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Name: ゆい
Date: 2009/06/13(土) 11:25   No:2713
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Title: 納骨と母の事    
今年2月に父が亡くなりました。
半分医療事故ですが、その病院を選んだ自分にも悔やみがあります。

肝心の納骨ですが葬儀の際混乱しているので父の実家他見から来てもらうのもと言う事で近い同じ宗派に頼みました。

百か日も過ぎ納骨も考えています。
戦後の色々あって父は戸籍上は次男ですが父の父の弟が再婚し
父だけ養子でそれを内緒で5人兄弟は育ちました。
養子と知ったのは父の育ての父が亡くなった時で
財産は放棄しました。
私は嫁に行き一人っ子。お墓を建てるにも母も74歳で・・。
そこで実際は育ての父も入っているので同じお墓にと言って
一応はOKしてくれましたがそこの次男が障りがあるといけないのでと断られました。

そこで大阪で有名な納骨のお寺に納骨しようといいました。
母は一旦納得するも階段が多いとかで頓挫。
今の来てくれているお寺は納骨の場所はあるがまだ納骨堂が建っていないとの事。
まぁ納骨堂を建立の際寄付とかあると思いますがそこにしようと
話は一度まとまったのですが、
母はやはりお墓にこだわり葬儀社の人とお墓めぐり。
今家に来てくれている元ヘルパーさんが日蓮系の宗教をしているので
その影響も強いようで、普通のヘルパーさんにと言っても気に入ってるからと話はできない状態。
同居も考えていますが私は体も弱くメンタルも病んでいます。
父の病院の件で失敗したので強引に決めるのは自信がありません。
ですので貴方が後30年はお墓を見てくれるだろうと言われても
自信が無いです。
直接お寺に行って相談すればウチにとなってしまうので
ここで相談する事にしました。
お返事お待ちしています。



Name:
Date: 2009/06/13(土) 12:58   No:2714
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Title: Re:納骨と母の事    
死んでも墓の下なんかにおらんよ。と、名言がございます。お墓にこだわらず、納骨堂で良いと思いますよ。手を合わせる場所で1番大切な場所は、お寺さんか、自宅のお仏壇ですよ。お父様は仏様となって、こんな気持ちではないでしょうか?「おいおい、そんな私の墓の事で悩まんでくれ、それから自分の事を責めるのだけは、よしなさい、私の願いはな、ただ妻や娘(ゆい)や孫の幸せを思って願い続けてるんやで、後悔ばっかりして私の死を無駄にせんでくれよ。いつでもどこでもお前たちを見守り、ちゃんと導いていくらな。それがこれからの私の仕事や。」と、それにちゃんと応えていく、今までのご恩に報いていく、何があっても強く正しく生きぬいていく。これが何よりもの、本当の供養なんですよ。お墓じゃなくてね。

Name: 巳朱
Date: 2009/06/13(土) 13:18   No:2715
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Title: Re:納骨と母の事    
ご相談の趣旨がはっきりわからないのですが・・・。

えと、ご実家のお父様が亡くなり、納骨をどちらの寺院にするか、それともお墓を建てるか決めかねている。
ゆいさんは、一人っ子で他家に嫁いでいるので、ご実家は高齢のお母様だけで、跡継ぎがいない状態。だからゆいさんとしては、ご実家のお墓を建てたとしても後々まで供養ができるかどうかわからない。
しかし、お母様は、お墓を建てたいとおっしゃっている。
ゆいさんは、メンタル敵な弱さもあり、お父様の病院選びの際自分が口出しした事が失敗だと思っている事もあり、お母様に意見する事をためらっている。

・・・現状は、こんな感じですかね?


この現状の延長にあるだろう事は、お母様がお墓を建ててお父様の納骨をされるだろう事でしょう。
今、メンタル敵に弱い状態でお母様に対立しても苦しいだけだし、お母様の望むようにさせてあげた方が楽なのでは?

あまり先の事を考えると余計にしんどくなりますよ。
ゆいさんの嫁ぎ先の事情も、年々変わります。ゆいさんのご実家の事情も年々変わります。ゆいさん自身も年々変わっていきます。
その時その時、変わった事情に合わせて、どう対処すれば最善かを考えてゆけばいい。

ご供養の本質は、亡くなった方を思い出し、魂の安寧をお祈りし、私達生きているものが生かされている事を感謝する事です。
だから、ご供養するために苦しんではいけない。それぞれが無理しない程度に供養をすればいいことなので、変化した事情に合わせて、いくらでも手はあります。

今は、お母様がなさりたいようにさせてあげることで、お母様のお心が安らぐことが、ゆいさんの心の安らぎにもなるのではないでしょうか?

うんと先の事を考えて憂鬱になるのを杞憂といいます。
誰にとっても先の事など確定していないのだから、それはまだ、考えるのに早いことなんですよ。
その時が来てから考えるので、十分間に合います。


Name: ゆい
Date: 2009/06/13(土) 17:29   No:2721
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Title: Re:納骨と母の事    
釈さん
ありがとうございます。
私はお仏壇もあるのだし、釈さんの言われるように
父の気持ちも同じと思います(悩む事)
そう話しても一旦は母は納得してもすぐ
やはりお墓に、土に返したいとと思い返すそうです。
要は供養する気持ちなのですが・・。


Name: ゆい
Date: 2009/06/13(土) 17:56   No:2722
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Title: Re:納骨と母の事    
巳朱さん
ありがとうございます。
文章が下手ですみません。

離婚しなければ主人の名前でお墓があるので
私が犯罪を起こさない限り入れてもらえると思います。

母の言うようにお墓を建てて希望通り同居もして
母の心の安寧を考えてあげるのが一番かもしれません。
安い買い物ではないので・・・。
考えすぎたのか微熱程度ですが出て
めまいでやっとPC前に座れました。
お返事が遅くなってすみません。





Name: tarako
Date: 2009/06/02(火) 23:02   No:2699
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Title: 分骨について    
近々主人の家の方のお墓を、遠方でなかなか墓参りなどにいけないからとの理由で分骨することとなりました。
納骨の日取りが決まったとの連絡が義両親からあったのですが、
その際『お坊さんは頼まない予定』とのことでした。
私の中ではそんなことありえないのでは?と思うのですが・・。
納骨の際などに読経をあげるなどそういった決まりはないものなのでしょうか?



