理由はそういうことです。


ひるがえって「御霊入れ」をする理由は、それが「単なる物」が「神聖なる象徴」に変容する儀式だからです。
はっきり申し上げて、日本の文化の中で育ってきた者にとって「位牌」が「死者の象徴」であり「仏壇」が「祖霊のいる場所」であることは説明の必要がありません。ですから、わざわざ儀式をせずともかまいません。しかし、あらためて儀式をすることで、儀式に参加した全員が神聖なる物であるという共通認識が得られるという長所に着目すべきと考えます。



なお、仏壇そのものに御霊が宿るかどうか、宿るとしてどういった御霊なのかということを考えることは一興とおもいます。

私自身についていえば、「霊」というものが実在していればおもしろいとおもいますが、それが実在するとしても存在を認知する能力をもちあわせません。よって、私は霊を扱えない僧侶ですが、上記の理由から「霊」の実在を前提とせずとも撥遣と開眼を行うことにためらいをもちません。




Name: たけやん
Date: 2011/06/21(火) 12:28   No:4351
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Title: 葬儀をお寺さんのみで行えるのでしょうか。    
この震災で義父一人が死亡で荼毘にされています。
他に義母と義祖母と息子の三人が行方不明です。
来月に葬儀とお別れ会を一緒にしようと思っています。

来週に喪主になる義弟が寺に相談に行きます。
寺は全壊で住職も亡くなられましたが、息子が研修旅行?で
難を逃れて、斎場近くに仮寺を置いたとのことでした。
詳しくは聞いてないのですが、そこで皆一緒にできるようなことを
言ってたそうで、会食も知り合いの仕出し屋さんで3,000円で
用意してくれるらしいです。
マイクロバスもあり、30名までなら送迎もするとのことです。
この提案ってのは、葬儀屋さんを使わなくて葬儀を行えるという
ことでしょうか?
普通は来ていただいたかたに、お塩や手ぬぐいかお茶を渡したり
していますが、お寺さんで準備してくれるのでしょうか?
後、祭壇や花の準備もです。
今回は、遺体搬送や荼毘などはありませんので、お寺さんだけで
できるなら、金銭面でずいぶん助かります。
できるなら、お布施と葬儀費用でいくらぐらいかかるでしょうか。
あんまりない事例なので、お知恵をお貸しくださいませ。



Name: 天台沙門
Date: 2011/06/23(木) 11:10   No:4352
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Title: Re:葬儀をお寺さんのみで行えるのでしょうか。    
寺を預かる者として申し上げれば、僧侶だけで葬儀全般を行うことは不可能ですが、ご質問の文章を読む限りにおいて私ならこうするなという想像は以下のようになります。

1・お茶を入れたりなど、会葬者がご自身でできることはしていただく。
2・式場には位牌を安置するだけで祭壇などをとりたてて設けることはせず、本尊さんをはじめとしたあるだけの仏具で行う。
3・御供物や花は施主さんに支度していただく。
4・会食は仕出屋の店舗にマイクロバスで移るので、会食時のご接待は店員さんの担当になる。

このような形式で行えば、お寺さんに支払う費用は布施料と卒塔婆建立費だけで済みます。もちろん、供物や花や食費などの実費はご自身で支払うことになります。なお「斎場近くに仮寺を」とのことですから、その斎場を所有している葬儀社が法務以外の実務を代行するのかもしれません。



正直なところを申し上げれば、「詳しくは聞いてない」件については住職さんに詳しくお訊ねいただくのが最善です。
例えば「3,000で用意」にしても、御膳一人前が3,000円というだけで飲み物は別勘定のはずです。その他、マイクロバスの手配料は別かもしれません。それに布施料などは地域の相場が異なりますから金額は具体的に訊ねられたほうが誤解が生じません。
以上、ご参考までに。




Name: たけやん
Date: 2011/06/01(水) 09:59   No:4302
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Title: 「行方不明と死亡」4人の葬儀などの相談    
この震災での葬儀などについてお知恵を貸してください。
行方不明が3名、死亡が1名です。

震災で家族四人が犠牲。義父、義母、義祖母と私の8か月の息子です。

義父だけ1週間後に発見。
火葬場が混み混みだったので、荼毘にできたのは3週間以上後になりました。
葬儀も出来ない状況だったので、火葬前にお別れ会をしただけです。
なので位牌も無しです。

住職は津波に巻き込まれて亡くなってしまいました。
墓も倒れて寺が全壊です。
住職の息子は家業を継ぐための研修旅行に出かけていて無事でした。
仙台市内の別の寺院に避難しているそうです。

最初は皆発見されてから一緒に葬儀をするつもりでしたが、いまだに見つかっていないのです。
このままなら三ヶ月後に死亡認定になると思います。
葬儀は合同慰霊祭などと合わせてみたらどうかと思いましたが、
それでもどのようにすればいいかわかりません。