Name: 天台沙門
Date: 2009/06/03(水) 13:55   No:2701
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Title: Re:分骨について    
納骨の際などに宗教者を呼ばねばならないという決まりはありません。

ただし、墓地が宗教施設に所在している場合は、その施設の主管者による祭祀を行わねばなりません。正確にいうと、その施設の主管者の許可を得ずには何事もできないことは当然として、宗教施設に付随する場合には宗教儀式を行うことが許可条件となっているので宗教儀式が必要となるということですが。


一般的に儀礼というものは、習慣といいますか文化に属するものですから流行り廃りがつきものです。遺憾ながら、昨今は葬祭儀礼を簡略化したり省略することが「流行」となっております。 (註:人は世に棲んでいるという観点からすれば、身内だけで行い世間には閉ざされたものである家族葬は葬祭儀礼として不完全なものである)

その是非はさておき、宗教儀礼というものを必要とするならば儀礼のプロである宗教者を呼ばねばなりませんが、当然、プロを呼べば費用が発生するので費用対効果に応じて宗教者を依頼するかどうかを判断することはやむをえません。


以上、僧侶が儀式の主催者でしかなく、さらには葬祭儀礼の舞台装置となっているという反省を込めて。


Name:
Date: 2009/06/13(土) 14:18   No:2719
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Title: Re:分骨について    
お坊さんを呼ばないなんて、そんな納骨はありません。お経が一番大事なんですよ。お花や果物より、皆さんの気持ちより、お経が何より大切なんです。日時が合わないのならば、後日でも構わないのでお勤めをしてもらいましょう。


Name: まあ
Date: 2009/06/13(土) 16:28   No:2720
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Title: Re:分骨について    
簡単でもいいから、お坊さんにお経上げてもらった方が、気分的にも良いと思います。
滅びた肉体だけ納骨するより、魂に向かって合掌して、お坊さんの発声で、お念仏なり、お題目なり、般若心経なりを唱えた方が、思いが届き、心が通じ合うような気が致します。

お経や供養がいらないんだったら川や海にまけば良いです。

供養する前提で納骨するのですから、やらないと意味はない気がします。




Name: 蛍雪
Date: 2009/06/03(水) 23:35   No:2703
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Title: 参拝の心構えと    
参拝の心構えはどういう気持ちで行けばよいでしょうか?また、タイミング的にどういうときにその御礼参りに行けば宜しいでしょうか?


Name:
Date: 2009/06/13(土) 14:11   No:2718
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Title: Re:参拝の心構えと    
参拝の心構えとは、一言で言いますと、降参しました、参った参ったと頭が下がる事なんですね。
頭を下げる事は、気持ちが無くても、儀礼として形だけでも出来るんですが、頭が下がる、となるなかなか下がりません。お陰様、勿体ない事ですと参拝するのが、大事な心構えでありましょう。




Name: 学会っ子
Date: 2009/04/12(日) 21:31   No:2433
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Title: 正しい宗教ってあるのでしょうか?    
私の家は創価学会なのですが、友人から創価学会は間違ってるから、日蓮正宗に改宗するようにと勧められてます。
私は言うほど熱心ではありませんが、勤行唱題はしています。しかし、勧誘活動はしていません。なぜから、信仰は自分に合う宗教が一番だと思うからです。だから、相手の信仰している宗教を批判をして、正しい宗教と主張したくありません。だから、友人が熱心に勧められて困っています。本当に日蓮正宗は正しい宗教なのですか?



Name: nature
Date: 2009/04/12(日) 22:01   No:2434
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
都内で本屋をぶらついていたときに勧誘されたのが日蓮正宗でした(笑)。時間もあったので、興味半分でついていったら講座をやっており、終わった後に激しく勧誘されました。

自分は一応、檀家等の信者ではない(つもり)禅宗系のお寺にも行ったりしているので、そのことを伝えたら「禅宗系は地獄に落ちるよ」と脅されました。

正しい宗教とは何かを考えるのは難しいでしょうが、個人的には「地獄に落ちる」と人を不安にさせるのが宗教とは思えません。まぁ、好き嫌いもあるのでしょうけれど……。


Name: あるよ
Date: 2009/04/12(日) 22:55   No:2435
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
人を敬い、自然世界(神仏)を尊ぶこと。そしてすべてのものに感謝すること。


正しい団体はたぶん無いでしょうね。



Name: 勇気
Date: 2009/04/12(日) 22:57   No:2436
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
学会も日蓮正宗も、どっちもどっち。学会だって、正宗みたいな強い勧誘しているよ。
禅宗に行っているんだったら、そこの御住職に聞いてみたら?


Name: 学会っ子
Date: 2009/04/13(月) 04:46   No:2438
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
皆さんありがとうございます。
学会も以前は他宗教を否定して激しい勧誘をしていたのは知っていますが、現在は他宗教に対しては寛容的になっています。ただ日蓮正宗に対しては激しいですけどね。
私個人は日蓮正宗であっても寛容的でいたいと思っています。
私も正しい宗教なんて無いと思っています。


Name: 天台沙門
Date: 2009/04/13(月) 11:35   No:2442
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
「正しい」という言葉の意味するところによります。

(レベル1)
伝統宗教も新宗教も、その教義体系の内部構造は矛盾のないように設えられておりますから、どの宗教も「正しい」宗教です。したがって「正しくない宗教」があるとすれば、それは教義体系の内部に矛盾がある宗教ということになります。


(レベル2)
ところで、当スレッド内の言を例にとれば
>>「禅宗系は地獄に落ちるよ」と

との発言は、日蓮さんの四箇格言が基になっているので、「日蓮さんの言葉はすべて真である」という前提=信仰態度にたっている場合に「正しい」発言です。ただし、四箇格言は「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」なので、堕地獄は禅ではなく念仏のはずですが。
親鸞さんも、信じる人の発言を「すべて真である」とするのが信仰態度であるとの発言をしています。
Q「念仏をすれば、ほんとうに極楽に往けるのですか?」
A「わかりません。でも私が尊敬する法然さんが言っているから、そう信じているだけです」
意味内容はともかく、構造的にはnatureさんを「脅した」正宗の人も親鸞さんも、信じる人の言に従うという点で同じです。
ここで申し上げたいことは、宗教的な「正しさ」(おそらく信仰上の「正しさ」も)と、科学な「正しさ」とは弁別する必要がある、ということです。


(レベル3)
客観的=科学的な「正しさ」というレベルで宗教を語れば、「正しい」宗教はありえない、ということになります。科学とそうでないものとの区別をするために「反証可能性」というものが用いられます。「これこれの証拠があれば、自説は誤りである」とする態度のことですが、自己否定的な論理を構成する宗教など考えられません。
「地獄」・「極楽」・「神」など、有とも無とも真とも偽とも証明できないものを、「ある」としてしまうところから信仰が始まるのですから。 (註:そうすると「神」を必要とする宗教は信仰であっても宗教ではなく、「神」を必要とせず「縁起」による仏教は宗教であっても信仰ではないということになる?? というわけで、宗教と信仰も弁別する必要があることがわかる)

上記の例によれば、「地獄」が実在するのかという点、および「禅宗系は地獄に落ちる」ことが事実なのかという点、の2点の検証がなされなければなりません。いうまでもなく「地獄」は信仰上で実在することは確かですが、その存在は有とも無とも真とも偽とも証明できません。もし証明できたとした場合、次は「すべての禅家が地獄に落ちている」ことと「今後もすべての禅家が地獄に落ちる」を証明することが必要となりますが。……思想の歴史は、そういった証明の試みと反証の試みの集積だともいえます。


なお、釈尊ご自身は形而上の問題をとりあげることはなさらず、あくまでも個人の「苦」を解決することが修行の目的であるという立場を崩されませんでした。現代人以上の現実主義者であったろうと考えます。


Name: nature
Date: 2009/04/16(木) 12:32   No:2460
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
天台沙門様

>四箇格言は「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」なので、
>堕地獄は禅ではなく念仏

そうなんですか。。
見せられた巻物調のものには何とか地獄ということが書いてあった記憶があります。新興宗教なので、教えがどこかで変わって、地獄に落ちることになったのかもですね(笑)。

いずれにせよ、禅家がみな地獄行きなのであれば、死ねば自動的に地獄に行き白隠やら慧能やら偉い禅家の方々にお会いできるわけで……何とも楽しそうな話です(笑)。


Name: 天台沙門
Date: 2009/04/16(木) 15:06   No:2461
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Title: 真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊    
字面では、これが「正しい」ことになっています。

要点は、法華宗系の新宗教の方は「この信仰を持たないと将来の保証がない」と主張なさりがちというところです。こういってはなんですが余計なお世話でして、物理的に排除されないだけまだましでしょう。
日蓮さんが批判なさった浄土系の教学からすると「阿弥陀如来の本願によって誰もが等しく極楽往生する」ということで、これは理性的には「人は等しく死ぬ」というだけのことですし、感情的には「先に極楽に往った人に会えるかな」という「死」への「希望」の保証ということです。宗教や信仰は「希望」や「安心」を目的とするものというのが、私の理解です。 (註:正確には、日蓮が批判したのは法然の信仰態度であって、浄土信仰ではないようである)

価値判断なく「あの世」と「この世」という程度の区別のほうが、人は健全でいられるように感じます。……「この世」が「極楽」である人がいるのと同時に「この世」が「地獄」である人がいるというのが現実ですから。


Name: 須藤
Date: 2009/04/16(木) 21:31   No:2462
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
横から失礼。

念仏が地獄てはなく、法華だって口先だけで唱え、この世の苦から逃れ、あの世の事のみを考えることが、帰って地獄の業になると、日蓮聖人は申されたのです。
また、創価のように口先に題目を振りかざし、他を批判することは亡国ではありませんか。

当時の豪族同士の真言の祈祷を利用した呪いこそ、亡国なのです。


経典も法然さまも何にも批判してません。

宗教を利用した政治家を批判したのです。

それが立正安国論です。


Name: 須藤
Date: 2009/04/16(木) 21:43   No:2463
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
日蓮聖人は法然上人をそれほど批判していません。
善導に対して批判はしています。

法然さまは民衆を救う目的ですから、日蓮聖人と同じです。

禅天魔とは、民が苦しんでるのに手を差し伸べず、上求菩提のみに偏った事に対する批判です。

やはり有力者が絡んでいたのでしょう。



Name: 天台沙門
Date: 2009/04/18(土) 09:04   No:2475
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
須藤さん、ご指摘ありがとうございます。

日蓮さんの思想と四箇格言について議論することは、この場の趣旨ではないので、1点だけ自己弁護のために書き添えます。
拙文の「日蓮さんが批判なさった浄土系の教学」および「日蓮が批判したのは法然の信仰態度であって」との記述は『立正安国論』の「主人がいう。後鳥羽院の御代に法然というものあり『選択本願念仏集』というものを作った。これによって釈尊一代の聖教を破し、あまねく十方の衆生を迷わせた。」との記載を根拠としました。 (註:原文は以下の通り。「主人曰。後鳥羽院御宇。有法然作選擇集矣。則破一代之聖教遍迷十方之衆生。」大正蔵84-204c)


〈参考文献〉
『大正新修大蔵経・第84巻』
紀野一善・梅原猛『永遠のいのち・日蓮』角川文庫ソフィア

〈2009.04.19.07:00 追記=『立正安国論』の引用現代語部分の『選択集』を『選択本願念仏集』に修正〉


Name:
Date: 2009/06/07(日) 16:47   No:2707
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
立正安国論は法然そのものを破折した御書です。
先代の曇鸞等の書物を勝手な判断で解釈し、
釈尊の50年の一番大事な法華経を方等時の一部の念仏のほうが正しいと言ったのです。これは法華誹謗の罪にあたり、重罪です。


Name: 黒い犬
Date: 2009/06/13(土) 00:15   No:2710
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
こちらでは初めまして。

そもそも、宗教に正しいも正しくないもあるのでしょうか?
個人が信じたもので良いのでは???