お金はあんまりないです。ですが親族は田舎住まいなんできちんとしたことをしてほしい、見舞金を頂いた人にはお礼の手紙を送れとも言われています。
僕は義父母の家系ではないので、義弟である長男が取り仕切って長女である妻がサポートすればいいですが、
うちの息子は私の家系なので、宗派も違い、親族も墓も離れた大阪です。
ちなみに本家になるのですが、墓と先祖を受け継ぐだけでお金はない跡取りになります。
その墓には先に私の母が入ってます。


義父の葬儀と義母と義祖母のお別れ会と僕の息子別々に考えるのが一つの方法だと思いますが、どうなんでしょうか。
遺体なき葬儀。。。
自身の墓は先に書きましたが、大阪にあり、お寺も大阪の浄土真宗(本願寺派)です。
こちらの同宗派にお願いするのがいいのか、大阪に帰ってやるのがいいのか。
義父母は曹洞宗なんです。

ほんとわかりません。

ヒントやちょっとの知恵、アイデアでもいいので教えてください。



Name: 勝運寺山主
Date: 2011/06/03(金) 07:19   No:4306
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Title: Re:「行方不明と死亡」4人の葬儀などの相談    
たけやん様
心中お察しもうしあげます。また震災にてなくなられましたご家族のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
宗旨宗派にこだわる必要はございません。
遺体無き場合は被災地の土を御棺の中に少量入れ荼毘にするということをお勧めします。
また、個別に葬儀を出すと金銭的にも負担が多いかと思いますので市町村が行なう合同慰霊祭で十分かと思います。
今は生き残った人間の生活を優先してください。
葬儀を行なうのも震災復興後ゆとりが出来てからで十分です。
見舞金をお送りいただいた方には礼状だけで十分です。
余り無理をなさらないでください。
出来る範囲で十分です。


Name: 天台沙門
Date: 2011/06/03(金) 10:59   No:4307
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Title: Re:「行方不明と死亡」4人の葬儀などの相談    
まずは、お悔やみを申し上げます。



ご質問の内容のうち、「葬られる人と喪主との関係がどうあるべきか?」という点にご回答いたします。

一般論として、葬儀の喪主は「死者に最も近い血縁者」が行うべきとされています。
かつては「ご本家」が行っていた場合もありますが、現在では配偶者もしくは男性の長子が行うことが一般化しているといってよいでしょう。ですから、義祖母様と義父母様の喪主は義弟様が務められることがふさわしく、お子さまの喪主は父親である貴殿が務められることがふさわしいでしょう。


次に「葬儀と寺との関係」についてご回答いたします。

さて、義祖母様・義父母様については、曹洞宗の法儀に則り地元の菩提寺に葬儀をお委せすることが自然でしょう。ですから問題となるお子様の葬儀についてです。これは貴殿の生活基盤が東北地方にあるのか大阪にあるのか、によって異なります。
現在および将来の生活基盤が東北地方にあるならば、将来的には大阪から墓所を東北に移転させることを前提として、本願寺派の法儀による葬儀をなさることができます。
生活の基盤が大阪にあったり、将来的に大阪に基盤を移されるのであっても、ご遺体がないという特殊な事情から納骨法要の要不要という問題がありますから、同じく東北地方において本願寺派の葬儀をなさるべきでしょう。



葬儀の目的は、遺された者が「悲しい寂しい辛い」という感情を受け容れ乗り超えるということです。葬祭儀礼に参加することは、同様の感情をもっている人が自分だけではないという事実の確認作業であり、その際に宗教的儀礼が効果的なのです。
どうしても、最低限の時間と同じ感情をもつ人々の支え合いが必要です。その「時間」の単位として、初七日・四十九日・一周忌・三回忌などが経験的に求められてきたとお考えください。


Name: たけやん
Date: 2011/06/21(火) 12:10   No:4350
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Title: Re:「行方不明と死亡」4人の葬儀などの相談    
ありがとうございました。



Name:
Date: 2011/06/17(金) 22:41   No:4338
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Title: 般若心経    
このお経に、十年来強迫神経症を患い、自殺サイトの常連だった私は救われました。私は自分が、いつか悪い奴に襲われるのではないかという強迫観念から、血の恐怖と苦しみを味わいました。しかし「私」も「悪い奴」も突き詰めれば空である、そして私の中で起こっている対立する上記の二者は、実は総体の一の空であり、その総体の空こそが真の『私』であることに気づかされました。『私』に立ち戻るとき、『私』の中に「私」も「悪い奴」の区別もなくなり、悪い奴に襲われるのではないかという強迫観念=葛藤が消えました。般若心経の解釈において、私が合点したような解釈は正しいのでしょうか?