Name: 一応学会員
Date: 2009/06/13(土) 05:21   No:2711
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Title: Re:正しい宗教ってあるのでしょうか?    
私も横から失礼致します。
この手の話題って、必ずと言って良いほど途中から、自分の宗派が正しいって、言い張り合いと相手の批判合戦の様相を帯びてきますよね?
果たして、そんな争いを釈尊は望んでいらっしゃるのでしょうか?
法華経系の宗派の方々、法華経安楽行品第十四、この教えは忘れ去られてしまったのでしょうか?

正しい宗教ですか、難しいですね。信仰している本人にとってなのか、第三者から見てなのかによって変るのではないでしょうか。





Name:
Date: 2009/06/01(月) 21:28   No:2691
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Title: (-人-)    
お寺さんにして頂いたモノが破られている可能性があります。そういう体験があります。……相談しても大丈夫でしょうか?



Name: 勝運寺山主 [URL]
Date: 2009/06/02(火) 08:16   No:2695
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Title: Re:(-人-)    
相談するべきです。

Name:
Date: 2009/06/04(木) 00:18   No:2704
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Title: Re:(-人-)    
はい。分かりました。ただ抜けているものが有りますので解り次第相談させて頂きます。たぶん破られてはいないけれど、何かあって心配してるんです。
その「何か」が一つではなくそして四月の事で……一旦意味が現時点は判らなかったけれど、明らかに体験した事で…… 「結論」破られてはいない。ただ、話したか交信しただけです。その内容は、起こせないはずです。
体験した事を思い出し以上の結論に至りました。
解決です。
ありがとうございましたm(__)m




Name: 先祖供養
Date: 2009/06/02(火) 18:21   No:2697
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Title: お位牌と宗派の違い・先祖供養.....    
私は日本生まれ日本育ちの在日三世です。
お寺とのお付合いがなく、父の代からお仏壇を祀ることにし
葬儀屋さんの紹介で浄土真宗のお寺を紹介して頂き、お仏壇も浄土真宗に決めて2年が経ち、この度祖母が他界した事をきっかけに今迄頂いていた疑問がどうしても解決したくなりました。
一気に今迄の疑問を書いていますが、ひとつだけでも結構なので、ご意見賜われれば幸いです。
どなたかお助け下さいませんでしょうか?

合掌


【仏壇:浄土真宗(お西さん)】
【先祖供養やおまいり:高野山真言宗】でも問題ないのでしょうか?


1)位牌について
1-1)祖父の位牌に祖母にも一緒に入ってもらう為、お寺さんをよんで魂をぬいてもらう為に来て頂きましたが、その際仏説阿弥陀経をよまれてお帰りになりましたが、位牌について(魂をぬく)何もおっしゃらなかったのが今になって疑問になりました。 今後、位牌はなくして過去帳だけにすべきか悩んでいます。

1-2)位牌に名前をいれた後、また住職をよぶべきかどうか?

1-3)仏壇屋さんのアドバイスに沿って購入したのに、なんでお位牌を買ってるのか記憶も定かでない今理由はわかりませんが、ひょっとして関西では浄土真宗でも位牌をおくのでしょうか? (魂をぬいてもらう御願いをした所、ご住職は何も言わず

2)お経/先祖供養について
2-1)先祖供養になるのであれば立派な住職の声のお経が良いかと、『浄土真宗本願寺派門信徒勤行CD』を毎日かけていましたが、本来先祖供養の為ではなく、どちらかというと子孫である自分用へのお経なのだと把握した今、今後どのお経をかけるか悩んでいます。またかけるとしたらどれがよいのか。。。

『浄土真宗本願寺派門信徒勤行CD』
 1佛説阿弥陀経
 2念佛添引和讚
 3回向
 4正信偈
 5念佛和讃六首
 6回向

2-2)以前、高野山の真言宗檀信徒勤行CDを流していたら仏具が二度落ちてきたことがありそれからは同じ宗派のCDしか流していませんが、やはりこれはよくなかったのでしょうか?

2-3)般若心経を母はよみますが、これも皆意見がばらばらで今後どうすべきか?
(読んでもいいという人もいるが、ネットなどで見るのは一般的によみませんとあるがはたして本来はどうあるべき?)

2-4)真言宗のお寺で先祖供養としてお坊さんにお経をよんでもらったり、毎月護摩たきを御願いしたりしています。 本来、神様に手を合わせ、お経をよんであげる先祖供養は大事でご利益もあると信じてきましたし、体感、納得できるとも感じてきました。 こういった先祖供養は続けるにはお仏壇をかえるべきなのでしょうか?

2-5)高野山の真言宗檀信徒勤行CDはかけることで先祖供養になりますか?

2-6)もし真言宗にかえたら毎日のお勤めは大変になるのでしょうか?
現在は、お仏飯、阿弥陀様用に葉っぱとお水をいれる仏具にお水だけいれて、お花をかざっています。
違いはよくわかりませんが、お線香はたてたり、半分におって寝かせたりしていましたが、お経CDの時間の関係で少しでも長いようにたてています。



Name: 天台沙門
Date: 2009/06/03(水) 10:01   No:2700
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Title: Re:お位牌と宗派の違い・先祖供養.....    
位牌も卒塔婆も仏像も、同じ機能を持った宗教的象徴物です。
神仏や先祖霊という目に見えない偉大な存在(Something the great)を、目に見えるようにするためのものです。より具象的なものが神像・仏像であり、抽象的なものが塔であり牌であると考えてよいでしょう。


1−1)
仏像はともかく、位牌については新調されたものに魂入れをすることが、そのまま古いものの魂抜きをしたことになる、という理解でよろしいのではないでしょうか。本来、真宗さんでは位牌を用いられず、よって魂入れ(開眼)も魂抜き(撥遣)もなさいませんのは自然なことと思います。 (註:ご葬儀のときに白木の位牌は普通に使われているようです)
「開眼供養」については、日本仏教史においては「東大寺の大仏開眼」という大イベントがあったくらいですから、もともとは儀式の種別程度ということでしょう。密教的に行うと格好が良いのですが、東大寺は密教伝来以前のことですから「開眼供養」と密教とは本質的な関係がないということになります。


1−2)
大切なことは、その位牌が具体的などなたかを表す「象徴物」となることをご縁のある方々で共通の理解をもつことです。それには、一定の儀式を行っておくとわかりやすいので、この意味から魂入れの法要をなさることをお勧めします。


1−3)
位牌には、故人の霊魂の「依り代」という意味がありますので、どうしても位牌がないと落ち着かないというのが日本古来の宗教感覚だと考えられます。真宗さんは、かなりに「原理主義」的なのですが、やはり風習や民俗(民族に非ず!)に根付いたものまでは否定しないというだけのことでしょう。 (註:浄土さんや禅宗さんと「そちらが加持祈祷なさるのは教学的にはおかしいよね」と、洒落半分で話をすることがある)


2−1)
2−4)
2−5)
個人的には、立派な声の僧侶のCDを仏壇の前で流すより、貴方ご自身が読経なさるほうが価値があると考えます。
あの手のCDは、お手本として聞いたり、お唱えしながら一緒に流すものです。カラオケの練習も、いきなりカラオケではなくて歌い手さんの声にあわせて歌うではありませんか?
また、先祖供養の本質は「どんな経典を読むか・どんな儀式をするか」ではなく、生きのこっている我々が「先に亡くなった縁ある人々を忘れない」ということだと考えています。ただ、仏教には色々な経典や色々な儀式の方法がありますから、ご自身にとっていちばん腑に落ちる教えを取り入れられればよろしいでしょう。


2−2)
偶然です。お気になさらぬよう。


2−3)
真宗さんの理論からすれば、阿弥陀如来の絶対他力を信じてさえいれば極楽往生できるから、『般若心経』などの経典を読誦したり自力の修行は必要ないということになっています。


2−6)
宗派宗旨で日常の勤行が大変になるかどうかは関係がありません。
天台宗を例にとれば、千日回峰の行者さんにとっての日常勤行は回峰行ですが、街寺の住職にとっての日常勤行は30分ほどの読経にすぎなかったりします。その人の立場や意識によって、なすべきことが変わってくるだけのことです。
灯明を点し、線香を捧げ、お茶やご飯を供え、端座してご挨拶をする。
仏壇のしつらえや、唱える経典は二の次です。


Name: 先祖供養
Date: 2009/06/03(水) 14:15   No:2702
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Title: Re:お位牌と宗派の違い・先祖供養.....    
天台沙門様

明瞭簡潔に階層立ててわかりやすく、優しくご指導、ご意見賜り心よりお礼申し上げます。 沢山質問していたにも関わらず、全てお答え頂いたのには更に恐縮に存じます。

宗教、宗派、お国柄、捉え方は違うものの今後在日が日本古来のお仏壇にお世話になる方法を模索していきたいです。
その中で、在日としての考え、捉え方は、まだ本土よりも少し遅れている為、ご先祖、目上を敬うことに慎重かつやや神経質になっていること、それにお経、お供え物をたくさんあげて先祖供養するという考えがあるので今後の捉え方を模索するきっかけになったことがあげられるのですが、その点は真言宗が近いのかなと今のつたない知識の中では感じている所でした。

余談ですが、幼稚園が浄土真宗さんで、この度お世話になったお寺さんが幼稚園の重職のお師匠さんだったことがわかり、またアメリカに住んでた際のホストブラザーが現在浄土真宗で得度されました。 阿弥陀如来様に小さい頃から守られてきていたのかもしれません。。。

末尾で恐縮ですが、再度、天台沙門様にお礼申し上げます。
また、あなた様にかみさま、ほとけさまのご加護がありますようにm(_ _)m

合掌




Name: うりぼう
Date: 2009/06/01(月) 22:34   No:2693
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Title: 開眼供養の意味    
 亡くなった父の四十九日法要が来週行なわれます。仏壇の御本尊様と位牌とお墓の開眼供養(魂入れ?)も併せて行なう予定です。
 ただ、ご本尊様の開眼供養は、なんとなく分かるのですがお墓と位牌の魂入れが分かりません。誰の魂を墓石や位牌に入れるのでしょうか?お通夜のときにお坊さんが人の魂は、亡くなったら四十九日になったら悟りの世界にいってしまうと云ってました。父の位牌には、誰の魂が入るのでしょうか?



Name: 勝運寺山主 [URL]
Date: 2009/06/02(火) 08:20   No:2696
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Title: Re:開眼供養の意味    
うりぼう様
位牌は貴方とご先祖様とのホットラインだと考えてください。


Name: うりぼう
Date: 2009/06/02(火) 22:07   No:2698
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Title: Re:開眼供養の意味    
勝運寺様、お返事ありがとうございます。
お墓の魂いれは、墓石を清めると考えればいいのでしょうか?




Name: てんてん
Date: 2009/04/09(木) 21:42   No:2406
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Title: 遺骨について    
父の生前、兄弟で費用を出し合いみんなが入れるようにと建てたお墓があります。
其処へ叔母の納骨をする事になったのですが、スペースがなく父のお骨をお墓の周りに撒かれてしまいました。13回忌の前のことです。
とてもショックでお墓参りに行く気持ちになれません。
父より前に亡くなっているお骨もあったのに・・・
父がかわいそうでなりません。
13回忌もしないうちに撒かれてしまうことなんてあるのでしょうか?
また、私にできることは何でしょうか?教えていただけますか?宜しくお願いいたします。





Name: 天台沙門
Date: 2009/04/10(金) 10:11   No:2416
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Title: Re:遺骨について    
遺骨の扱いについては地域の風習があるので一概には言えませんが、お墓の骨壺スペース(カロートと称します)が一杯になった場合、遺骨を骨壺から出して墓所に撒くことはよく行われます。また、50回忌や33回忌をめどに「骨を土に還す」ために骨壺からあけることも行われます。

>>13回忌もしないうちに撒かれてしまうことなんてあるのでしょうか?