Name: 一九
Date: 2011/06/18(土) 06:30   No:4340
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Title: Re:般若心経    
言葉がまとまり過ぎているのが気になりますが、もし般若心経の解釈に先入観がなければ、それは真理の啓示だと思います。
おそらく救いの力(神仏)が降りているんでしょうね。
正しいかどうかは悪い奴と同じ理由で、正しいとは言いませんが。^^

自殺サイトでどのような経緯でそこへ導かれたのですか?
普通は逆効果になるような気がしますが。
般若心経や仏教に興味を持った経緯も教えていただけると手がかりになります。


Name:
Date: 2011/06/18(土) 10:19   No:4342
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Title: Re:般若心経    
一九さんありがとうございます。般若心経との出会いは、たまたま救いを求めたお寺が縁でした。写経に興味がわき、意味よりも写経をすることで快癒の利益を得られるのではないかと考えたのです。来る日も来る日も、般若心経の意味や読み方など解さないまま写経をつづけたのですが、次第に、言葉が頭の中に入ってきました。そして、スレの気づきは、その繰り返しの中で得ました。目も耳も鼻も意識も、あらゆるものが空である、というわけです。初めは意味が不明で、般若心経に対して疑問さえ湧いたのですが、写経をつづけるうち、言わんとしていることが入ってくるようになりました。。日常に生きている私は、それまで、目・耳・鼻・意識と、あらゆるものが別個だと思い込んでいました。しかし、般若心経の言う空とは、物の下地という意味だと感じたのです。下地の存在に気づかされたことで、色々なものが合点がいくようになりました。私が目で見、耳で聞き、意識で意識を同時にできるのは、個別だと思い込んでいたものが個別でないからである、下地があり、連鎖性があるからである、そして、空という下地の総体こそが『私』ではないか、だからこそ『私』は目で見、耳で聞き、意識で意識を同時に可能なのだと気づかされたのです。「私」が「悪い奴」に襲われるという意識も、私の中に起こる以上は、実は総体の空である真の『私』の一部であり、両者は、『私』の構成体=下地だったのだと気づかされたのです。「私」の外側に「悪い奴」がいるのではなく、両者が包摂したところの総体が『私』なのだと気づいたことで、「悪い奴」は消えました。

Name: 天台沙門
Date: 2011/06/18(土) 14:59   No:4343
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Title: Re:般若心経    
帰納的に(つまり結果から)考えれば、強迫観念=葛藤すなわち「苦」からの解放に際し、『般若心経』に対する関心と理解が役に立ったというのですから、その関心と理解は「正しい」ものであったと結論できます。



>「私」も「悪い奴」も突き詰めれば空である、そして私の中で起こっている対立する上記の二者は、実は総体の一の空であり、その総体の空こそが真の『私』であること

この認識は、仏教の基本教理である「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の「諸法無我」を具体的な形式で理解した一例といってよいでしょう。

「無我」ということを個別具体的な人格に即していえば、「われ」すなわち自分自身の自我は独立して存在しているわけではない、という主張です。いま現在の人間関係やら自分自身の成育歴やら生まれ育った時代や社会やら、そういった因縁によってのみ「われ」は存在しています。もしかしたら、「悪い奴」の存在を前提として「私」が存在するのかもしれないわけですし。
『般若心経』においては、「照見五薀皆空」から導かれる「是諸法空相」との認識のうち、「諸法=もろもろのありかた」を「自分自身の人格」にあてはめれば「自分自身の人格は固定した実体をもたない」となるというわけです。
つまり演繹的に(今度は理論先行的に)考えても貴殿の解釈は正しいものと理解できます。

ただし、厳密にいえば「空」という言葉は「固定した実体をもたない」という事物のありかたを示す認識論的言葉であって、一切の諸物を包括する超越的な存在に対して用いる存在論的呼称ではありませんので、「貴方の解釈は違う」と主張する人もいるはずです。しかし、空観という修行法に則ってのものと考えれば多少の違いは問題になりません。
大切なことは、そう理解したことによって貴方が苦から解放されたという事実です。



ユング心理学では、誰の人格においても「影」という「悪い奴」が不離の存在であることを認め、「影」を人格全体(セルフ)の一部として統合することを「自己実現」と称しています。ご関心をもたれたなら、河合隼雄『明恵・夢を生きる』ですとか、アーシュラ=ル=グゥイン『影との闘い〜ゲド戦記⑴』のご一読をお勧めします。


Name: 一九
Date: 2011/06/18(土) 20:59   No:4344
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Title: Re:般若心経    
素晴らしいですね。
般若心経が言わんとしていることは、その表現で合っていると思います。
やはり神仏の救いが降りていると思いますよ。
透知能力(直感)は誰でも持っていて、それを通して神仏が働きます。

おそらく自分ではお手上げになって、般若心経(写経)や神仏に救いをゆだねた(任せた)のではないかと思います。
神仏は全面的にゆだねられたとき初めて助けてくれます。
自分でもがいている間、神仏は手出ししないんですよ。

善悪は相対的なもので、それは私たちのエゴが作っています。
強迫観念の恐怖(不安)もエゴの作用です。
私たちの本質(下地^^)は1つのもの(絶対性)で、エゴが自分なのではないことに気づけば善悪も恐怖もなくなります。
それを理解するのではなく体験するのですから、いっぺんに治るのでしょうね。

般若心経の解釈は、これがぴったりとしませんか?
http://www.pure.cc/~zero/hannya.htm
この方は「宇宙根源の魂」という言葉を使っていますが、自分なりの言葉に置き換えればよいと思います。


Name: 一九
Date: 2011/06/20(月) 05:26   No:4346
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Title: Re:般若心経    
一時的ですがそれはさとりの体験だと思いますので、感謝して体験をよく覚えておかれたらよいと思います。


Name:
Date: 2011/06/21(火) 12:10   No:4349
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Title: Re:般若心経    
天台沙門さん、一九さん回答ありがとうございます。コメント、大変参考になりました。今にして思えば、般若心経は心をほぐすヒントを与えてくれたように思います。自我(執着)を捨てる、という発想を得られたことが大きかったです。写経と同時に、お寺の内観堂に通ったのも良かったのかもしれません。



Name: いろは
Date: 2011/06/19(日) 11:24   No:4345
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Title: 先祖供養と陰膳    
はじめまして。
家族関係で、悩みがあり、主人の同僚の知り合いの霊能者のような方に見ていただきましたら、主人の先祖供養が、出来ていないからだと言われました。
義父は他界しており、次男なので、先祖代々のお墓とは別にお墓を建てました。(同じ霊園内)
主人の妹さんが幼い頃に亡くなっていますので、お地蔵様もあります。
義父の親戚、縁者とはあまり交流はないので、五代前ぐらいまでのご先祖様しかわかりません。

我が家には仏壇はありません。
主人の実家にはあります。

それから、水子供養も出来ていないから。とも言われました。
私は、二回、流産を経験しています。
死産、堕胎ではありません。
けい流流産。妊娠初期の初期。の流産です。

水子とは…どの段階でそうなのか、いろんな説がありますが。
正式な水子供養はしていません。

先祖供養、水子供養をするのに 陰膳をしなさい。
と言われましたが、どのようにすればよいのか、わかりません。

今は、二階の床の間の一画に、水とお塩を置いていますが、
主人は足が少し不自由なので、
一階の食卓の電話台に毎食の食事をお供えしています。

陰膳の仕方。何をお供えすればよいのか、
お経を唱えるのか、など、
教えていただけませんか。






Name: 天台沙門
Date: 2011/06/21(火) 10:32   No:4348
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Title: Re:先祖供養と陰膳    
第一義的には、陰膳を供えるよう勧められた方に尋ねられるのが最善です。



民間習俗としての「陰膳」は、家にいない人の無事を願い、あたかもその人が食卓にいるように食事を供えることが元々です。また、神と人が同じ物を食するということが人類普遍の祭儀の基本ですから、故人に対する「陰膳」もご家人が召し上がられる物と同じお食事をお供えになればよいと考えます。ですから、ご質問の文章中の「電話台」という言葉が「電話台を神棚や仏壇のような場所に見立てて」という意味でしたら、その方法で大丈夫です。
ついでながら、位牌をお持ちでないとのことですから、その代わりに、ご先祖や水子さんという祀られる存在の象徴物として一輪挿しの花を一緒に供えることをお勧めします。

経文を唱えるかどうかについては、まずは、そこにどなたかがいらっしゃると想像して「めしあがれ」・「おそまつさま」というお気持ちをもたれることが大切です。そのうえで、ご自身が必要と信じられるならば唱えたほうがよい(『般若心経』が無難)ですし、単に形式として唱えたいというのならば無理に唱えることはお勧めしません。



蛇足ですが、私自身は「先祖供養や水子供養をしなかった」という原因によって結果としての「家族関係に悩み」が生じるのではなく、「家族関係に悩みが生じた」という原因によって「先祖供養や水子供養をしなかったことが悪かったに違いない」という結果が生じるというべき、という立場をとります。
また、自分自身と縁のある人のうち、先に亡くなった方々に対し「先祖」や「水子」という区別をする必要もありません。大事なことは、生死や縁の濃淡を問わず人々の間で生きていることを自覚することでしょう。





 
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