まず、しません。上記の通り没後一世代は過ぎてからがめどです。
例外は、ご本人の遺志(またはご遺族の意志)による場合ですが、お父さまの場合には当てはまらないようですし、お説の通り「父より前に亡くなっているお骨もあった」場合、過去の遺骨から散骨するのが普通です。
この場合の問題は、そもそも誰がそれを決めたのかという点と、なぜカロート内部ではなかったのかという点です。


>>また、私にできることは何でしょうか?

まずは菩提寺さん(お父さんのご葬儀をなさったお寺さん、または叔母さんのご葬儀をなさったお寺さん)にご相談ください。「埋葬」に関わることは、地域の風習によることが強く一般論で解決できることが少ないので。

おそらく「遺骨を撒かれて」ということですと、そもそも撒く時点でご遺骨が「骨」の形をなくしている可能性が高く、改めて埋葬するための遺骨の収集が難しいかとも想像できます。ご遺骨が失われてしまった場合、ご本人が亡くなられた場所の石を骨の代わりに納めるか、散骨された場所の土を骨の代わりにしたり、または「野位牌」という小振りの白木の位牌を代わりに納めることをします。
「撒かれて」が「墓所の土の部分に埋められて」ということでしたら、ご遺骨を改めて納骨なさればよろしいでしょう。




Name: チエ
Date: 2009/04/05(日) 05:23   No:2375
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Title: 墓地について    
父のお墓の事なんですが生前父が「自分が死んだ時もし叶うことなら田舎の自分の親(父の親)のお墓に一緒に入れて欲しい」と私に話していて田舎の墓を守っている伯父に相談し心良く「私の父の遺言なら」と言うことでそのお墓に父の遺骨を入れて下さったんですがそれから3年経った今年、「やっぱりこちらの人(田舎)と相談したら一緒に入れるのはおかしいと言うことやから別にあんたの父さんの墓を作ったから」と言われたんですが親族が一緒に墓に入るのはそんなにおかしいことでしょうか。そのお墓に入れてもらったままだと父の父と母、伯父、伯母、いとこ(伯父の息子)と一緒の墓になってしまうことになるんですがこれはおかしいことでしょうか。私は叶うことなら父の遺言通りにしてあげたかったんですが不可能なことになり今、複雑な気持ちです。


Name: 天台沙門
Date: 2009/04/05(日) 10:05   No:2378
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Title: Re:墓地について    
>>こちらの人(田舎)と相談したら一緒に入れるのはおかしい

別におかしなことはありません。
「おかしい」との理由は、「墓は家ごとの物で、他家の者の遺骨を入れるべきではない」というものでしょうが、本来、墓所は一族のものであって家のものではありませんでした。沖縄の亀甲墓が現在にも残る実例です。
現在のような「家ごとの墓所」が一般化するのは、戦後に旧民法が廃止されて「家督制度」が亡くなってから以降のことです。私の預かる寺の旧家の墓所には、地方からの雇い人や行路病者も埋葬されている実例もあり、つまり墓所とは「縁のある人々」に開かれたものでした。
現在の墓は、実際には「家」ではなくて「世帯」ごとのものとなっています。

「おかしい」とおっしゃる「こちらの人」に、そのおかしな理由を訊いてみたいものですが、ところで貴方(とお母さま)がたは季節ごとの墓参や、その折の伯父さまへのご挨拶をなさっておられましたか?


Name: チエ
Date: 2009/04/05(日) 12:09   No:2380
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Title: お返事ありがとうございます。    
田舎の伯父さん(本家)とは私自身は父が亡くなるまで遠方ということもあり疎遠気味であまり親しくしていませんでした。田舎のお墓もお参りは小さい頃に一回だけしただけです。田舎のお爺さん、お婆さんも私が生まれるずっと前に亡くなっているため顔も知りません。ただ父から写真は見せてもらったりしてました。ですから伯父さんにすれば虫が良過ぎる話なので敬遠されたのかも知れません。でも父は田舎の自分の兄弟とは親しく付き合って(もちろん)いましたし季節の葉書きもやり取りしていましたし、たまにお歳暮を送ったりもしてました。自分の兄弟が亡くなると皆こんな感じになるんですかね。

Name: 通行人
Date: 2009/04/06(月) 07:19   No:2382
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Title: Re:墓地について    
三年もお父様の墓前にお参りせず、伯父様の一家にお任せでは伯父様も気分を害されるのでは無いですか?
お墓は骨の捨て場ではありません。
私は旧家を継いでいますが、本家の墓と無縁になってしまった大伯母の嫁ぎ先のお墓をお守りさせて頂いてます。
分家のお墓にもお参りします。
過去帳に江戸時代のご先祖様の戒名も記載されてますので、顔の知らないご先祖様は沢山いらっしゃいますよ。
何代遡ろうと私のご先祖様に間違いありませんので、なんの疑いもなくご供養させて頂いてます。


婿養子の父の実家は900キロ程離れてますので二年か三年に一度しかお参り出来ないので父の実家に
「いつも、ご先祖様のご供養有り難う御座います。お参りに行けず済みません。仏壇とお墓にお供え頂けますか。宜しくお願い致します。」と一言手紙を添えて従兄にお線香を送ったりしてます。
心ではないでしょうか。
伯父様一家に感謝が伝わって居なかったのかも知れませんね。

その事をお詫びされて今までの感謝をお伝えされたら如何ですか?
余計なお世話であれば読み捨てて下さいね。

ご先祖様にお心が届くことを祈ってます。
合掌


Name: 天台沙門
Date: 2009/04/06(月) 09:07   No:2383
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Title: Re:墓地について    
おはようございます。

拙文での「ところで貴方(とお母さま)がたは季節ごとの墓参や、その折の伯父さまへのご挨拶をなさっておられましたか?」の趣旨は、それなりの礼儀を尽くしておけばいったんは納骨した遺骨を別の墓に移すこともないのだろうけれど? という老婆心によるものでした。


>>別にあんたの父さんの墓を作ったから」と言われたんですが

「遠方で疎遠」になっていたとはいえ、いったんは納骨を受け入れてくださり、新規の墓所を造ってくださったりと、基本的に伯父さまは仁義(肉親との関係にふさわしい表現か疑問ですが)をわきまえた方と想像できます。 (註:実は、別に作られた墓所がどういったものかにもよるのだが)

別稿でも書きましたが、「親の墓に入りたい」という希望をかなえるために「分骨して納骨する」という便法があります。
貴方の文面上では、お母さま(=お父さまの妻)のことが不明ですが、「お父さまとお母さまの墓所」という考えも必要となります。墓地というものが「一族のもの」から「世帯のもの」に変わったように、将来的には「世帯のもの」から「夫婦のもの」や「個人のもの」に戻っていくでしょうから、遠方のお父さまの故郷にお父さまの遺骨だけを納めておくのも不都合が生じると感じますので、そういったこともあわせてお考えいただければとおもいます。


Name: チエ
Date: 2009/04/06(月) 20:33   No:2386
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Title: 再度のお返事ありがとうございます。    
父が亡くなってから3年もお墓参りに行ってないことはないですよ。むしろ父が亡くなってお墓に入ってから一年に一回の祥月命日には必ずお参りに行っていますよ。自分の親ですからね。お墓参りに行かなかったって言うのは父が生きていた頃です。言いたくはなかったのですが母は私が中学2年の時父と離婚して今現在は疎遠になっていて何処にいるのかもわかりません。ですから私は中学生の頃から男手一つで父に育ててもらった訳です。ですから亡くなった今、父には凄く感謝しています。父が亡くなってから田舎の伯父さんとも親しくなりいろいろお世話になっており感謝していますし毎年お歳暮も送らせて頂いてますよ。田舎に行く時はお仏壇にお供えと伯父さん伯母さんにはお菓子などの手土産を持参しています。本当にお世話になっていますから。

Name: 天台沙門
Date: 2009/04/07(火) 10:40   No:2389
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Title: Re:再度のお返事ありがとうございます。    
事情のご開陳、有難うございました。

ならば問題は、
「やっぱりこちらの人(田舎)と相談したら一緒に入れるのはおかしいと言うことやから別にあんたの父さんの墓を作ったから」
と伯父さんにおっしゃった「こちらの人」のご意見が伯父さまに対しての影響力ということになります。

すでに述べた通り「一緒に入れるのはおかしい」ということはありません。
実際問題として、すでに
>>父の父と母、伯父、伯母、いとこ(伯父の息子)と一緒に

ということですから、お墓の管理をなさっている伯父さまのご兄弟ご姉妹(貴方の「伯父、伯母」)も眠られていると理解でき、貴方のお父さまだけを「おかしい」となさるほうがおかしいとしか言いようがありません。

「父の遺志ですから」という点を強調なさって、現状のままにご一緒にいられるようお願いなさるのがよろしいのですが、伯父さまがどうしても改葬を求められるのであれば、次善として分骨したご遺骨をお父さまのご両親と一緒になさることをお願いなさるしかないでしょう。




Name: 児湯
Date: 2009/03/14(土) 21:52   No:2268
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Title: 僧侶と一般人の違い    
僧侶と一般人の違いは何でしょうか?
戒律を護り生活をしている事と授戒を受けている事と………



Name: 巳朱
Date: 2009/03/15(日) 04:51   No:2269
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Title: Re:僧侶と一般人の違い    
違いなんぞ考えるのは、ナンセンス。

どちらも同じ人間。

現代において、僧侶というのは、人が持つあまたの肩書きのひとつでしかない。

お釈迦様が生きてらした時代。空海が高野山を本拠地にして仏法を広めていた時代においては、僧侶はエリート集団だったけどね。
一般大衆は、自分の名前すら書けない文盲だったし、仏の教えについて深く考える事が出来るだけの自由になる時間も無かった。
日々、生きるだけで精一杯の時代だったから。
それ故に、仏法について学びたいと思えば、出家して僧侶になる他無かった。
経典を読めるように文字を習い、深く理解する為に思索する時間を作る為の苦肉の策が、出家だったわけだ。

今の世の中、少なくとも日本では、文字の読み書きの出来ない人は、ほとんどいない。
誰もが、余暇の数時間ぐらい、1日の内に作れるだけの豊かさと自由を持っている。
その時間を、どう使うか考えればいい。

現代社会で僧侶というのは、あまたある職業のひとつに過ぎない。

僧侶の肩書きにふんぞり返っていれば、それは凡夫と変わりない。




Name: 児湯
Date: 2009/03/16(月) 23:54   No:2288
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Title: Re:僧侶と一般人の違い    
発見、修行をしているかいないかですね。
ただ、修行だけ?どういった意図や意味なのでしょうか?
人は草木の様に生きられますか?


Name: nature
Date: 2009/03/17(火) 12:38   No:2291
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Title: Re:僧侶と一般人の違い    
>発見、修行をしているかいないかですね。

「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」という言葉がありますが、別段寺でなくとも修行は可能です。「発見」「修行」を行うのが僧侶だけの特権、ということはないと思われます。

>どういった意図や意味なのでしょうか?

現代のお寺での修行の意図は、単に寺を継ぐためというのが大半ではないでしょうか。中には在家出身で、真実の自己を見極めたいとか、求道心をもって修行される方もいらっしゃいますが。

>人は草木の様に生きられますか?

草木の様とはどんな状態でしょうか?「人間の様」とはどう違うのですか?

道元の言葉に「眼横鼻直(がんのうびちょく)」というのがあります。草木の様に生きることと人間が「人間の様」に生きること……草木の様に生きたいですか?


Name: 児湯
Date: 2009/03/17(火) 21:38   No:2297
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Title: Re:僧侶と一般人の違い    
歩歩是道場とは言っても、ある程度知識と力を兼ね備えて要る人の場合ですよね。それ以外は、独りよがりの自己満足になったり力がある性で危険視や軽蔑の対象になります。よって、歩歩是道場は趣味の範囲内で仏教や宗教の修行をやって行く事は可能という事ですね。

『草木の様に』とは、罪穢が少ない生活を指したのですがすみません。自分の思い込みで書きました。神道では神様が寄り代にするものは、大抵大木や岩という事でそうなんじゃないかなと…。


Name: nature
Date: 2009/03/19(木) 11:47   No:2308
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Title: Re:僧侶と一般人の違い    
>歩歩是道場とは言っても、ある程度知識と力を兼ね備えて要る人の場合

禅宗でいくとですが、六祖慧能は修行という修行はやっていない人です。
まぁ、力はあったということなのでしょうが、児湯様の理論でいくと『趣味の範囲内で』悟れる人もいるということでしょうね。何をもって「修行」とするかにもよるのでしょうが。

>神道では神様が寄り代にするものは、大抵大木や岩

アニミズムの話でしょうか。日本には八百万の神がいますので、神が宿るのは木や岩に限らず、しゃもじでもお釜でも何でもありかと。。
罪や穢れの少ない生活……宗教にもよるでしょうが、仏教でいくと生きているものの生命を頂かなくては生きていけないのが人間です。教えには「殺生はするな」というのがありますね。


Name: K
Date: 2009/04/03(金) 17:42   No:2363
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Title: Re:僧侶と一般人の違い    
信仰者とは人間の存在の意義を考える存在だと思っておりました。一般の生活者はそれを深く考えることができないが故に葛藤する存在であるということに違いがあると思います。今、私は生き方を見失っていて、あるお寺にお話を聞きにいこうとしたわけですが、そこで言われた言葉は「仏教もビジネスですから」というものでした。非常にショックでした。何をもって、求道者と一般人を区別すればいいのか、僧侶とは何をする職業なのでしょうか。

Name: nature
Date: 2009/04/04(土) 11:42   No:2367
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Title: Re:僧侶と一般人の違い    
「一般の生活者」と「信仰者」は別物ではありません。一般の生活者が“人間の存在の意義を考えられない”なんてことはないと思いませんか? 首の上にみな1つちゃんと頭がついてますよ。在家の信仰者に失礼な表現と感じられます。

しかもこの情報過多時代。仏教書だって巷に溢れています。昔と違っていくらでも仏教を学んで、自ら思索を深められる時代です。それをしないのは「自分がしないから」、ただそれだけです。

にしても「仏教もビジネスですから」と言ったお寺さん、正直なお寺さんですね。すがすがしいくらいです。嘘を言ってはならない、という仏教の戒めが守れているのではないでしょうか。

訪問したお寺さんですが、家族が一緒に生活してませんでしたか? 今の日本のお寺さんは、だいたいが家族がいて、固定の住まいがありますよね。これは日本仏教の特色でして、「出家」ではなく「在家」のお坊さんです。つまり在家の信者の生活と全く変わらないんですよ。世界の仏教の集まりでは一人前として扱われないそうです。

家族がいれば生活を守らなくてはなりませんので、「ビジネス」にならざるを得ません。ビジネス以外の部分を残すか否かは、お坊さんの心1つにかかっています。「慈悲」といえばいいのでしょうか。

相談に行くのであれば、おそらく一般の信者のために行事をやっているお寺がいいと思いますよ。坐禅会とか。もちろん、ビジネスでやっているお寺もあるかとは思いますが、慈悲心からやっているお寺もあると思われますので、「当たる」可能性もでてくるかと。


Name: 天台沙門
Date: 2009/04/06(月) 13:47   No:2385
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Title: Re:僧侶と一般人の違い    
誤解を恐れずに言えば「瀬戸内寂聴および玄侑宗久」と「梅原猛および島田正己」の違いです。

大前提として「仏教徒」という範疇で話を進めますが、僧侶も一般人も三宝に帰依して生活しているという点では同等です。
辞書的に区別をすると「僧侶」=「比丘・比丘尼」=「出家修行者」・「一般人」=「優婆塞・優婆夷」=「在家信者」となり、出家と在家の違いは依って立つところの戒律の違いになります。世俗にある分、在家者のほうの戒律が緩く、出家者のほうが厳しいというわけです。戒律の有無が出家と在家の違いというわけではありません。 (註:タイあたりだと、高校を卒業して出家修業をし、還俗をして大学に入り就職し、生活が許せば退職して出家修行をし、また還俗して再就職というライフサイクルが確立しており、要するに仏教に関わる立場の違いでしかない。)

なお「戒律」という観点からすると、日本の「僧侶」は、飲酒肉食妻帯が当然となっており、国際的には「異端視」されております。日本の僧侶は、歴史的・文化的に「比丘・比丘尼」ではなく「僧衣をつけた優婆塞・優婆夷」となっていると理解すべきなのでしょう。 (註:世間で生きる僧侶が「優婆塞・優婆夷」でいられずには済まされないだけで、「比丘・比丘尼」が存在しておられる事実はお間違えなきよう。)

そう考えると、現在の日本社会における「僧侶と一般人の違い」は、他の職業と同じく、その「専門性」に立脚すると考えるべきではないでしょうか。

「専門家」のことを「professional」と称しますが、もともと中世欧州において医師・法曹・宗教者が、その職業の専門性において依頼者が誰であろうと最善を尽くすことを「プロフェッション=宣言」したことが起源とされます。
宗教者の専門性とは「神仏という偉大な存在と一般の人との仲介すること」にあるといえます。具体的に現在の事象に即して言えば、不安を取り除き希望を与えることであったり、宗教儀式を厳かに美しく執行することであったり、宗教の教理を簡潔に日常言語で説明することでしょう。

ですが、「抜苦与楽」については宗教者よりも医師やセラピストやカウンセラーの「専門性」が勝ってしまっているのが事実ですし、わかりやすい教理の解説にしても瀬戸内寂聴や玄侑宗久といった一部の僧侶を除けば不得手であることに間違いはありません。
すると、残るのは「儀式の荘厳」ということになります。島田正己は「日本の仏教はひとつの伝統芸能だ」と指摘しております。これは善悪の問題ではありません。唱えられている経文が何を言っているのかわからなくとも、法要に感動する人がいるのは事実ですから。 (註:これを皮肉ったのが、金襴の袈裟に布施を供えた、という一休宗純の逸話)

宗教者の「専門性」の裏付けるものは、神仏という偉大な存在や人としてあるべき姿について語る場合の「説得力」であろうと感じております。その「説得力」を担保するものが、修行の実践であったり信仰心の深さであったりというものでしょう。





 
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